モニターの呼吸
午前一時五十八分。
部屋の照明を落として、机の上の小さなリングライトだけを点けると、六畳のワンルームは急に配信部屋らしくなる。白い壁、吸音材を貼った一角、黒いマイクアーム。マイクの左右に置いたシリコン耳は、暗がりの中で妙に人の気配を持つ。
怖がりのくせに、私はこの時間を仕事にしている。
「こんばんは。佐倉ねむです。今日も眠れない人、作業のおともがほしい人、少しだけ耳を貸してください」
「最後まで聞いてくれた人の右耳にだけ、おやすみのささやきを置いていきますね。……それが、わたしの配信の、おまじないです」
声を落として囁くと、OBSの音量メーターが緑色に細く揺れた。ヘッドホンの中で、自分の声がすぐ近くに戻ってくる。右耳、左耳、中央。息の量を間違えないように、唇をマイクから十五センチ離す。
配信開始から三十秒。視聴者数は二百四十一人。
『きた』
『今日も寝落ちしにきた』
『ねむちゃん声ちいさめ助かる』
〈通知で起きた。寝る〉
この、最初の数十コメントが好きだ。誰かの部屋の明かりがひとつずつ消えていく感じがする。私はその消灯係みたいな顔をして、実際には明日の家賃とカードの引き落としを頭の隅で数えている。
仕事を辞めて一年。ASMR配信だけで暮らせている、とはまだ言えない。月末になると胃が痛いし、スーパーチャットの音が鳴るたびに、ありがたさと情けなさが同じ重さで胸に落ちる。
だから、多少体調が悪くても、深夜枠は切れない。
「今日は、綿棒と、紙をめくる音と、あと少しだけタッピングをします。大きな音は出さないので、音量そのままで大丈夫です」
私はスマホの画面でコメント欄を確認し、配信用PCの録画ボタンも押した。念のため、ローカル録音は毎回残している。切り抜き用でもあり、トラブル確認用でもある。
まずは綿棒。
右の耳型マイクの縁を、ふわりとなぞる。ヘッドホンの右側で、細い繊維が皮膚をかすめるみたいな音がした。左も同じように。視聴者数は二百八十六人まで増えて、コメントの速度はゆっくり落ち着いていく。
『右すき』
『音ちょうどいい』
『今日は低めの声?』
〈寝る準備完了〉
「低めかも。さっきまで隣の部屋のテレビが聞こえてたから、ちょっと小声です」
うちは角部屋ではない。築二十七年のマンションで、壁は厚くない。深夜になると、廊下を歩く足音や、どこかの配管が鳴る音がよく聞こえる。怖い話が苦手な私には、それだけで十分すぎるくらい怖い。
でも配信中は違う。
ヘッドホンをしている間、部屋の音はほとんど消える。聞こえるのは、私が作った音だけ。私の指先、私の声、私の呼吸。コントロールできる音だけの小さな世界。
そのはずだった。
配信開始から二十八分。紙を一枚、ゆっくり折ったときだった。
ヘッドホンの左奥で、すう、と音がした。
最初は、自分の息だと思った。
ASMRは呼吸も音になる。マイクが近いぶん、ほんの少し鼻から抜けただけで、リスナーの耳元に届いてしまう。私は喋るのをやめ、口を閉じて、もう一枚紙を持ち直した。
すう。
今度は、はっきり左。
私の左耳の、さらに奥。ヘッドホンのクッションの向こう側ではなく、音声として混じっている。吸う音だけ。吐く音はない。
手が止まった。
OBSのメーターを見る。紙の音を止めたから、緑のバーはほとんど動いていない。コメント欄は穏やかなままだった。
『紙の音すき』
『今の間もよかった』
〈寝かけた〉
『無音たすかる』
無音。
みんなには聞こえていない。
「……ちょっと、紙を変えますね」
私は声を震わせないようにして、机の端のコピー用紙を取った。自分の声はいつも通り、近すぎず遠すぎず、中央にある。メーターも正常。ノイズゲートも、リミッターも、いつもと同じ設定。
気のせい。
そう決めて、指の腹で紙の表面を撫でる。
しゃり、しゃり。
左耳の奥で、また吸う。
すう。
今度は少し長かった。三秒くらい。私が息を止めている間に、誰かが私の代わりに息を吸ったみたいだった。
背中が冷たくなる。
部屋のエアコンは切ってある。窓も閉めた。換気扇も、配信前に確認した。マイクの近くに風を出すものは何もない。
それなのに、ヘッドホンの左側だけ、空気が動いている。
『ねむちゃん?』
『止まった?』
〈大丈夫?〉
『紙もっと近くてもいいよ』
コメントの色が少し変わった。心配というより、配信上の間を気にする温度。私は慌てて笑った。笑い声も囁きに変える癖がついているから、たぶん不自然ではなかったと思う。
「ごめんね、ちょっと手元がすべりました。じゃあ、耳元でゆっくり、いきます」
生活のため。
その言葉を胸の内側で握る。怖くても、急に切ったら心配される。心配されれば、次から人が減る。人が減れば、支払いができない。二十四歳にもなって、そんな計算で恐怖を押し込めている自分が嫌だった。
私はマイクの右側に寄って、右耳だけに囁く。
「右、失礼します」
右耳に紙の音。
しゃり。
左耳で、すう。
位置が変わらない。
私が右に寄っても、その呼吸は左奥にいる。マイクの左右ではなく、私のヘッドホンの左側に固定されているみたいだった。
喉が鳴りそうになって、慌てて飲み込む。
視聴者数は三百十二人。コメントは減っている。寝落ちする人が出始める時間だ。誰かが眠っていくほど、私はこの部屋に一人だけ残されていく。
『今日めちゃ眠い』
『左もください』
〈音きれい〉
左もください。
そのコメントを見た瞬間、指先がしびれた。
左には行きたくなかった。左の耳型マイクのそばに、何かがいる気がした。もちろん、目で見れば何もない。黒いマイク、白い耳型、机の上の綿棒ケース。さっきまでと同じ。
でも音は、目より先に届く。
私は息を浅くして、左のマイクへ顔を寄せた。
「左、いきますね」
囁いた直後。
すう。
近い。
さっきより、明らかに近かった。左耳の奥ではなく、左の耳たぶのすぐ横。ヘッドホンの中で、誰かが私と同じマイクを覗き込んでいる距離。
心臓が跳ねた。その音まで拾われた気がして、私は机の下で膝を押さえた。
OBSのメーターは動いていない。
なのに、私の耳では、呼吸だけが続いている。
すう。
間。
すう。
吸って、吸って、吐かない。
人間の呼吸じゃない。そう考えた瞬間、もう駄目だった。指が勝手にスマホへ伸びる。終了ボタン。赤い四角。押せば終わる。押せば、この音から離れられる。
でも画面の上で、コメントが流れた。
『今日もありがとう、助かってる』
〈明日早いから寝ます〉
『ねむちゃんのおかげで眠れる』
私は手を止めた。
情けない。怖いのに、ありがたい言葉ひとつで逃げられなくなる。
「……じゃあ、最後に少しだけ、マイクブラシします。寝る人は、そのまま寝てね」
声が少し掠れた。誰かに気づかれないよう、私はブラシを持つ手をゆっくり動かした。左右を均等に、いつもの手順で、いつもの音を作る。
右。
左。
右。
左。
そのたびに、左耳の呼吸がほんの少しずつ大きくなる。音量を上げたわけじゃない。距離が詰まっている。遠くのエアコンみたいだったものが、耳元の人の鼻息に変わっていく。
すう。
ブラシの毛先がマイクに触れる。
すう。
私は唇を噛みそうになって、慌ててほどいた。配信中に血の味なんていらない。
『寝る、おやすみ』
『おつねむ』
〈アーカイブ残して〉
『最後の音よかった』
最後の音。
みんなには、ブラシの音だけが届いている。
私は予定より十分早く、配信を終わらせた。
「今日も来てくれてありがとうございました。あったかくして寝てください。おやすみなさい」
終了ボタンを押す。配信中の赤い表示が消える。視聴者数の数字が、三百二十七からゼロに変わる。
ヘッドホンを外した。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の低い音。遠くを走るバイク。上の階で何かを置く小さな音。どれも普通の夜の音だった。左側に誰かがいる気配もない。マイクの横を見ても、机の下を見ても、ベッドのほうを見ても、何もない。
私は笑おうとして失敗した。
「……疲れてるだけ」
声に出すと、嘘が少しだけ本当っぽくなる。
念のため、ローカル録音を再生した。配信が始まるところからでは長いので、紙の音が止まったあたりまで波形を送る。ヘッドホンはもう使いたくなくて、PCの小さなスピーカーから音を出した。
私の囁き。
紙を撫でる音。
少し長い無音。
コメントを気にして取り繕う、私の声。
そこに、呼吸はなかった。
何度戻しても、なかった。
私は再生位置を、最後のマイクブラシまで進めた。あれだけ耳元で大きくなっていた、吸うだけの呼吸。左側から、近づいてきていたはずの音。
録音には、ひとつも残っていなかった。
そのかわり、無音の波形だけが、私が息を止めていた三秒間を正確に示していた。
私以外の誰かが息を吸った時間は、この部屋のどこにも記録されていない。
(第2話へ続く)




