第六話 案内した日のこと
朝、目が覚めた瞬間に、リミアは天井を見つめたまま固まった。
「……今日、休みだ」
確認するように呟く。
次に、昨夜の予定を思い出す。洗濯。買い出し。部屋の掃除。できれば昼寝。完璧である。
だが、その完璧な休日計画の中に、ひとつだけ予想外の存在が割り込んでいた。
黒髪の青年――アルト。
昨日、ギルドで登録に来たばかりの旅人。礼儀正しく、落ち着いていて、何だか妙に空気が柔らかい人。
そして連れが怖い。
リミアは布団を頭までかぶった。
「……なんで思い出してるの、私」
別に何かあったわけではない。ただ少し気になっただけだ。受付嬢として新規登録者を覚えておくのは当然であり、特別な意味など何もない。
そう自分へ言い聞かせながら、十分ほど布団の中でじたばたした。
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身支度を整え、街へ出る。
私服姿で歩く中央区は、仕事の日とは少し違って見えた。制服の時は窓口と書類と騒がしい冒険者たちに追われてばかりで、こうしてのんびり朝の街を見る機会は案外少ない。
焼き菓子の匂い。果物商の声。荷車を押す職人たち。
「……平和だなあ」
思わず呟く。
だが平和な朝は、たいてい長続きしない。
角を曲がった先に、見覚えのある三人組が立っていた。
黒髪の青年。銀髪の執事。無言の護衛。
リミアは足を止めた。
「えっ」
向こうも気づく。
アルトが自然に会釈した。
「おはようございます」
朝日に似合う、穏やかな声だった。
「お、おはようございます!」
声が裏返った。
何故だ。普段、酔っ払い相手にももっと落ち着いているはずなのに。
セラフィスが涼しい顔でこちらを見る。
「奇遇ですね」
「そ、そうですね!」
「主様、少し驚かせすぎです」
「私でしょうか」
アルトは本気で分かっていない顔をしていた。
そこがまた厄介だった。
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案内役を買って出たのは、半分勢いだった。
街を見て回ると言われ、気づけば「私が案内できますよ!」と口にしていた。
今思えば、休みの日に何をしているのか。
だが三人が素直に受け入れた時点で、もう後には引けなかった。
歩きながら、リミアはちらちらと横目でアルトを見る。
昨日も思ったが、不思議な人だ。
見た目は若い。整っているし、姿勢も良い。けれど、同年代の青年たちにありがちな落ち着きのなさや見栄がない。
むしろ年上の人と話しているような安心感がある。
そのくせ、時々ひどく世間知らずなことを言う。
「この灯り石、便利ですね」
「王国ではよくありますよ?」
「そうでしたか」
本当に知らない顔だ。
どこで生きてきたのだろう、この人は。
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中央区を案内している最中も、リミアは少し緊張していた。
案内が退屈ではないか。説明が下手ではないか。変な沈黙になっていないか。
だがアルトは、何を話しても真面目に聞いてくれる。
「ここが役所です」
「立派ですね」
「税金を取る場所です」
「急に印象が変わりました」
「事実です」
そんな他愛ないやり取りに、自然と肩の力が抜けていく。
セラフィスは相変わらず完璧な執事で、こちらが困る前に道を空け、荷車を避け、さりげなく人混みを調整してくれる。
怖いほど気が利く。
ヴァルクは怖い。
ただし子供がぶつかってきた時だけ、驚くほど静かに受け止めて転ばせなかった。
怖いが、たぶん良い人だ。
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商業区へ入る頃には、リミア自身が楽しんでいた。
「この店の串焼き、おすすめです」
「では一つ」
「三つ購入済みです」
セラフィスが既に持っている。
「早い!?」
「主様が興味を示されたので」
「仕事できる執事さんって、こういう感じなんですね……」
アルトが苦笑している。
その笑顔を見るたび、リミアは少しだけ安心した。
昨日ギルドで見た時は、礼儀正しいけれどどこか遠い人にも見えたのだ。人との距離を測りながら話すような、そんな静けさがあった。
けれど今は違う。
街の景色を見て、素直に驚き、食べ物に反応し、時々冗談まで言う。
ちゃんと人なのだと、変な感想を抱く。
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裏通りに近づくと、空気が変わる。
視線。臭い。足音。
リミアの表情も自然と引き締まった。
ここから先は、仕事柄何度も見てきた街の裏側だ。借金で売られる者、裏商人、消えた冒険者の噂。
案内するべきか、一瞬迷った。
だがアルトは昨日の時点で、もう見ているようだった。
なら、綺麗な部分だけ見せるのは違う気がした。
「この辺りは、あまり良くない場所です」
そう告げると、アルトはただ静かに頷いた。
軽蔑もしない。怒鳴りもしない。安易な正義感も振りかざさない。
その反応に、少し驚く。
多くの旅人は二種類だった。
見て見ぬふりをする者。
あるいは感情だけで騒ぐ者。
彼はそのどちらでもない。
見て、受け止め、考えている。
それが分かった。
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セラフィスが淡々と裏組織の構造を言い当てた時には、正直ぞっとした。
「人身売買組織、闇商人、貴族との癒着」
まるで帳簿でも読んでいるような口調である。
「……なんで分かるんですか」
「歩き方と臭いです」
意味が分からない。
だがアルトもヴァルクも平然としているので、たぶんこの三人の中では普通なのだろう。
変な人たちだ、と改めて思った。
そして少しだけ、頼もしいとも思った。
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茶屋で休憩した時、リミアはつい本音を話してしまった。
この街は綺麗じゃないこと。
相談に来る人たちのこと。
それでも嫌いになれないこと。
普段なら、客にそこまで話さない。
受付嬢は明るく、感じよく、余計な湿っぽさを見せないのが仕事だ。
なのに、アルトの前では変に取り繕う気になれなかった。
彼が、ちゃんと聞いてくれると分かっていたからだろう。
「嫌な人も多いけど、助けてくれる人も同じくらいいるからです」
そう言った時、アルトは少し黙っていた。
それから静かに頷いた。
その頷きが、何だか妙に嬉しかった。
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夕方、別れ際。
「本日はありがとうございました」
丁寧に礼を言われる。
ただの街案内だった。大したことはしていない。
それでも、その言葉にはきちんと重みがあった。
「いえいえ! 楽しかったです」
本音だった。
休みの日に知らない旅人を案内して回るなんて、普通なら面倒かもしれない。
でも今日は、不思議なくらい時間が早かった。
「もし、この街の嫌なところを見ることがあっても……全部がそうだとは思わないでくださいね」
思わず出た言葉だった。
少し図々しかったかもしれない、と言ってから後悔した。
だがアルトは穏やかに答えた。
「ええ。今日、それを教わりました」
夕陽の中で、その表情は柔らかかった。
リミアは胸の奥が少し熱くなるのを感じ、慌てて手を振って去った。
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家へ帰ってから、母に言われた。
「あんた今日、なんか機嫌いいね」
「そう?」
「鼻歌うたってる」
「うそ!?」
本当だった。
自分でも気づかぬうちに、台所で鼻歌など歌っていたらしい。
夜、寝台に入ってからも、街を歩いた時間を思い出す。
穏やかな返事。
少しずれた世間知らず。
真面目に話を聞く横顔。
そして時々見せる、年齢不相応な静けさ。
「……変な人」
布団に顔を埋める。
けれど嫌な意味ではなかった。
むしろ逆だ。
この街には毎日たくさんの人が来て、たくさんの人が去る。
その中で、少しだけ気になる人が現れた。
ただ、それだけの話だ。
そう自分に言い聞かせながら、リミアはなかなか眠れなかった。




