第三十二話 静かな手紙と、王城の夜
王都の夜は、表面だけを見れば穏やかだった。
魔導灯が石畳を淡く照らし、貴族街の窓には上品な灯りが点り、遠くの商業区画からは学院祭を前にした賑わいの名残が微かに届いている。
けれど、夜というものは、光よりも影を深くする。
人の声が減り、馬車の往来が少なくなり、昼間には紛れていた足音がよく響くようになる。
その夜、セラフィスは屋敷の書斎にいた。
机の上には、数枚の紙。
学院内で回収された匿名の噂書き。
生徒たちの間で広がっている囁きの記録。
どの廊下で、誰が、どのような言い回しをしていたか。
そして、それらがいつ頃から増え始めたのか。
紙面には整った文字が並んでいた。
だが、その内容は決して穏やかではない。
――一年Sクラスの喫茶店は、王女殿下と公爵家令嬢を客寄せに使うらしい。
――ルナは王家の後ろ盾で成績を得ている。
――セシリアは取り込まれた。
――リリアーナ王女は利用されている。
――苗字もなかった少女が、王族に近づきすぎている。
セラフィスは一枚一枚に目を通し、静かに微笑んでいた。
その微笑みは美しい。
いつものように穏やかで、礼儀正しく、柔らかい。
しかし、部屋の空気だけは冷えていた。
まるで、薄い氷が机の上に張っているようだった。
「随分と、品のない言葉です」
彼は独り言のように呟いた。
そして、紙の端へ細い指を置く。
ただの子供の嫉妬ではない。
言葉が整いすぎている。
広がり方が均一すぎる。
偶然の噂なら、もっと揺れる。
誰かの感情から始まった噂なら、もっと偏る。
だがこれは違う。
意図的に、複数の場所へ同じ種類の疑念が置かれている。
それも、直接的な悪口ではなく、疑問の形で。
人は断言には反発する。
だが疑問には耳を貸す。
本当にそうなのかしら。
もしかして。
あり得るかもしれない。
そうして心の隙間へ入り込む。
よくできた悪意だった。
「主様がお嫌いになる類いですね」
セラフィスは、さらに別の紙を取り出した。
そこには、学院の使用人から聞き取った情報がまとめられている。
資料室近くで外部の使いと接触した男子生徒。
保護者見学日の前夜に、掲示板へ不正な紙を貼った者。
食堂で同じ噂を繰り返していた数人。
その全員が、直接フェルナンド侯爵家へ繋がっているわけではない。
しかし、間に挟まる家名や商会名を追えば、糸は少しずつ同じ方角へ向かっていた。
フェルナンド侯爵派。
王家の特別措置に反発する保守派貴族。
晩餐会でセラフィスに言葉で打ち負かされた男を中心とする一派。
彼らが、ルナを狙っている。
ただし剣ではなく、噂で。
傷ではなく、疑念で。
命ではなく、居場所を。
セラフィスの瞳が、静かに冷えた。
「愚かですね」
怒鳴る必要はなかった。
怒りは静かなほど深い。
彼は紙を整え、銀の封筒に入れる。
証拠は十分ではない。
少なくとも、貴族院で即座に処断できるほどではない。
しかし、王家へ知らせるには十分だった。
そして、アルトへ報告するには、十分すぎた。
⸻
書斎の扉が静かに開いた。
アルトが入ってくる。
黒い室内着に身を包み、表情は穏やかだった。
だが、セラフィスは長い付き合いで知っている。
今の主は、穏やかに見えて怒っている。
非常に、静かに。
「分かりましたか」
アルトが問う。
「はい」
セラフィスは一礼した。
「出所はフェルナンド侯爵派で間違いないかと」
「証拠は?」
「直接命令の書面はありません。ですが、学院内の協力者、噂を流した生徒、外部の使い、資金の出入り、いずれも侯爵派の周辺に繋がっています」
アルトは机上の資料を見る。
紙を一枚取り、目を通す。
その指先に力は入っていない。
だが、部屋の空気が重くなる。
「ルナは?」
「お嬢様は、まだ表面上は気づかぬふりをされています」
「聞こえてはいるでしょうね」
「おそらく」
アルトは目を伏せた。
昼間、学院で見たルナの笑顔が思い浮かぶ。
接客練習で慌て、友人たちと笑い、前掛け姿で頬を染めていた少女。
その横で、悪意は静かに囁かれていた。
ルナは強くなった。
確かに。
けれど、強くなったから傷つかないわけではない。
笑っているから平気なわけではない。
人と関わることを覚え始めた少女にとって、居場所を疑われることは、剣で斬られるより深く痛むこともある。
「主様」
セラフィスが静かに言う。
「いかがなさいますか」
アルトは、しばらく沈黙した。
そして言った。
「王家へ面会を申し入れます」
「承知しました」
「今回は、ただの相談ではありません」
その声は低かった。
静かで、冷たく、揺れがない。
「フェルナンド一派の壊滅を望みます」
セラフィスは目を細めた。
その言葉には、政治的な意味がある。
物理的に消す、という意味ではない。
貴族としての影響力。
派閥としての結束。
王国中枢へ伸ばした手。
それらを折る。
二度とルナへ手を伸ばせぬように。
表舞台で、合法的に、王家の権威と貴族法の中で追い詰める。
アルトはそう望んでいる。
それは、森で魔物を斬るよりずっと面倒な戦いだった。
だが、今の彼はそれを選んだ。
ルナが生きる場所を守るために。
「手紙を」
アルトが言う。
「はい」
セラフィスは即座に便箋を用意した。
王家へ送る正式な書簡。
紙は上質な白。
封蝋には、王国友誼公爵として与えられた印章を使う。
セラフィスが筆を取ろうとすると、アルトは静かに手を伸ばした。
「私が書きます」
セラフィスは一瞬だけ目を見開いた。
アルトが正式な書状を自ら書くことは珍しい。
だが、すぐに一礼して筆を渡した。
アルトは椅子に座り、静かに筆を走らせた。
文字は整っていた。
過度に飾らず、しかし失礼ではない。
内容は簡潔だった。
王家より賜った友誼公爵としての立場。
ルナの学院生活に対する不当な干渉。
噂の出所がフェルナンド侯爵派に繋がる疑い。
学院祭を前に、事態が拡大する危険。
そして、王家との面会の要請。
最後に、アルトは少し筆を止めた。
そして一文を書き加えた。
――私の家族に対する悪意を、王国がどのように扱うのか、陛下と直接確認したく存じます。
セラフィスは、その一文を見て静かに微笑んだ。
「非常に、主様らしい文面です」
「柔らかすぎますか」
「いいえ。十分に鋭いです」
アルトは封をした。
銀の封蝋に印章を押す。
小さな音が、書斎に響いた。
その瞬間、ただの噂は、王家へ届く問題となった。
⸻
同じ頃、ヴァルクは廊下に立っていた。
ルナの部屋の近く。
彼女はすでに眠っている。
昼間の疲れが出たのか、寝息は静かだった。
扉の向こうで、少女はきっと明日の学院祭準備のことを夢に見ている。
衣装。
接客。
友人たち。
温かな場所。
それを壊そうとする者がいる。
ヴァルクは静かに目を伏せた。
剣で来るなら簡単だった。
斬ればいい。
殺気で来るなら簡単だった。
潰せばいい。
だが噂は斬れない。
言葉は血を流さない。
だからこそ厄介だ。
ヴァルクは拳を握った。
扉の前で、ただ静かに立ち続ける。
守る。
その一語だけが、彼の胸にあった。
⸻
手紙は、その夜のうちに王城へ届けられた。
王城《アルセリア宮》の深夜。
白亜の城壁は月明かりを受けて青白く輝き、門前の近衛兵たちは静かに立っていた。
王国友誼公爵の封蝋を見た時、門衛の表情が変わった。
それは通常の書簡ではない。
しかも夜間に届けられた。
書簡はすぐに内務官へ渡され、さらに王の私室近くへ運ばれた。
国王アルディオンは、まだ眠っていなかった。
執務室の灯りは落とされず、机の上には学院祭関連の報告書と、貴族院の議題が積まれている。
王妃セレナは隣室に控えており、第一王女フィリアも別の書類確認のため王城に残っていた。
内務官が入室し、銀の封蝋が押された書簡を差し出した。
「陛下。王国友誼公爵アルト様より、至急の書簡にございます」
アルディオンの目が細くなった。
「通せ」
封が切られる。
王は静かに文面へ目を通した。
最初は表情を変えなかった。
しかし、読み進めるにつれて、その目の奥が冷えていく。
最後の一文に至った時、部屋の空気が重くなった。
――私の家族に対する悪意を、王国がどのように扱うのか、陛下と直接確認したく存じます。
王はしばらく黙っていた。
それから、書簡を机に置いた。
「セレナを呼べ。フィリアもだ。宰相、軍務卿、学院監察官にも連絡を」
内務官が息を呑む。
「今からでございますか」
「今からだ」
王の声に迷いはなかった。
⸻
王妃セレナが来た時、アルディオンは書簡を彼女へ渡した。
セレナは読み終えると、静かに目を伏せた。
「……ルナさんを狙いましたか」
その声は穏やかだった。
しかし、母としての怒りが滲んでいた。
「ええ」
フィリアも書簡を読み、扇を閉じた。
「フェルナンド侯爵派。やはり動きましたか」
「お前は予想していたのか」
「晩餐会で恥をかかされ、友誼公爵位にも反発していました。直接アルト様へ手を出す愚は避けるでしょうが、ルナさんの学院生活を揺さぶる程度ならやると思っていました」
フィリアの声は冷静だった。
だが、その冷静さの下には鋭い怒りがある。
「彼らは間違えましたわ」
セレナが静かに言った。
「ええ」
フィリアは頷く。
「ルナさんを軽く見た。そして何より、アルト様にとって彼女が何かを理解していない」
王は机を指で軽く叩いた。
低い音が一つ響く。
「これは、王家への問いでもある」
「最後の一文ですね」
「ああ」
アルディオンは書簡を見つめる。
「アルト殿は怒っている。だが、まだ王国の法と王家を尊重している。だから面会を申し入れた」
「逆に言えば」
フィリアが続ける。
「王国が曖昧に処理すれば、彼は王家へ失望します」
「そうだ」
王は深く息を吐いた。
これは貴族同士の小さな揉め事ではない。
王国友誼公爵という、前例のない称号を与えた相手の家族が、王国貴族により害されようとしている。
もし王家がそれを軽く扱えば、称号そのものの意味が失われる。
友誼とは何か。
王国が友人を守る気があるのか。
アルトはそれを問うている。
⸻
やがて宰相、軍務卿、学院監察官が集められた。
深夜の会議室。
重臣たちは眠気を見せることもなく、王の前に座った。
書簡が回される。
読み終えた者から表情が変わっていく。
宰相は眉間に深い皺を刻んだ。
「フェルナンド侯爵派……厄介ですな」
軍務卿は低く唸る。
「噂で少女を攻めるとは、剣を向けるより卑劣だ」
学院監察官は顔を青くしていた。
「学院内の協力者がいる可能性が高いとなれば、即座に調査が必要です」
「調査はする」
王が言う。
「だが、表向きは慎重に進める。学院祭前に混乱を起こせば、ルナ殿自身の負担が増える」
フィリアが資料を広げる。
「まずは三段階です」
彼女の声は澄んでいた。
「第一に、学院内の噂の流路を押さえる。生徒、使用人、外部出入り業者、掲示物管理者。学院監察官が中心となり、静かに調査」
監察官が頷く。
「第二に、フェルナンド派の外部接触を洗う。資金、使者、商会経由の動き。これは宰相府と王都警備局で」
宰相が頷く。
「第三に、フェルナンド侯爵本人へはまだ触れない。泳がせます」
軍務卿が目を細める。
「証拠を掴むためか」
「はい。彼は直接命令の証拠を残さないでしょう。ですが、一派全体を壊すなら、周囲の小貴族や協力商会を同時に押さえる必要があります」
セレナが静かに言った。
「ルナさんの安全は?」
「近衛の非公式監視を学院周辺に増やします」
軍務卿が答える。
「目立たぬように。学院祭当日はさらに警備を厚くします」
王は頷いた。
「ヴァルク殿にも伝える必要があるな」
「必要でしょう」
フィリアは少しだけ苦笑した。
「隠しても気づかれます」
確かに、と室内の数名が思った。
⸻
会議の途中、第二王子エルディアスも呼ばれた。
彼は書簡を読み、表情を硬くした。
「ルナ殿は、学院でようやく友人を得ていると聞いています」
「ああ」
「その居場所を壊そうとするなど……許されません」
若い声には、まっすぐな怒りがあった。
フィリアは弟を見て、少し目を細めた。
「感情は大切ですが、処理は冷静に」
「分かっています」
「本当に?」
「姉上ほどではありませんが」
「よろしい」
そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。
だが、問題の重さは変わらない。
王は最後に、全員を見渡した。
「アルト殿との面会は明日、正式に受ける」
「明日ですか」
「早い方がいい」
王の声は重い。
「王国は、友を軽んじぬ。その姿勢を示す必要がある」
セレナが静かに頷いた。
「そして、ルナさんを守る意思も」
「ああ」
王は書簡をもう一度見た。
「フェルナンド派には、王家の忍耐を試す代償を払ってもらう」
その言葉に、会議室の空気が冷えた。
国王アルディオンは温厚な王だ。
だが、温厚とは弱さではない。
王国を守るためなら非情にもなれる。
そのことを、重臣たちはよく知っていた。
⸻
会議が終わった後、王と王妃、フィリアだけが部屋に残った。
夜はさらに深い。
窓の外には、王都の灯りが星のように散らばっている。
セレナが静かに口を開いた。
「ルナさんは、また傷つくでしょうか」
母としての問いだった。
王はすぐには答えなかった。
代わりにフィリアが言う。
「もう傷ついていると思います」
セレナの瞳が揺れる。
「ですが、彼女には友人がいます。家族もいます。以前より、ずっと支えるものがある」
「ええ」
「だからこそ、私たちはその支えを壊させてはなりません」
王は深く頷いた。
「アルト殿に、王国が敵ではないと示さねばならぬ」
「それだけではありませんわ」
フィリアの声が少し鋭くなる。
「王国が、子供の居場所を守れる国であることも示すべきです」
王は娘を見た。
そして、わずかに笑った。
「お前は時々、私より王らしいことを言う」
「では、兄より王に向いているかしら」
「否定はせぬ」
セレナが少し困ったように二人を見る。
だが、その目には微かな笑みもあった。
⸻
夜明け前。
王城からアルトの屋敷へ返書が送られた。
封蝋には王家の紋章。
内容は簡潔だった。
王は面会を受ける。
明日、王城小会議室にて。
王妃、第一王女、宰相、学院監察官も同席。
事態を王家として重く受け止める。
セラフィスはその返書を受け取り、アルトへ渡した。
アルトは読み終え、静かに頷いた。
「王は理解していますね」
「そのようです」
ヴァルクが低く言う。
「なら、話すだけか」
「話して、決めます」
アルトは窓の外を見た。
朝の光が、王都の屋根を淡く照らし始めている。
ルナはまだ眠っている。
今日も学院へ行き、友人たちと学院祭の準備をするだろう。
笑い、失敗し、また少し成長するだろう。
その日常を守るために。
大人たちは、別の場所で動き始める。
アルトの目は穏やかだった。
けれど、その奥には揺るがない決意があった。
「フェルナンド一派には、退場していただきましょう」
セラフィスは深く一礼した。
「仰せのままに」
王都の朝が始まる。
学院祭の明るい準備の裏で、王国中枢を巻き込む静かな粛清の幕が、ゆっくりと上がろうとしていた。




