第八話 人の灯り
角が振り下ろされる。
若い槍使いの冒険者は、足をもつれさせたまま尻餅をついていた。顔面は蒼白で、恐怖に呼吸すら止まりかけている。
眼前には、死そのもののような質量。
黒鉄の角が空気を裂き、頭蓋ごと地面へ叩き潰そうとしていた。
その瞬間――
景色が、ずれた。
誰もがそう錯覚した。
次の一拍で、アルトたち三人は既に冒険者と巨獣の間へ立っていたからだ。
土煙が遅れて追いつく。
「……え?」
若い冒険者の口から、間の抜けた声が漏れる。
アルトは振り返らず、静かに言った。
「下がってください」
その声は戦場の喧騒の中でも、不思議とよく通った。
⸻
巨獣の角が目前まで迫る。
アルトは剣を抜かない。
右手をわずかに上げ、角の軌道へ掌を添えるように置いた。
鈍い衝突音が響く。
本来なら人体ごと粉砕される一撃が、そこで止まっていた。
角の先端はアルトの掌から指一本分の距離で停止し、そこから先へ進めない。
空気そのものが壁になったかのようだった。
地面が沈み、周囲の石が砕ける。
だがアルトの衣服は揺れただけである。
「……力任せですね」
静かな感想だった。
巨獣の赤い眼が、初めて警戒を帯びた。
⸻
同時に、セラフィスは既に後方へ回っていた。
負傷者が寝かされた場所へ滑るように移動し、血に濡れた腕を抱える男の前に膝をつく。
「動かないでください」
「お、お前……誰だ……」
「通りすがりの執事です」
意味不明だった。
しかし次の瞬間、その掌から淡い銀光が溢れる。
光は液体のように傷口へ流れ込み、裂けた肉を縫い合わせ、砕けかけた骨を静かに固定していく。
男が息を呑んだ。
「痛みが……」
「神経の過剰反応も抑えました」
セラフィスは立ち上がり、次の負傷者へ向かう。
その歩みには一切の迷いがない。
倒れた者を見つけては治し、血を止め、呼吸を整え、熱を下げる。
彼の周囲だけ、戦場の中に小さな診療所が現れたようだった。
リミアは呆然とそれを見ていた。
「回復魔法って……あんなに連続で……?」
「高位術者でも無茶だぞ……」
近くの冒険者が呻く。
だがセラフィスは涼しい顔で次々と治療を続けていた。
⸻
一方、ヴァルクは巨獣の側面へ回り込んでいた。
その姿は目で追いづらい。
走るというより、地面を必要最低限だけ蹴って移動している。無駄な上下動がなく、風景の中を刃だけが進むようだった。
巨獣がアルトから意識を外し、横薙ぎに尾を振るう。
大木ほどもある尾が唸りを上げる。
ヴァルクは一歩沈み、半歩で懐へ潜った。
抜刀。
鞘走りの音すら遅れて聞こえた。
銀線が走る。
次の瞬間、巨獣の右前脚が膝下からずれた。
遅れて鮮血が噴き出す。
巨獣が絶叫し、巨体を傾ける。
ヴァルクは止まらない。
着地と同時に反転し、今度は左後脚の腱を断つ。深く、正確に、必要十分な深度だけを斬る。
筋肉と腱が断裂し、巨獣の支えが崩れた。
地響きと共に片膝をつく。
「動きを止めた」
ヴァルクはそれだけ告げ、再び間合いを取った。
剣身には余計な血すらほとんど残っていない。
⸻
戦場に静寂が走った。
総動員でも止められなかった上位種が、数呼吸で膝をついている。
シルヴェスターは目を見開いたまま、低く呟いた。
「……やっぱり化け物か」
その視線の先で、アルトがゆっくり剣を抜く。
細身の直剣。
装飾もなく、名剣にも見えぬ普通の刃だった。
だが彼が握った瞬間、それは異様な静けさを帯びた。
巨獣は本能で危険を悟ったのだろう。
咆哮し、残った脚で無理やり立ち上がり、最後の突進を仕掛ける。
地面が揺れる。
土煙が上がる。
赤い眼が一直線にアルトを射抜く。
アルトは逃げない。
構えも大きくない。
ただ、半歩だけ踏み込む。
「――終わりです」
振り下ろしでも横薙ぎでもない。
斜め上へ抜ける、極めて小さな一閃。
だが、その一太刀だけで空気の密度が変わった。
剣筋に沿って白い線が走り、巨獣の首元から肩口へかけて深い裂傷が刻まれる。
一拍遅れて、内部から衝撃が爆ぜた。
外殻の内側へ浸透した魔力が、一斉に弾けたのである。
黒鉄の装甲が内側から砕け散り、巨獣の巨体が横倒しに崩れた。
地面が揺れ、砂塵が舞う。
そのまま、二度と動かなかった。
⸻
静寂。
誰も声を出せない。
風だけが戦場を抜けていく。
やがて、一人の若い冒険者が震える声で言った。
「……勝った?」
別の誰かが叫ぶ。
「勝ったぞおおおお!」
それをきっかけに歓声が爆発した。
剣を振り上げる者、泣き崩れる者、抱き合う者、座り込む者。
衛兵たちまで兜を叩いて声を上げている。
リミアはその場でへたり込み、安堵と驚愕が混ざった顔でアルトを見ていた。
「……心配して損しました」
「それは申し訳ない」
「本当にです!」
涙目で怒られた。
⸻
夕刻、街は一転して祭りのような空気に包まれた。
上位種討伐。
しかも街門目前での危機を退けたのだ。酒場も宿も広場も、人で溢れ返った。
白樺亭の前にも即席の長机が並び、大鍋料理と樽酒が次々に運ばれてくる。
「英雄三人組だ!」
「こっち来い!」
「飲め飲め!」
アルトは囲まれていた。
「いえ、私は少し手伝っただけで――」
「上位種を斬ってそれ言うな!」
全否定された。
ヴァルクは肉料理の前に座らされ、無言で食べ続けている。周囲の冒険者たちは「すげぇ食う」「強いやつは違う」と感心していた。
セラフィスは怪我人たちから礼を言われ続けている。
「腕が動く!」「傷跡まで薄い!」「先生って呼んでいいか!」
「執事です」
訂正だけは欠かさない。
⸻
アルトは喧騒の中、少し離れた場所で空を見上げた。
夜空には星がある。
森で見た星と同じはずなのに、ここでは灯りと笑い声に囲まれて違って見えた。
「お一人ですか?」
リミアが木皿を持ってやって来る。
「少し休憩を」
「はい、これ。女将さんから特別料理です」
皿には香草焼きの肉と温野菜が盛られていた。
「ありがとうございます」
隣に腰を下ろしたリミアは、しばらく黙って賑わいを見ていた。
「今日、みんな助かりました」
「皆さんが戦ったからです」
「でも最後に決めたのは、アルトさんたちです」
彼女は横顔を見る。
「……怖くなかったんですか?」
アルトは少し考えた。
「怖さはありました」
「意外です」
「力を出しすぎれば、別の意味で面倒になりますので」
「そっちですか」
思わず笑ってしまう。
⸻
周囲では、助かった若い槍使いが泣きながら仲間に抱きついていた。衛兵が酒樽を担いで走り、子供たちがヴァルクの真似をして木の棒を振っている。
誰かの勝利が、誰かの明日の笑顔になる。
そんな当たり前のことを、アルトは長く知らなかった。
「……騒がしいですね」
「嫌ですか?」
「いえ」
少し間を置いて、彼は答える。
「悪くありません」
リミアは嬉しそうに笑った。
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夜は更けても宴は続いた。
アルトは次々と話しかけられ、礼を言われ、肩を叩かれ、酒を勧められ、断ってもまた注がれた。
面倒だ。
騒がしい。
静かな森が恋しくないと言えば嘘になる。
だが――
今日この街で、多くの人が笑っている理由の一端に、自分がいる。
それは奇妙に胸へ残る感覚だった。
人と関わる価値はあるのか。
まだ答えは出ない。
けれど少なくとも今夜、灯りの下で笑う人々を見ていると、否定だけはできなかった。




