第三十一話 保護者見学日
学院祭を数日に控えた王立学院は、朝からどこか落ち着かなかった。
廊下には飾り布が仮止めされ、教室の前には出し物の案内札が立てかけられ、普段なら整然としている掲示板も、学院祭の予定表や注意事項で埋まりつつある。
しかし、その日の生徒たちをそわそわさせていたのは、学院祭だけではなかった。
保護者見学日。
学院祭の前に設けられる、授業参観と準備風景の公開日。
保護者や後見人が学院を訪れ、普段の授業や学院祭準備の様子を見学する日である。
貴族子女たちにとっては、家族に自分の成長を見せる日。
商家や平民出身の生徒にとっては、支えてくれる家族へ学院での姿を見せる貴重な日。
そしてルナにとっては、アルトたちが初めて正式に学院へ来る日だった。
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朝、屋敷の食堂で、ルナはいつもより少し落ち着きがなかった。
セラフィスの用意した朝食は、焼きたてのパンと卵料理、温かなスープ、果実の蜂蜜漬け。
いつもなら美味しく食べるはずなのに、今日は何度も匙を止めてしまう。
アルトは向かいの席から、静かにそれを見ていた。
「緊張していますか」
「……少し」
「私たちが学院へ行くから?」
「うん」
ルナは正直に頷いた。
「変じゃないかな」
「何がですか」
「アルトたちが来るの。みんな見ると思うし、また噂になるかもしれない」
セラフィスが優雅に紅茶を注ぎながら微笑む。
「噂なら、すでに十分ございます」
「それはそうだけど」
「今さら一つ二つ増えたところで、誤差です」
「誤差なの?」
ルナは少し困った顔をした。
ヴァルクは静かにパンを裂きながら言った。
「見るだけだ」
「ヴァルクが?」
「そうだ」
「近衛兵の訓練の時、見るだけじゃなかった」
「今日は学院だ」
それは答えになっているようで、なっていない気がした。
アルトは少し笑う。
「心配しなくて大丈夫です。今日は、あなたがどんなふうに学院で過ごしているのかを見せてもらうだけです」
「……ちゃんとできてなかったら?」
「それも見ます」
「え」
「失敗しているところも含めて、あなたの今ですから」
その言葉に、ルナは少しだけ肩の力を抜いた。
完璧でなくてもいい。
失敗しても、見てもらえる。
それは、以前のルナには考えられない安心だった。
「じゃあ、来て」
ルナは小さく言った。
「ちゃんと見てて」
「ええ」
アルトは穏やかに頷いた。
「必ず」
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王立学院の正門前は、午前から多くの馬車で賑わっていた。
家紋入りの貴族馬車。
商家の荷馬車を改装したもの。
護衛を伴った一団。
徒歩で訪れる家族。
保護者たちはそれぞれの装いで学院へ入り、受付で名を告げ、案内役の生徒に連れられて校舎へ向かっていく。
その中に、アルトたち三人が現れた時、周囲の空気が明らかに変わった。
アルトは黒を基調にした落ち着いた礼装を纏っていた。
派手な装飾はない。
だが上質な布地と、襟元に走る銀糸が、静かな品を添えている。
黒髪は整えられ、柔らかな表情をしているが、その立ち姿には不思議な存在感があった。
隣にはセラフィス。
白銀の執事服は一分の隙もなく整い、姿勢も所作も完璧だった。
彼が一歩歩くだけで、周囲の貴族使用人たちが思わず目を奪われるほどだった。
そして後ろにヴァルク。
濃紺の礼装に身を包み、剣は携えていない。
しかし、剣がなくても彼が剣士であることは隠せない。
無言で立つだけで、周囲の護衛たちが自然と姿勢を正した。
受付の女生徒が、アルトの姿を見て一瞬固まった。
「あ、あの……お名前を」
「アルトです。ルナの保護者として参りました」
「ル、ルナさんの……」
女生徒の頬がわずかに赤くなる。
隣の案内役の少女が小声で囁いた。
「黒髪の美丈夫……本物……」
「聞こえます」
セラフィスが微笑む。
二人の女生徒は同時に背筋を伸ばした。
「し、失礼しました!」
アルトは困ったように笑った。
「お気になさらず」
その穏やかな声に、周囲の女生徒たちがさらにざわついた。
「優しそう……」
「王家が礼を尽くす方って本当なのね」
「隣の執事様も美しすぎない?」
「あの寡黙な方、近衛訓練場の……」
囁きはすぐに広がった。
アルトたちが学院へ来た。
それだけで、廊下の空気が少し華やぎ、同時に緊張を帯びた。
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一年Sクラスの教室では、ルナがそわそわと窓の外を見ていた。
エマが隣で笑う。
「ルナ、落ち着かないね」
「うん」
「アルトさんたちが来るから?」
「うん」
リリアーナは楽しそうに微笑んでいる。
「学院中が少し騒がしくなりそうですわね」
「もう騒がしくなってると思う」
カインが廊下の方を見ながら言った。
実際、廊下からはいつもより多い足音と囁き声が聞こえていた。
セシリアは落ち着いた様子で席に座っていたが、視線だけはルナを気にしていた。
「ルナさん」
「なに?」
「大丈夫です。あなたのご家族は、堂々とお迎えすべき方々です」
「堂々と……」
「ええ。少なくとも、隠れる必要はありません」
その言葉は、セシリアらしい励ましだった。
少し硬いけれど、真っ直ぐだ。
ルナは小さく頷いた。
「うん」
その時、教室の扉が開いた。
ミレディアが入ってくる。
「授業参観を開始します。保護者の方々は後方へ」
その声に合わせて、保護者たちが教室へ入ってきた。
貴族の父母。
商家の親。
騎士家の家族。
そして最後に、アルトたち三人。
教室の空気が一瞬で変わった。
女生徒たちが息を呑む。
男子生徒たちも思わず姿勢を正す。
ルナは椅子から少し立ち上がりかけ、慌てて座り直した。
アルトは後方からルナを見つけると、静かに微笑んだ。
大きく手を振るわけではない。
ただ、目で「来ましたよ」と伝えるように。
ルナはそれだけで、胸が温かくなった。
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授業は魔法理論だった。
ミレディアは保護者がいても、いつもと変わらない。
板書は正確で、声は落ち着き、説明は明晰だった。
今日の内容は、複合属性魔法における干渉制御。
火と風、水と土、光と闇。
複数の属性を合わせる際、互いの性質がどのように影響し合うのか。
保護者の中には専門的すぎて分からない者もいたが、Sクラスの生徒たちは真剣に聞いていた。
「では、この式の誤りを説明できる者」
ミレディアが黒板の術式を示す。
教室に緊張が走る。
難問だった。
数人が考え込む。
ルナもじっと黒板を見つめた。
普段ならすぐに手を上げることもある。
けれど今日は、後ろにアルトたちがいる。
少し緊張する。
間違えたら恥ずかしい。
そう思った瞬間、アルトの言葉を思い出した。
失敗しているところも含めて、あなたの今。
ルナは息を吸い、手を上げた。
「ルナさん」
「はい」
立ち上がる。
後方の視線を感じる。
けれど、黒板を見る。
「誤りは、風属性の補助節が火属性の増幅節と直接繋がっているところです。これだと火力は上がりますが、熱量の逃げ道がなくなって暴発しやすくなります」
ミレディアが頷く。
「続けて」
「間に制御節を一つ挟んで、風を推進ではなく循環に使うべきです。そうすると火の形が安定します」
ルナは少し迷いながらも、自分の言葉で説明した。
完璧な専門用語だけではない。
けれど分かりやすい。
ミレディアは満足げに頷いた。
「正解です」
教室に小さな感嘆が広がる。
後方で、アルトは静かに目を細めた。
セラフィスは誇らしげに微笑み、ヴァルクは無言で頷いた。
ルナは席に座る。
胸が少し高鳴っていた。
褒められたことよりも、見てもらえたことが嬉しかった。
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その後の授業でも、ルナは何度か発言した。
エマも薬草魔法の応用について答えた。
リリアーナは歴史に絡む魔法制度の質問で見事な回答をした。
セシリアは美しい言葉で礼法と魔法儀礼の関係を説明し、保護者席のフォルクハルト伯爵夫妻が静かに微笑んでいた。
カインは戦術的な魔法配置について答え、父グレアムが満足そうに頷いた。
Sクラスの授業は、保護者たちに確かな印象を与えた。
このクラスは優秀だ。
そして、その中心の一人にルナがいる。
それは誰の目にも明らかだった。
⸻
授業が終わると、短い休憩時間になった。
保護者たちは教室後方や廊下で子どもたちと話し始める。
ルナは少し緊張しながらアルトたちのもとへ向かった。
「どうだった?」
最初に聞いてしまう。
アルトは穏やかに答えた。
「素晴らしかったです」
ルナの頬が少し赤くなる。
「本当?」
「ええ。説明も分かりやすかった」
セラフィスも微笑む。
「お嬢様の成長を拝見でき、感無量でございます」
「大げさ」
「いいえ。最初に魔法理論の本を開いた時を思えば、胸が熱くなります」
ヴァルクは短く言った。
「よく立っていた」
「授業で?」
「そうだ」
ルナは少し笑った。
「ありがとう」
その様子を、周囲の女生徒たちが遠巻きに見ていた。
「優しい……」
「ルナさん、あんな顔するのね」
「ご家族の前だと、少し幼く見える」
「アルト様、本当に保護者なの?」
「若すぎるわ」
囁きは、好奇心と羨望に満ちていた。
だが、その中に小さな棘も混ざっている。
「でも、あの方々がいるからルナさんは特別扱いされているのでは?」
「王女殿下とも近いし」
「今日も授業で目立っていたわね」
「本当に実力だけなのかしら」
その声は小さかった。
けれど、セラフィスの耳には届いた。
彼の微笑みは崩れなかった。
ただ、瞳の奥だけがわずかに冷える。
ヴァルクもまた、視線を動かした。
アルトはルナと話しながら、静かに周囲の空気を読んでいた。
噂。
悪意というには薄い。
だが、意図的に育てられた疑念の匂いがある。
彼はすぐに何かを言うことはしなかった。
ルナの前で空気を壊す必要はない。
けれど、見過ごすつもりもなかった。
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次の時間は、学院祭準備の見学だった。
一年Sクラスの喫茶店準備が、保護者にも公開される。
教室は再び混乱していた。
机を客席風に並べ、衣装の試作品を着た生徒たちが接客練習をする。
ルナも白いシャツに紺の前掛け、胸元に銀色のリボンをつけていた。
その姿を見た瞬間、アルトは少しだけ動きを止めた。
ルナがそれに気づく。
「変?」
「いいえ」
アルトは微笑んだ。
「とても似合っています」
ルナの顔が真っ赤になった。
「そういうこと、すぐ言う」
「事実ですから」
セラフィスも深く頷く。
「お嬢様、大変お似合いです」
ヴァルクも短く言う。
「良い」
「みんなで褒めないで」
ルナは前掛けの裾を握りながら、恥ずかしそうに俯いた。
その様子を見て、エマがにやにやし、リリアーナは上品に微笑み、セシリアは少しだけ頬を緩めた。
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接客練習が始まった。
今回は保護者が客役になる。
ルナの最初の客は、アルトたちだった。
よりによって、である。
ルナは盆を持つ手に少し力を入れた。
「い、いらっしゃいませ」
「三名です」
アルトが真面目に答える。
セラフィスも客役として完璧に振る舞い、ヴァルクは黙って立っている。
「こちらへどうぞ」
ルナは席へ案内する。
今度は自分が先に座らなかった。
エマが遠くから小さく親指を立てる。
ルナは見なかったことにした。
「ご注文をお伺いします」
アルトはメニューを見た。
「おすすめは?」
ルナは少し考える。
「疲労回復なら香草茶。甘いものと一緒なら蜂蜜ミルク。セラフィスはたぶん香草茶の方が好き。ヴァルクは……水?」
「なぜだ」
ヴァルクが低く言う。
「甘いの飲む?」
「飲む」
「じゃあ蜂蜜ミルク」
アルトが笑いを堪え、セラフィスは肩を震わせていた。
ルナは途中で自分が接客練習を忘れて普通に話していることに気づき、慌てて姿勢を戻す。
「失礼しました。ご注文を復唱します」
その様子に、周囲の保護者や生徒から柔らかな笑いが起きた。
ルナの頬は赤かった。
しかし、その笑いは悪意あるものではなかった。
温かいものだった。
アルトはその光景を見て、胸の奥が静かに満たされるのを感じた。
ルナが人の前で失敗している。
けれど、怯えていない。
笑われても、崩れない。
周囲の笑いが優しいものだと分かっている。
それは、彼女がここで少しずつ居場所を得た証だった。
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喫茶店準備の見学後、保護者たちは廊下や中庭へ散っていった。
アルトたちもルナと少し離れ、学院の様子を見て回ることになった。
案内役はリリアーナが申し出たが、王女自ら案内すると騒ぎになるため、結局エマとカインも同行する形になった。
廊下を歩くと、あちこちで噂が聞こえた。
「ルナさん、保護者まで華やかね」
「喫茶店、本当に王女殿下も出るのかしら」
「客寄せには十分ね」
「公爵家の後ろ盾があると、何でも中心に立てるのね」
アルトの足がわずかに止まった。
ほんの一瞬。
だがセラフィスは気づいた。
ヴァルクも。
エマは顔を曇らせ、カインは眉を寄せた。
「最近、こういう噂が少し増えています」
カインが低く言った。
「誰が流しているのかは分かりません。でも、自然に広がった感じではない」
エマも小さく頷く。
「ルナは気にしないようにしてるけど……たぶん聞こえてる」
アルトは静かに目を伏せた。
「そうですか」
声は穏やかだった。
だが、その静けさがかえって重い。
セラフィスの微笑みは、いつものままだった。
「主様」
「分かっています」
アルトは廊下の先を見た。
「学院内のことです。まずは、ルナ自身がどう受け止めているかを見ます」
「はい」
「ただし、背後に大人がいるなら話は別です」
その声に、エマは少しだけ背筋を伸ばした。
怒鳴るわけではない。
威圧するわけでもない。
しかしアルトの言葉には、静かな怒りがあった。
ルナを守る者の怒り。
カインはその横顔を見て、改めて思った。
この人は、やはりルナの家族なのだ。
⸻
見学日の終わり。
校門へ向かう前、アルトたちはもう一度Sクラスの教室へ戻った。
ルナは片づけを終え、友人たちと一緒に笑っていた。
エマが茶器を抱え、リリアーナがリボンの位置を直し、セシリアが会計札を確認し、ミーナが追加のパンの相談をしている。
その中心で、ルナは自然に動いていた。
誰かの質問に答え、誰かの手伝いをし、時々笑う。
アルトはその姿をしばらく黙って見ていた。
森で一人、生きていた頃の自分には、想像もできなかった光景。
誰かを育てる。
誰かが成長する。
その姿を見て、胸が温かくなる。
人は一人でも生きられる。
けれど誰かと生きることで、こういう感情を知るのだと、アルトは静かに思った。
ルナが気づいて駆け寄ってくる。
「もう帰る?」
「ええ」
「今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ、見せてくれてありがとうございます」
ルナは少し照れたように笑う。
「本番も来てね」
「必ず」
セラフィスも一礼する。
「楽しみにしております」
ヴァルクは短く言った。
「蜂蜜ミルク」
「覚えておく」
ルナは笑った。
その笑顔を見て、アルトは決めた。
この笑顔を曇らせる噂があるなら、見極めなければならない。
学院の子供同士の未熟さなら、ルナ自身が向き合うべきこともある。
だが、大人が陰で糸を引いているなら。
それはもう、子供の問題ではない。
⸻
帰りの馬車の中、セラフィスが静かに口を開いた。
「噂の出どころ、調べますか」
アルトは窓の外を見ていた。
夕暮れの王都が流れていく。
学院の塔が遠ざかる。
「ええ。ただし、静かに」
「承知しました」
ヴァルクが低く言う。
「潰すか」
「まだ早いです」
「早いか」
「ええ」
アルトは目を細めた。
「まずは、誰が何のためにしているのかを知る必要があります」
「分かった」
セラフィスは柔らかく微笑んだ。
その笑みは美しかったが、どこか冷たかった。
「では、少しだけ調べておきましょう」
馬車は王都の石畳を静かに進んでいく。
その中で、アルトは今日見たルナの姿を思い出していた。
授業で手を上げる姿。
接客練習で失敗して赤くなる姿。
友人たちと笑う姿。
そして、噂の中でも学院へ通い続ける姿。
感慨と、静かな怒り。
その二つが胸の奥で混ざっていた。
学院祭は近い。
明るい祭りの裏で、暗い糸もまた動いている。
だが、その糸がルナへ届く前に。
アルトたちは、静かに目を開いた。




