第七話 迫る影
翌朝、ルゼルス辺境都市はいつも通りに目を覚ました。
門番は欠伸を噛み殺し、商人は荷車の積み荷を確かめ、パン屋は焼き上がった生地を並べ、冒険者たちは酒の残る頭を振りながらギルドへ向かう。
昨日と同じ朝。
そう思えること自体が、街にとっては幸福なのかもしれない。
最果ての森を背負うこの都市では、日常とは壊れていない状態を指す言葉だった。
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白樺亭の食堂で、アルトは温かなスープを飲んでいた。
「本日は依頼を受けましょう」
「ようやく冒険者らしい行動ですね」
セラフィスが紅茶を置く。
「登録だけして何もしないのも不自然ですし」
「主様は本来、街探索だけで満足されそうでしたが」
「否定はしません」
ヴァルクは焼いた肉を一口で食べ、短く言った。
「戦える依頼が良い」
「初日から討伐は目立ちます」
「なら護衛」
「それも目立ちます」
「採集」
「消去法ですね」
ヴァルクは不満そうだったが、食事が美味いので機嫌は悪くないようだった。
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ギルドに入ると、朝の広間は活気に満ちていた。
依頼板の前には人だかりができ、受付には列が伸び、昨夜飲み過ぎたらしい男が隅で水を飲んでいる。
リミアは窓口で忙しなく書類を捌いていたが、アルトたちに気づくと表情を明るくした。
「おはようございます!」
「おはようございます。今日は仕事中ですね」
「それはそうです!」
元気な返答だった。
「依頼を受けに来られたんですか?」
「ええ。まずは無難なものを」
「でしたらこちらです」
彼女は慣れた手つきで数枚を抜き出した。
「薬草採集、食用茸の回収、森外縁の清水採水。初心者向けです」
「実に平和ですね」
「最初から危険なの選ばれると私が心配するので」
「心配していただけるのですか」
「しますよ!」
即答だった。
セラフィスが横で微笑む。
「主様、良かったですね」
「何がでしょう」
「人から心配される経験です」
アルトは少しだけ困ったように笑った。
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選んだのは薬草採集だった。
街の北東、森の浅い区域に自生する止血草を十束。昼までに戻れば報酬は銀貨数枚。
冒険者としては小銭だが、初心者向けには十分らしい。
「お気をつけて」
リミアが依頼票を渡す。
「危ないと思ったらすぐ戻ってくださいね」
「承知しました」
「本当にですよ?」
「……努力します」
「そこは約束してください!」
彼女の真面目さに押され、アルトは素直に頷いた。
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街門を出ると、朝の空気はまだ冷えていた。
遠くには最果ての森の濃い緑が横たわっている。近づくだけで、普通の森とは違う圧がある。
生き物の気配が濃すぎるのだ。
「懐かしいですね」
アルトが言う。
「昨日まで住んでいた場所です」
「主様の懐かしいは期間感覚が狂っています」
セラフィスが指摘する。
「三十年住んで一日離れただけです」
「数字にすると変ですね」
ヴァルクは周囲を見渡しながら剣の位置を確かめていた。
「浅い区域でも油断するな」
「ええ」
その声は、街中より少しだけ低かった。
彼にとって森は、仕事場に近いのだろう。
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採集自体は順調だった。
止血草は葉裏に白い筋が走る低木で、街近くにもまとまって生えている。アルトが見つけ、ヴァルクが採り、セラフィスが泥を落として束ねる。
分業が完璧だった。
「これでは依頼というより作業ですね」
「主様が見つけすぎです」
「森の植物は長い付き合いですので」
「三十年の説得力があります」
途中、小型の魔物が二体現れたが、ヴァルクが瞬時に追い払った。
平和だった。
少なくとも、その時までは。
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最初の異変は、鳥だった。
森の奥から群れが飛び立つ。
数十、数百。種類もばらばらの鳥たちが、何かから逃げるように空へ散った。
次に、地面が微かに震える。
アルトの表情が変わる。
「……これは」
ヴァルクが剣へ手を置いた。
「来る」
セラフィスは森の奥へ視線を向ける。
「大型。それも単独ではありませんね」
数秒後。
遠くで悲鳴が上がった。
街道側からだ。
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三人が駆けつけると、門外の臨時集積所は混乱していた。
採集帰りの冒険者たちが荷を捨てて逃げ、衛兵が叫び、門番が鐘を鳴らしている。
その向こう。
森の縁を割るように、一体の巨影が現れた。
四足獣型。黒鉄のような外殻。肩高は家屋二階ほど。額から湾曲した角が二本伸び、赤く濁った眼が門を睨んでいる。
足を踏み出すたび、土が沈む。
「……上位種」
誰かが震える声で呟いた。
災害級には届かない。
だが都市単位では十分に脅威となる存在。
通常なら森深部に棲み、街近くへ出ることは稀な魔物だった。
「なんでこんな所に……!」
「避難しろ! 門を閉めろ!」
怒号が飛び交う。
だが巨獣は既に射程圏内だった。
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ギルドの鐘が鳴り響く。
総動員の合図である。
街中から冒険者たちが駆けてくる。昨日酒場で騒いでいた荒くれ者も、中堅も、若手も、顔色を変えて武器を取っていた。
ギルド長シルヴェスターが先頭に立つ。
「前衛三班! 足止めしろ! 弓と魔術師は後方展開! 衛兵は住民避難優先だ!」
怒鳴り声が場をまとめていく。
その姿に、昨日の疲れた管理職の面影はなかった。
現場の指揮官である。
リミアも門前に来ていた。避難誘導の書板を抱え、必死に走り回っている。
アルトと目が合い、彼女は叫んだ。
「街へ戻ってください! 初心者依頼の人まで前に出ないで!」
「善処します!」
「またそれですか!?」
返す余裕があるだけ、まだ状況を甘く見ていたのかもしれない。
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戦闘は、最初だけ優勢に見えた。
前衛の盾役が巨獣の進路を抑え、側面から槍と剣が斬り込み、後方から火球と氷槍が降り注ぐ。
並の魔物なら終わっていた。
だが、上位種は違う。
外殻が刃を弾く。
魔法は浅く焦がすだけ。
巨獣が一度身体を振るうだけで、三人が吹き飛んだ。
「散れえええ!」
シルヴェスターの声が飛ぶ。
直後、角が地面を抉り、石と土が爆ぜる。
若手冒険者が悲鳴を上げて転がった。
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十分後。
既に負傷者は十を超えていた。
二十分後。
魔術師の魔力が尽き始める。
三十分後。
前衛の交代要員が足りなくなる。
巨獣は血を流していた。傷も増えている。
だが止まらない。
むしろ怒りで動きが荒くなり、攻撃範囲が広がっていく。
「まずいですね」
セラフィスが淡々と言う。
「このままでは削り負けます」
「ええ」
アルトは戦場を見ていた。
人が倒れ、誰かが引きずって下がり、また別の誰かが前へ出る。
街を守るために。
知らない他人の家を守るために。
その姿は、森では見なかった種類の強さだった。
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リミアが負傷者へ布を押し当てながら叫ぶ。
「次! こっち運んで!」
血に汚れた手で、それでも止まらず走る。
昨日の明るい案内人とは別人のようだった。
だが、あれもまた彼女なのだろう。
アルトは静かに息を吐く。
「主様」
セラフィスが低く問う。
「まだ、様子見ですか」
ヴァルクは既に半歩前へ出ている。
「命令を」
巨獣が再び咆哮した。
前衛の列が崩れ、一人の若い槍使いが逃げ遅れる。
角が振り下ろされる。
その瞬間。
アルトの足が、一歩だけ前へ出た。




