第二十八話 夜の勉強会と、暗い廊下の声
試験の気配は、また学院の空気を少しずつ変え始めていた。
廊下を歩く生徒の手には教本が増え、食堂の会話には点数や課題の話が混ざり、図書塔の席は昼休みになるとすぐに埋まるようになった。
そんなある日の昼食時。
ルナは、いつもの窓際の席で、エマ、リリアーナ、セシリアと食事をしていた。
今日の献立は、白身魚の香草焼き、麦入り野菜スープ、柔らかな白パン、林檎の蜜煮だった。
エマはスープに入っている香草を見分けようとし、リリアーナは林檎の蜜煮を美しく切ろうとして少し苦戦し、セシリアはそれを見て控えめに微笑んでいた。
「次の小試験、範囲が広いよね」
エマが匙を置きながら言った。
「魔法理論に、戦術に、歴史まであります」
リリアーナが少し遠い目をした。
「歴史……また歴史ですのね」
「リリアーナ、歴史苦手?」
セシリアが尋ねる。
「苦手ではありません。ただ、歴代王の皆様が私の記憶の中でしばしば入れ替わります」
「それは苦手と言うのでは……」
エマが小さく笑う。
ルナも少し笑った。
以前なら、こうして友人たちと同じ席で笑う自分など想像できなかった。
けれど今は、この席が自然になりつつある。
それが、少し不思議で、とても嬉しかった。
「じゃあ、また勉強会する?」
ルナが言うと、エマの顔がぱっと明るくなった。
「したい!」
リリアーナも頷く。
「ぜひ。前回の勉強会は大変有意義でした」
セシリアは少し躊躇いながらも、小さく手を重ねた。
「私も……参加してよろしいでしょうか」
「もちろん」
ルナはすぐに答えた。
セシリアの表情が、ほんの少し緩む。
まだぎこちない。
でも、以前のような硬い壁はない。
「場所、どうしよう」
エマが首を傾げる。
「図書塔は最近混んでるし」
「食堂は騒がしいですわね」
リリアーナが考える。
その時、ルナは少し迷ってから言った。
「私の家……来る?」
三人の視線が、一斉にルナへ向いた。
ルナは言ってから少し恥ずかしくなった。
「広い部屋があるし、セラフィスがお茶も用意してくれると思う。夜でも大丈夫なら」
「夜の勉強会……!」
エマが目を輝かせた。
「なんか特別感ある!」
「アルト様のお屋敷ですか」
リリアーナも興味深そうに微笑む。
「それはぜひ伺いたいですわ」
セシリアは少しだけ緊張した顔になった。
「ご迷惑ではありませんか?」
「たぶん大丈夫。アルトに聞いてみる」
「アルト様にも?」
「うん」
ルナは少しだけ笑った。
「家族だから」
その言葉を自然に言えたことに、ルナ自身も少し驚いた。
セシリアはその横顔を見て、静かに目を細めた。
家族。
ルナがその言葉を大切そうに口にする理由を、今のセシリアは少しだけ理解できる気がした。
⸻
その日の帰宅後、ルナは夕食の席で勉強会の話を切り出した。
「アルト」
「はい」
「友達と、夜に勉強会をしたい」
アルトは紅茶を置いた。
セラフィスはすでに何かを察したように微笑み、ヴァルクは静かに肉を切っている。
「場所は?」
「この家」
「なるほど」
「エマと、リリアーナと、セシリア。あと、できればミーナも呼びたい。学院の課題じゃないけど、夜に一緒にいたら楽しそうだから」
言いながら、ルナは少し不安になった。
人数が多いだろうか。
迷惑ではないだろうか。
屋敷は広い。
けれど、友人を夜に呼ぶということ自体が初めてだった。
「だめ?」
小さく尋ねる。
アルトはすぐに首を横に振った。
「いいえ。とても良いと思います」
ルナの表情が明るくなる。
「本当?」
「ええ」
セラフィスが静かに言った。
「では、当日は軽食と温かい飲み物をご用意しましょう。夜の勉強会であれば、重すぎないものがよろしいですね」
「セラフィス、いいの?」
「もちろんです。お嬢様の初めての夜の勉強会ですから」
お嬢様。
そう呼ばれることにも、ルナは少しずつ慣れてきた。
くすぐったいが、嫌ではない。
ヴァルクが短く言う。
「護衛は増やす」
「そこまでしなくても」
「夜だ」
アルトも頷いた。
「王女殿下と伯爵令嬢も来るなら、最低限の配慮は必要でしょう」
「うん……」
少し大げさな気もしたが、ルナは頷いた。
自分の家に友達が来る。
それだけのことなのに、胸が弾む。
食卓の灯りが、いつもより温かく見えた。
⸻
勉強会の日は、数日後の夕方に決まった。
学院が終わると、ルナたちは一度それぞれ準備を整え、日が傾く頃にアルトたちの屋敷へ集まることになった。
ミーナは学院の正式な生徒ではないが、商業区画でルナたちと顔なじみであり、夕方ならパン屋の手伝いを終えて来られると言った。
「夜の勉強会? 私、勉強することあるかな?」
ミーナは笑った。
「パン屋の帳簿とか、商売の計算とか」
エマが言うと、ミーナは少し真顔になった。
「それは必要だね。行く!」
そうして、五人の夜の勉強会が決まった。
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当日。
王都の空は暮れかけていた。
西の空には淡い茜色が残り、屋敷の窓には魔導灯の柔らかな光が灯っている。
アルトの屋敷は、王都の西区画にありながら、庭木に囲まれて落ち着いた佇まいをしていた。
大きすぎるほど大きい。
けれど、王城や貴族邸のような威圧感はない。
どこか静かで、温かい。
最初に来たのはエマだった。
小さな鞄を抱え、少し緊張した顔で門の前に立つ。
「ここ……ルナの家?」
迎えに出たルナが頷く。
「うん」
「大きい……」
「私も最初そう思った」
続いてリリアーナが王家の護衛付きで到着した。
護衛は門の外で待機し、リリアーナ自身は楽しそうに屋敷を見上げる。
「素敵なお屋敷ですわ。落ち着いた雰囲気で」
その後、セシリアが馬車で来た。
彼女は淡い青の外出着に身を包み、少し緊張しながら馬車を降りた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「来てくれて嬉しい」
ルナが言うと、セシリアの表情が柔らかくなった。
最後にミーナが紙袋を抱えて駆け込んできた。
「遅れてない!?」
「大丈夫」
「よかった! 差し入れ持ってきた!」
紙袋の中には、小さな蜂蜜パンと塩バターの丸パンが入っていた。
セラフィスがそれを受け取り、優雅に一礼する。
「ありがとうございます。後ほど温め直してお出しいたします」
「えっ、執事さんが本格的すぎる……」
ミーナが小声で呟き、エマが笑った。
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勉強会の場所は、屋敷二階の広い談話室だった。
大きな丸テーブル。
柔らかな椅子。
壁一面の本棚。
窓の外には庭が見え、夜風に揺れる木々の影が魔導灯の光に重なっていた。
テーブルの上には、すでにセラフィスが準備を整えていた。
温かい香草茶。
蜂蜜入りのミルク。
薄く切った果実。
小さな焼き菓子。
ミーナのパン。
軽いサンドイッチ。
勉強道具を広げる場所も十分にある。
「……これ、勉強会?」
エマが呟く。
「晩餐会みたいですわ」
セシリアも目を丸くする。
リリアーナは満足げに頷いた。
「素晴らしい環境です」
ルナは少し誇らしかった。
自分の家。
自分の帰る場所。
そこへ友人たちが来ている。
それが夢のようだった。
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勉強会は、思ったより真面目に始まった。
最初の科目は魔法理論。
ルナが中心になり、複合属性の安定化について説明する。
「火と風を合わせる時、風で火を強くするだけだと暴れやすいの。だから先に流れの通り道を作る」
ルナは紙に図を描く。
線は細く、分かりやすい。
エマが必死にメモを取り、セシリアは真剣に頷き、リリアーナは時折質問を挟む。
「では、光属性を混ぜる場合は?」
「光は形を持たせるより、境界を作る感じ。強く入れすぎると、逆に他の属性を弾く」
「なるほど……」
セシリアが小さく呟く。
「昨日の模擬戦で、私の光をそうやって処理したのですね」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「感覚もあるから」
セシリアは少し苦笑した。
「あなたの“たぶん”は、時々とても高度です」
その言葉に皆が笑った。
⸻
次は歴史だった。
リリアーナが少し顔を曇らせる。
「来ましたわね、宿敵が」
「歴史、宿敵なんだ」
ミーナがパンをかじりながら言う。
「歴代王の名前が難敵です」
「パン屋の帳簿より難しい?」
「種類が違いますわ」
セシリアが丁寧に年表を整理し、ルナが出来事の流れを説明し、エマが重要語句をカードにまとめる。
ミーナは学院の歴史科目には直接関係ないが、話を聞きながら時々素朴な疑問を挟んだ。
「なんでその王様、戦争したの?」
「税が足りなかったから?」
「それなら商売下手だったんじゃない?」
その一言に、リリアーナが吹き出した。
「歴史の授業でその視点は新鮮です」
セシリアも口元を押さえて笑う。
ルナも笑った。
ミーナの発言は、時に教本より分かりやすかった。
歴史上の出来事が、突然、人の生活に近いものとして見えてくる。
「ミーナ、すごい」
「えっ、私?」
「うん。分かりやすい」
「じゃあ私も勉強会に役立ってる!」
ミーナは胸を張った。
⸻
夜が深まるにつれ、勉強会は少しずつ和やかなものになった。
集中して問題を解く時間。
分からないところを質問する時間。
休憩でパンを食べる時間。
リリアーナが蜂蜜ミルクを気に入り、セシリアがミーナの塩バターパンを上品に、けれどしっかり食べ、エマが薬草茶の香りを分析する。
ルナはその中心にいた。
誰かに教え、誰かの話を聞き、時々笑う。
談話室の魔導灯は柔らかく、窓の外の夜は静かだった。
その空間は、ルナにとって不思議なほど温かかった。
学院ではない。
王城でもない。
市場でもない。
自分の家に、友人たちがいる。
その事実だけで、胸が満たされる。
「ルナ」
エマがふと声をかけた。
「なに?」
「ここ、すごく落ち着くね」
リリアーナも頷く。
「ええ。立派なお屋敷ですが、不思議と緊張しません」
セシリアも少し考えて言った。
「……温かい場所です」
ルナは少しだけ目を伏せた。
「私も、そう思う」
その声には、深い安堵があった。
⸻
廊下では、アルトたちが静かにその様子を見守っていた。
アルトは談話室の扉の外で、少しだけ中の声を聞いていた。
笑い声。
紙をめくる音。
ペンの走る音。
誰かがパンを褒める声。
ルナの笑い声。
それだけで、彼は胸の奥が静かに温まるのを感じた。
「楽しそうですね」
セラフィスが隣で言う。
「ええ」
「お嬢様は、ずいぶん変わられました」
「そうですね」
ヴァルクは壁際に立ち、腕を組んでいた。
「よく笑う」
「ええ」
アルトは小さく頷いた。
ルナがこの屋敷に来たばかりの頃、彼女は笑わなかった。
怯え、警戒し、言葉を選び、少しの物音にも肩を震わせていた。
今、その少女が友人たちと夜の勉強会をしている。
それは、小さな奇跡のようだった。
⸻
勉強会の終わり際。
セラフィスが温かいミルクと果実の小皿を運んできた。
「そろそろ休憩になさってはいかがでしょう」
「ありがとうございます」
セシリアが丁寧に礼を言う。
ミーナは小声でエマに囁いた。
「この執事さん、完璧すぎて逆に怖くない?」
「ちょっと分かる」
セラフィスは微笑んだ。
「聞こえております」
二人が同時に背筋を伸ばした。
ルナが笑う。
リリアーナも楽しそうに目を細める。
夜の談話室は、笑い声に包まれていた。
その夜、勉強は確かに進んだ。
けれど、それ以上に進んだものがあった。
五人の距離。
互いを知る時間。
ルナが、自分の家を友人たちに見せる勇気。
セシリアが、完璧でなくても同じ席にいられる安心。
エマが、身分の違いを越えて自然に話す楽しさ。
リリアーナが、王女ではなく友人として過ごせる時間。
ミーナが、学院の外からその輪に加わる明るさ。
それらが、夜の静けさの中で少しずつ重なっていった。
⸻
友人たちが帰った後、屋敷は静かになった。
ルナは談話室の片づけを少し手伝いながら、まだ頬を緩めていた。
「楽しかったですか」
アルトが尋ねる。
「うん」
即答だった。
「すごく楽しかった」
「それは良かった」
「またしたい」
「もちろん」
ルナは胸の前でノートを抱いた。
「みんなが、この家を温かいって言ってくれた」
「そうですか」
「嬉しかった」
アルトは静かに微笑んだ。
「ここは、あなたの帰る場所ですから」
ルナは少し照れたように頷いた。
その夜、自室に戻ったルナはノートを開いた。
今日の欄に、丁寧に書く。
――夜の勉強会。
――みんなが家に来た。
――すごく楽しかった。
少し考えて、さらに一行。
――この家が、もっと好きになった。
書き終えると、胸が温かかった。
⸻
だが、その温かな灯りから遠く離れた王都の一角で、別の夜が動いていた。
貴族街の北側。
フェルナンド侯爵の別邸。
重いカーテンが閉ざされた応接室には、数名の貴族が集まっていた。
燭台の火が、壁に長い影を落としている。
そこにある空気は、ルナたちの勉強会とはまったく違っていた。
温かさはない。
あるのは、濁った不満と、湿った嫉妬だった。
「王国友誼公爵などという前例のない称号を与えられた男」
フェルナンド侯爵が低く言った。
「その養女となる少女が、学院で王女殿下と親しくし、伯爵令嬢たちまで取り込みつつある」
別の貴族が苦々しく頷く。
「放置すれば、若い世代の序列が乱れます」
「しかも苗字もない娘だったとか」
「王家は何を考えているのか」
フェルナンドは杯を置いた。
その音が重く響く。
「王家は、あの黒髪の男を恐れている。だから特別扱いをしているのだ」
「では、直接手を出すのは危険では?」
「誰が直接などと言った」
フェルナンドの目が細くなる。
「剣で傷つける必要はない。名誉を傷つければよい」
部屋の空気が沈む。
「学院で噂を流せ。彼女の成績は王家の後ろ盾によるものだと。教師が忖度していると。王女殿下へ取り入っていると」
「しかし、実力は本物では?」
「真実など関係ない」
フェルナンドは冷たく言った。
「疑念を植えれば十分だ」
別の男が小さく笑った。
「では、彼女の周囲から崩すのは?」
「友人関係か」
「はい。商家の娘、パン屋の娘、伯爵令嬢、王女殿下。身分差のある集まりです。少し揺さぶれば、綻びは出るでしょう」
フェルナンドはしばらく考えた。
そして、ゆっくり頷いた。
「まずは学院内に種を撒け」
「どのような」
「ルナという少女は、周囲を利用している。そう見えるようにな」
燭火が揺れる。
誰かが低く笑った。
その笑い声は、閉ざされた部屋の中で小さく反響した。
彼らは知らない。
その少女がどれほど傷つきながら人と向き合っているかを。
彼女の友人たちが、どれほど不器用に、けれど確かに繋がり始めているかを。
彼らが見ているのは、地位と序列だけだった。
だからこそ、温かなものを踏みにじることに躊躇がなかった。
⸻
夜は深まる。
一方では、少女たちの笑い声が余韻として残る屋敷。
もう一方では、暗い意図が囁かれる貴族の別邸。
王都の灯りは同じように窓を照らしていた。
だが、その光の下で育つものはまるで違う。
ひとつは友情。
ひとつは陰謀。
そして、その二つはやがて、学院という小さな世界の中で静かにぶつかろうとしていた。




