第四話 街の裏側
ギルドを出た時、陽はまだ高かった。
石畳の道には昼の熱が残り、人々の往来は絶える気配がない。荷車の軋む音、露店の呼び声、鍛冶場から響く金属音、どこかで子供が笑い、どこかで誰かが怒鳴っている。
都市というものは、静けさを嫌う生き物らしい。
アルトは人波の中で足を止め、しばしその喧騒を眺めた。
「主様、宿へ向かわれますか」
セラフィスが隣で問う。
「そうですね。ですが、せっかくですので少しだけ街を見ていきましょう」
「観光ですか」
「社会見学です」
「主様にしては前向きな表現ですね」
「言い換えただけです」
ヴァルクは周囲を警戒したまま短く言った。
「人が多い。歩きにくい」
「森にはありませんでしたからね、人混みは」
「森の方が静かで良い」
「珍しく意見が合います」
そう言ってアルトは微かに笑った。
辺境都市ルゼルス。
最果ての森と文明の境目に築かれた街。魔物の素材、希少薬草、鉱石、討伐報酬――危険の近くには必ず金が集まる。
そして金の集まる場所には、人もまた集まる。
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中央通りは活気に満ちていた。
通りの両脇には商店が並び、武具屋、道具屋、乾物屋、仕立て屋、簡易食堂、酒場と、視線を動かすだけで次々と店が現れる。
魔道具店の軒先では、小さな灯り石が昼間だというのに淡く光っていた。
「便利ですね」
アルトが立ち止まる。
「生活補助用の魔石灯でしょう」
セラフィスが即座に答える。
「火を使わず一定時間発光します。王国製の量産品かと」
「詳しいですね」
「家事担当ですので」
家事担当の範囲が広い。
隣では露店の主人が焼いた串肉を振って客を呼び込んでいた。香ばしい匂いが風に乗る。
アルトの腹が小さく鳴る。
「……主様」
「聞こえましたか」
「ええ」
「忘れてください」
セラフィスは既に三本買っていた。
いつ購入したのか分からない速度だった。
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歩きながら、アルトは街の人々を観察していた。
荷を担いで汗を流す男。子を抱いて買い物をする女。腕に包帯を巻いた冒険者。笑い合う若者たち。眠そうに店番をする老人。
それぞれが、それぞれの一日を生きている。
森では見られなかった種類の景色だった。
「忙しそうですね」
「人は集まると面倒を増やしますから」
セラフィスの分析は辛辣である。
「ですが、その分支え合えることもあります」
「最近の主様、やや人間寄りの発言が増えましたね」
「そうでしょうか」
「ええ。以前なら“騒がしい”で終わっておりました」
アルトは答えず、焼き串を一口かじった。
塩気が強い。だが悪くない。
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中央通りを外れ、一本脇道へ入る。
途端に景色が変わった。
石畳は割れ、建物の壁はくすみ、路地は狭くなる。人通りも減り、代わりにこちらを値踏みする視線が増えた。
「……空気が違いますね」
「商業区の外縁です」
セラフィスが周囲を見回す。
「表通りから溢れた者たちが流れる区域。金の巡りが薄い場所です」
壁際には座り込む老人がいた。膝を抱え、目だけがこちらを追う。少し先には、裸足の子供が二人、何かを奪い合って喧嘩していた。
母親らしき女が止める力もなく、それを眺めている。
アルトの歩みが僅かに遅くなる。
前世にも似た景色はあった。
繁華街の裏通り。駅前の段ボール。昼の光が当たらぬ場所に、人の生活は簡単に沈む。
世界が変わっても、構造は案外変わらないものらしい。
「助けますか」
ヴァルクが尋ねた。
「全員は無理です」
アルトは静かに答える。
「ええ」
「今の私にできるのは、知ることです」
誰か一人へ金を渡しても、今日の食事が一度増えるだけだろう。根を変える力は、ここにはまだない。
その現実を、アルトは冷たく理解していた。
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さらに進むと、鉄格子付きの建物が見えた。
入口には屈強な男が二人立ち、薄汚れた看板には《労務斡旋所》と書かれている。
だが、中から聞こえる声は斡旋所のそれではなかった。
「このガキは安いぞ!」
「女は奥だ、状態次第で値が変わる!」
怒号。泣き声。笑い声。
アルトの足が止まる。
セラフィスもまた、笑みを消していた。
「……奴隷売買です」
「合法なのですか」
「王国内では借金奴隷と犯罪奴隷のみ認可されています。ですが実態は曖昧です」
「つまり」
「抜け道だらけ、ということです」
鉄格子の隙間から、小さな手が見えた。
すぐに奥へ引っ込む。
アルトの表情は変わらない。
だが、空気がわずかに冷えた。
ヴァルクが剣の柄へ触れる。
「斬るか」
「まだです」
声は静かだった。
「……主様」
セラフィスが低く呼ぶ。
「ええ。分かっています」
アルトは視線を外し、再び歩き出した。
今ここで怒りに任せて壊すことは簡単だ。
だが、それで終わる話でもない。
この街の裏に何があり、誰がそれを許し、誰が得をしているのか。
知らねばならない。
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しばらく歩くと、空気が再び和らいだ。
路地を抜け、小さな広場へ出る。噴水こそ止まっていたが、木陰には老人たちが座り、子供たちが追いかけっこをしていた。
さきほどまでの重さが嘘のようだった。
「同じ街とは思えませんね」
アルトが呟く。
「同じ街だからこそ、でしょう」
セラフィスが答える。
「表だけで成り立つ街はありません。誰かの便利さの下には、別の誰かの不便が積まれます」
「辛辣ですね」
「事実です」
ヴァルクは子供たちを見て、ぽつりと言った。
「……笑っている」
「ええ」
「なら、全部が腐っているわけではない」
珍しく長い言葉だった。
アルトは少し驚き、それから微笑む。
「その通りかもしれません」
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やがて《白樺亭》と書かれた看板が見えた。
二階建ての木造宿。外壁は丁寧に手入れされ、窓辺には小さな花が飾られている。入口からは煮込み料理の香りが流れてきた。
「ここですね」
「悪くない」
ヴァルクが珍しく即答する。
「まだ入ってもいませんよ」
「匂いが良い」
合理的な判断だった。
扉を開ける前に、アルトは一度だけ振り返る。
遠く、街の屋根が連なっていた。
笑う者。稼ぐ者。搾取する者。耐える者。眠る者。諦めた者。
多くの人間が折り重なって、この都市は形を成している。
森より複雑で、不自由で、醜く、そして少しだけ温かい。
「……人の街、ですか」
まだ答えは出ない。
だが知りたいと思えたこと自体が、以前の自分にはなかった変化だった。
「主様?」
「入りましょう」
アルトは扉を押した。
温かな灯りと、食事の匂いが彼らを迎えた。




