息を止める夜
昨日の録音を、私はもう四十回聞いた。
何度聞いても、私が息を止めていた三秒間は、きれいな無音のままだった。誰かが息を吸った、あの時間だけが、どこにも録れていない。聞こえたのに。確かに、耳の奥では聞こえたのに。
翌日の夕方、私は机の上を全部ばらした。
耳型マイクを箱から出し直し、ケーブルを抜いて、もう一度差す。オーディオインターフェースのつまみをゼロに戻し、いつもの位置までゆっくり上げる。OBSの入力も、ローカル録音の設定も、ノイズ抑制も、昨日と変わっていない。
変わっていない、ということがいちばん怖かった。
どこか一つでもおかしければ、そこを直して終われた。接触不良。イヤホンの断線。PCのファン。外の車。そういう名前のある音にしてしまえば、私は今夜も普通に配信できる。
でも、昨日の録音には何もなかった。
私は昼間に三回聞き返した。ヘッドホンではなく、スマホのスピーカーで。PCのスピーカーで。安いワイヤレスイヤホンで。どれにも、あの吸うだけの呼吸は入っていなかった。
だから余計に、今夜が怖い。
配信予定時刻は、二十三時五十分。
休む理由は作れた。体調不良。機材トラブル。親戚の用事。なんでもいい。コメント欄のみんなは優しいから、きっと心配してくれる。
でも、今月の家賃は優しくない。
私はフリーターを辞めて、配信と短い編集仕事で生活している。余裕なんてない。メンバー限定のアーカイブ、投げ銭、広告。深夜に眠れない人たちの耳元へ声を届けることで、私はこの部屋の鍵を持っている。
怖いから今日はやめます、なんて言えるほど、生活は軽くなかった。
開始前、スマホを三脚に固定して、画角を確かめる。映るのは机、マイク、私の手元だけ。顔は出さない。背景に余計なものも映さない。いつもの安全な画面。
なのに、左の耳型マイクだけが、昨日より白く見えた。
「……気のせい」
声に出してから、私は配信開始ボタンを押した。
赤い表示が灯る。視聴者数は一桁から、すぐに五十、百二十、二百へ伸びていく。画面の右を、夜更かしの小さな言葉たちが流れ始めた。
『きた』
『ねむちゃんこんばんは』
〈待ってた〉
『昨日のアーカイブ寝落ちした』
『今日も左耳多め希望』
左耳多め。
私は指を止めないように、コルクのコースターを持った。
「こんばんは、佐倉ねむです。今日は少しだけ機材チェック多めで、ゆっくりタッピングしていきますね」
こつ、こつ、こつ。
右。左。中央。
OBSのメーターが、私の音に合わせて緑色に揺れる。いつも通り。正常。私はその動きを何度も見た。メーターは嘘をつかない。少なくとも、録音に残る音については。
「念のため、最初だけ無音チェックします。少し黙りますね」
『おけ』
〈無音助かる〉
『もう眠い』
私は口を閉じた。
部屋の音が広がる。冷蔵庫の低い唸り。PCファンのかすかな風。外の道路を走るタイヤの音。ヘッドホンの左右に、現実の夜が薄く敷かれている。
何も聞こえない。
十秒。
二十秒。
大丈夫。
「ありがとうございます。じゃあ、右から」
私は右耳にブラシを近づけた。毛先が耳型マイクを撫でる、乾いた柔らかい音。コメント欄の速度が落ちる。みんなが眠る準備に入る合図だ。
『音よすぎ』
『このブラシ好き』
〈右耳きもちいい〉
右は平気だった。
私は左へ移る前に、わざと水を飲んだ。喉の音をごまかすためじゃない。自分の呼吸を、ちゃんと自分のものだと確認したかった。
吸う。
吐く。
私の胸が上下する。ヘッドホンの中で、その息が小さく鳴る。自分の鼻と喉を通った音。距離も、位置も、わかる。
「左、いきます」
毛先を左の耳型マイクへ当てた瞬間。
すう。
私は手を止めなかった。
止めなかった、つもりだった。
でもブラシの音が半拍だけ遅れた。コメント欄は気づかない。私だけが、その短い空白を聞いた。
昨日と同じ左。
ただし、昨日より少し前にいる。
ヘッドホンの左奥ではない。耳たぶの横でもない。今夜の呼吸は、左耳の入口に唇を近づけているみたいだった。音量は小さい。けれど距離が近い。息の温度があるような近さだった。
すう。
私は息を止めた。
すう。
もう一つ、吸った。
ぞっとした。
昨日は、私の呼吸と別に聞こえていただけだった。今日は違う。私が吸うと、そのあとに一回、誰かが吸う。私が止めても、その一回だけは残る。
まるで、私の呼吸をまねている。
『左ちょい音小さい?』
『寝そう』
〈ねむちゃん今日静か〉
『大丈夫?』
「大丈夫です。ちょっと、ゲイン見てます」
嘘は配信者の声で出た。私は左手でブラシを動かしながら、右手でインターフェースのつまみに触れる。左チャンネルのゲインをほんの少し下げた。
ブラシの音は小さくなる。
呼吸は、小さくならない。
今度はヘッドホン側のモニター音量を下げた。全体の音が遠くなる。私の声も、ブラシも、部屋のノイズも細くなる。
呼吸だけが、同じ距離にいる。
私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。モニターの中にいるのではない。録音の中にいるのでもない。音量のつまみでは遠ざけられない場所から、聞こえている。
『機材トラブル?』
〈無理せんで〉
『聞こえてるよー』
『いや普通に良音』
聞こえてるよー、の文字に、私は反射的に画面へ顔を近づけた。
何が聞こえているの。
そう訊きたかった。でも訊けば、配信の空気が変わる。癒しに来てくれた人たちを、私の不安に巻き込んでしまう。
「少し、左右の定位を確認しますね。右、左、右、左って、ゆっくりいきます」
私は右のマイクへ爪を立てた。
こつ。
左へ。
こつ。
右。
こつ。
左。
こつ。
すう。
左のこつ、の直後に、必ず入る。音としては小さい。けれどリズムがある。私の作る音の隙間を選んで、そこに吸い込むように入ってくる。
OBSのメーターは、タッピングにだけ反応していた。
緑の棒が伸びる。戻る。伸びる。戻る。
呼吸のところでは、動かない。
私は画面下の録画ボタンを確認した。ローカル録音は回っている。昨日と同じなら、あとで聞き返しても何もない。ないはずの音に、私は今まさに手順を乱されている。
『今日の無音、逆に眠れる』
『心拍上がってる?』
〈左耳ぞわぞわする〉
『ぞわぞわ分かる』
左耳ぞわぞわする。
そのコメントで、コメント欄の温度が少しだけ変わった。眠い、助かる、好き。そんな丸い言葉の中に、細い針みたいな反応が混じる。
〈なんか左だけ圧ある〉
『低音強い?』
『俺は何もわからん』
〈ヘッドホンだと近い〉
近い。
私だけじゃないのかもしれない。
そう思った瞬間、安心より先に恐怖が来た。私の頭の中だけなら、疲れのせいにできた。私のヘッドホンだけなら、機材のせいにできた。けれどコメント欄の誰かが、左の近さに触れ始めている。
私は台本にない笑いを、息で薄く混ぜた。
「今日は左の音、少し近めにしてます。耳元で、ゆっくり」
すう。
言い終わる前に、また吸った。
私の声の終わりを待っていたみたいに。
視聴者数は三百八十六人。昨日より多い。コメントも、いつもより速い。誰かが切り抜き用のタイムスタンプを打ち始めた。
『今の間よかった』
『息遣いリアル』
〈ねむちゃん息近い〉
『これは眠れる』
息遣い。
リアル。
私はブラシを机に置き、両手を膝の上で握った。息を吸わないように、口を閉じる。鼻も止める。胸を動かさない。配信中にこんなことをしている自分が馬鹿みたいで、でも確かめずにはいられなかった。
五秒。
十秒。
ヘッドホンの左で、誰かが静かに吸った。
すう。
私の胸は、動いていない。
その瞬間、OBSのメーターが、一目盛りだけ跳ねた。
緑色の棒が、左チャンネルだけ、ぴくりと上がって、すぐに戻った。
コメント欄が止まったように見えた。実際には流れている。私は読めなかった。目が、メーターの左端に貼りついたまま動かない。
いまのは乗ったのか。
配信に。
録音に。
それとも、メーターだけが反応したのか。
私は息を止めたまま、もう一度待った。肺が痛い。喉が鳴りそうになる。目の奥が熱い。なのに、左耳のすぐそばで、次の呼吸が用意されている気配だけがした。
すう。
左チャンネルのメーターが、また一目盛り、上がった。
私はそこで初めて、息を吸ってしまった。
コメント欄に、ひとつだけ遅れて流れた。
『ねむちゃん、今マイク触ってないよね?』
私は答えられなかった。
配信中の赤い表示の下で、私が両手を膝に置いたままなのに、左の入力だけが、三度目の呼吸に合わせて小さく震えた。
(第3話へ続く)




