第五話 案内人のいる街
朝は、宿の食堂から始まった。
白樺亭の一階には、旅人と常連客のための簡素な食堂がある。木の床はよく磨かれ、窓から差し込む光が長机の上を淡く照らしていた。煮込んだ豆の匂い、焼きたてのパンの香り、湯気を立てるスープの匂いが混ざり合い、人の暮らしの温度を作っている。
アルトは窓際の席で、焼いたパンをちぎっていた。
「宿の食事とは思えぬ完成度です」
「女将が腕利き」
ヴァルクは既に二皿目に入っている。
「昨夜もそうでしたが、あなたは食に対して判断が早いですね」
「良いものは良い」
極めて明快だった。
セラフィスは紅茶を口に運びながら、朝から端正な姿勢を崩さない。
「本日の予定ですが、主様は街の探索をご希望でしたね」
「ええ。昨日は宿まで歩いただけでしたから」
「正確には、表通りから裏通りまで一通り観察されていましたが」
「歩いただけです」
「主様の“歩いただけ”は、一般的な意味と少々異なります」
アルトは答えず、スープを飲んだ。
白樺亭の女将が追加のパン籠を置きながら笑う。
「あんたら、朝から仲がいいねえ」
「そう見えますか」
「見えるとも。執事さんは綺麗だし、護衛さんは黙ってても頼りになりそうだし、あんたは礼儀正しい」
「恐縮です」
「ただし、街では気をつけな。礼儀正しいやつほど舐められることもある」
辺境らしい助言だった。
アルトは素直に頭を下げた。
「肝に銘じます」
⸻
宿を出ると、朝の街は既に動き出していた。
荷車が通りを行き交い、店主たちは看板を出し、露店では焼き菓子の甘い香りが漂っている。夜の喧騒とは異なり、朝の都市には目的のある足音が満ちていた。
「さて、どこから見ましょうか」
アルトが言った、その時だった。
「アルトさん?」
明るい声が背後から届く。
振り返ると、リミアが小走りで近づいてくるところだった。
いつもの受付制服ではなく、淡い青の私服姿である。髪も少し緩くまとめられており、仕事中とはまた違う柔らかさがあった。
「おはようございます」
「お、おはようございます!」
なぜか彼女の方が少し慌てている。
「今日はお休みですか」
「はい、非番です。買い物に出てまして……あ、でもお邪魔でしたか?」
「いえ。ちょうど街を見て回ろうとしていたところです」
「ほんとですか?」
目が輝いた。
「でしたら私、案内できますよ! この街で生まれてこの街で育ちましたから!」
セラフィスが横で微笑む。
「渡りに船、ですね」
「街案内に船は不要では」
「比喩です」
ヴァルクは周囲を見回しながら短く言う。
「地元民は有用」
最大限の賛辞であった。
リミアは少し照れたように笑い、それから胸を張った。
「では、本日の案内人を務めさせていただきます!」
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最初に案内されたのは中央区だった。
昨日も通った大通りだが、朝の時間帯はまた印象が違う。酒場の酔客は消え、代わりに職人、商人、役人、冒険者たちがそれぞれの持ち場へ急いでいる。
「ここが街の中心です」
リミアが歩きながら説明する。
「役所、ギルド、大きな商会、宿、食堂、何でもあります。初めて来る人は大体ここしか見ません」
「表の顔、ということですか」
「そうです。見栄えのいい場所ですね」
受付嬢とは思えぬ率直さだった。
中央広場では噴水の周りに人が集まり、旅芸人が芸を披露している。子供たちが歓声を上げ、母親たちは買い物袋を抱えて笑い合っていた。
アルトはその光景を静かに眺める。
「平和ですね」
「ここだけ見れば、ですけど」
リミアは肩をすくめた。
「この街は森が近いので、魔物被害もあります。昨日まで元気だった人が、今日戻らないことも珍しくありません」
笑顔の裏に現実がある。
それはこの街全体に共通する構造らしかった。
セラフィスがさらりと付け加える。
「表の賑わいは、外から人を呼ぶための装飾でもあります」
「夢がない言い方ですね……」
「現実的と言っていただきたい」
⸻
次に向かったのは商業区だった。
中央区よりさらに密度が高い。狭い通りの両側に店が並び、呼び込みの声が飛び交い、布地、香辛料、鉄、薬草、宝飾品、魔道具まで、あらゆる品が並べられている。
「すごいですね」
アルトが素直に感心する。
「王都ほどではありませんけど、辺境ではかなり栄えてます」
リミアは慣れた様子で人波をすり抜ける。
「素材が集まる街なんです。森から珍しい薬草や魔物素材が入るので、商人たちも放っておきません」
香辛料店の前では異国風の衣装を着た商人が大声で客を呼び、武具店の前では若い冒険者が剣を振って品定めしていた。
ヴァルクはある剣を見て足を止める。
「粗悪」
「見ただけで分かるのですか」
「刃が死んでいる」
店主が聞いていたら揉めそうな評価だった。
リミアは笑いながら小声で言う。
「実はそういうお店、結構あります。初心者向けに高く売るんです」
「問題では?」
「問題です。でも証拠がないと取り締まれません」
都市は人が多いぶん、騙す側も巧妙になる。
アルトは前世の訪問販売や情報商材を思い出し、時代も世界も違うのに本質が同じことへ妙な納得を覚えた。
⸻
商業区を抜け、少し奥へ入ると空気が変わった。
表通りの喧騒はそのままなのに、路地裏の視線だけが鋭くなる。荷車の積荷は布で覆われ、顔を隠した男たちが短く言葉を交わしていた。
リミアの歩幅が僅かに速くなる。
「この辺りは、あまり長居しない方がいいです」
「理由を伺っても?」
「……正規じゃない取引が多いんです」
セラフィスが淡々と周囲を見回す。
「主様。左手三軒先、偽造印章の工房。右奥の倉庫、違法薬品。屋根上に見張り二名」
リミアが目を丸くした。
「えっ、そんなの分かるんですか!?」
「歩き方と臭いです」
「臭い……」
さらにセラフィスは続ける。
「この区域には三系統の裏組織があります。
一つ、人身売買組織。
一つ、闇商人連合。
一つ、貴族の庇護を受ける物流網」
「物流網?」
アルトが問う。
「表向きは合法商会です。しかし裏では禁制品や人材を運ぶ」
リミアの顔が曇る。
「……だいたい合ってます」
「ご存知なのですね」
「ギルドって、依頼人も冒険者も色んな人が来ますから」
彼女は少し声を落とした。
「護衛依頼で変な倉庫に連れて行かれそうになった新人とか、借金背負わされて消えた冒険者とか、耳に入るんです」
「対処は?」
「ギルド長も動いてます。でも全部は無理です」
悔しさが滲んでいた。
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少し開けた場所に出ると、訓練場のような空き地があった。若い冒険者たちが木剣を振り、魔法の練習をし、荷物運びの体力づくりまでしている。
「ここ、登録したばかりの人たちがよく使うんです」
「努力家が多いのですね」
「夢見る人が多い、の方が近いかもしれません」
リミアは静かに言った。
「強くなって稼ぎたい。家族を楽にしたい。有名になりたい。理由は色々です」
「悪くない動機です」
「ええ。でも、全員が叶うわけじゃない」
そこには現実を見てきた者の声があった。
「怪我して辞める人、借金して戻れなくなる人、無茶して死ぬ人もいます」
アルトは訓練する若者たちを見る。
汗を流し、笑い、競い合う姿は眩しい。だが、その先に崖があると知っていても、人は走るのだろう。
「それでも来るのですね」
「はい」
「何故だと思いますか」
リミアは少し考えた。
「……ここ以外に道がない人も、多いからです」
アルトは答えなかった。
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昼を過ぎ、小さな茶屋で休憩を取ることになった。
店先の席に座り、果実水が運ばれてくる。甘さ控えめで冷えていた。
「おいしいですね」
「この店、穴場なんです」
リミアが少し得意げに言う。
セラフィスは彼女を見た。
「あなたは随分と街の裏事情にお詳しい」
「詳しくなりたくてなったわけじゃないです」
リミアは苦笑した。
「受付って、色んな人の最後の相談窓口みたいなところもあるんです」
「最後、ですか」
「依頼失敗で仲間が帰らないとか。借金取りに追われてるとか。妹が売られそうだとか」
彼女は果実水の表面を見つめる。
「笑って案内してますけど、綺麗なことばかりじゃない街だって知ってます」
それでも、と彼女は顔を上げた。
「でも私は、この街が嫌いになれません」
「何故でしょう」
アルトの問いに、彼女は少しだけ照れたように笑う。
「嫌な人も多いけど、助けてくれる人も同じくらいいるからです」
その言葉に、アルトはしばし沈黙した。
前世で自分は、人の嫌な部分ばかり見ていたのかもしれない。
あるいは、そう見える場所にばかりいたのか。
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日が傾き始め、街の影が長くなる。
中央区へ戻る道すがら、朝とはまた違う喧騒が生まれていた。仕事帰りの者、酒場へ向かう者、宿へ戻る旅人。
街は一日で何度も表情を変える。
「本日はありがとうございました」
アルトが頭を下げる。
「いえいえ! 楽しかったです」
「主様も珍しく長時間人と行動されましたね」
「確かに」
「疲れましたか?」
リミアが心配そうに聞く。
「少し」
「正直ですね!?」
「ですが、有意義でした」
その一言に、彼女はぱっと笑顔になる。
「それなら良かったです」
別れ際、リミアは少しだけ真面目な顔になった。
「アルトさん」
「はい」
「もし、この街の嫌なところを見ることがあっても……全部がそうだとは思わないでくださいね」
夕陽が彼女の横顔を染めていた。
アルトは静かに頷く。
「ええ。今日、それを教わりました」
彼女は手を振って去っていく。
人混みに紛れて見えなくなるまで、アルトはその背を見送った。
⸻
宿へ戻る道で、セラフィスが口を開く。
「主様」
「なんでしょう」
「本日の感想を」
アルトは少し考えた。
「街は複雑です」
「ええ」
「醜い部分も多い」
「その通りです」
「ですが……思っていたより、善意も多い」
ヴァルクが短く言う。
「受付嬢」
「ええ」
アルトは微かに笑った。
人は面倒だ。騒がしい。裏切ることもある。
だが、人だからこそ、誰かに街を好きだと言えるのだろう。
その単純な事実が、彼には新鮮だった。




