第二十七話 四人の昼食
翌朝、セシリアはいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ淡い青色で、王都の屋根には朝露が残っている。貴族街の通りは静かで、遠くを走る馬車の音もまだ少ない。
普段の彼女なら、目覚めると同時に今日の予定を確認していた。
礼法の予習。
魔法理論の復習。
教師への提出物。
家名に恥じぬ所作。
けれど今朝、一番に浮かんだのは違うことだった。
――今日は、ルナさんたちと昼食を食べる。
その事実だけで、胸が少し落ち着かなくなった。
嬉しい。
でも不安。
何を話せばいいのか分からない。
笑うタイミングを間違えたらどうしよう。
堅苦しすぎたら、距離を置かれるだろうか。
逆に馴れ馴れしくしてしまったら、失礼になるだろうか。
考えれば考えるほど、答えは出なかった。
セシリアは鏡の前で制服の襟を整えながら、小さく息を吐いた。
「……完璧にしようとしない」
昨夜、父に言われた言葉を思い出す。
友人関係まで完璧にしようとするな。
ぎこちなくていい。
少しずつでいい。
それでも、長年染みついた癖は簡単には抜けない。
セシリアは結局、髪をいつもより少しだけ柔らかく結い、リボンも派手すぎない淡い青を選んだ。
それが友人との昼食にふさわしいのかどうかは分からない。
けれど、少しだけ自分らしく、少しだけ近づきやすくありたいと思った。
⸻
学院へ着くと、朝の空気はまだ涼しかった。
白い校舎の窓には朝日が反射し、中庭の噴水は静かに水を跳ねている。
セシリアはSクラスの教室の前で、少しだけ足を止めた。
昨日の夜、決めたことがある。
今日は、自分から言う。
おはよう、と。
たったそれだけのことなのに、胸が高鳴る。
扉を開ける。
教室の中には、すでに数人の生徒がいた。
ルナは窓際の席で、教本を開いていた。
朝の光を受けて、横顔が柔らかく見える。
セシリアは一歩、近づいた。
ルナが気づいて顔を上げる。
その瞬間、セシリアは少しだけ息を吸った。
「おはようございます、ルナさん」
言えた。
自分から。
そのことに、セシリア自身が一番驚いた。
ルナは一瞬、目を丸くした。
それから、ふわりと笑った。
「おはよう、セシリア」
その笑顔を見た瞬間、セシリアの胸に温かいものが広がった。
昨日まで、ルナの笑顔は少し眩しくて苦しかった。
でも今日は違う。
自分へ向けられたものだと思えた。
「今日の昼食……」
セシリアは少し緊張しながら言った。
「ご一緒しても、よろしいでしょうか」
「うん。もちろん」
ルナはすぐに頷いた。
「エマとリリアーナにも言ってある」
「そう、ですか」
よかった。
そう思ったのに、また少し不安になる。
エマとはまだ深く話したことがない。
リリアーナは王女殿下だ。
自分はうまく馴染めるだろうか。
その不安が顔に出たのか、ルナが小さく首を傾げた。
「緊張してる?」
「……少し」
「私も、最初はすごく緊張した」
「ルナさんも?」
「うん。でも二人とも優しいよ」
その言葉は、不思議と心を落ち着かせた。
優しい。
ルナがそう言うなら、きっとそうなのだろう。
⸻
午前の授業は、いつもより少し早く過ぎたように感じた。
魔法理論。
礼法史。
基礎戦術。
教師の声も、板書も、内容は頭に入っている。
けれど、昼休みのことが気になって、セシリアは何度か羽根ペンを止めた。
自分でもおかしいと思う。
試験前でもないのに、ここまで緊張するなんて。
隣の取り巻きが小声で話しかけてきた。
「セシリア様、本当にルナさんたちと昼食を?」
「ええ」
「私たちは……」
「今日は、私一人で行きます」
取り巻きたちは少し驚いた顔をした。
だがセシリアは静かに続ける。
「これは、私自身のことですから」
それ以上、誰も何も言わなかった。
セシリアは自分の声が思ったより落ち着いていたことに、少し驚いた。
誰かの目を気にして動くのではなく、自分で選ぶ。
それは、小さなことのようで、彼女には大きな変化だった。
⸻
昼休みの鐘が鳴った。
学院食堂は、いつものように賑やかだった。
焼きたてのパンの香り。
スープの湯気。
皿が触れ合う音。
生徒たちの笑い声。
窓から差し込む陽光が、長いテーブルの上に明るい帯を作っている。
今日の昼食は、学院食堂の人気献立だった。
香草鶏のクリーム煮。
柔らかな白パン。
春野菜のサラダ。
豆と根菜の温スープ。
蜂蜜バターの小さな焼き菓子。
それに、果実水。
セシリアは盆を持ちながら、食堂の入口で少し立ち止まった。
いつもなら貴族子女たちの席へ向かう。
だが今日は違う。
窓際の席。
そこにルナがいた。
隣にエマ。
向かいにリリアーナ。
三人はすでに席を取っていて、セシリアを見つけると顔を上げた。
ルナが小さく手を振る。
エマは少し緊張したように笑う。
リリアーナはいつも通り優雅に微笑んだ。
「セシリアさん、こちらです」
王女に呼ばれて、周囲の視線が動く。
セシリアの背筋が自然と伸びた。
けれど、今はその視線に応えるためではなく、自分が選んだ席へ向かうために歩いた。
「失礼いたします」
セシリアは丁寧に言って、空いていた席へ座った。
四人のテーブル。
それだけで、食堂の一角が少し特別な場所になったように感じた。
⸻
最初の数分は、ぎこちなかった。
ルナはセシリアを気にしている。
エマは何を話せばいいか迷っている。
セシリアも同じだった。
リリアーナだけが、その空気を楽しむように静かにスープを口へ運んでいた。
先に口を開いたのは、エマだった。
「あ、あの、セシリアさん」
「はい」
「そのリボン、きれいですね」
セシリアは一瞬、予想外の言葉に目を瞬かせた。
「……ありがとうございます」
「淡い青、似合ってます」
エマの声は素直だった。
社交辞令ではない。
だからこそ、セシリアは少し返答に困った。
「今日は……少しだけ、柔らかい色にしてみました」
「いいと思います」
エマが笑う。
ルナも頷いた。
「うん。綺麗」
セシリアの頬がわずかに熱くなる。
「そ、そうでしょうか」
「うん」
リリアーナが楽しげに言った。
「セシリアさんは、凛とした色も似合いますが、柔らかい色も素敵ですわ」
「ありがとうございます、殿下」
「ここではリリアーナで構いません」
セシリアは固まった。
「……それは、さすがに」
「ルナさんもエマさんも、そう呼んでいます」
「ですが」
「友人との昼食ですもの」
友人。
またその言葉。
セシリアは胸の奥をくすぐられるような感覚を覚えた。
王女殿下を名前で呼ぶなど、貴族社会の常識では簡単なことではない。
だが、リリアーナは本気で言っている。
ここでは身分よりも、同じ席を囲む時間を大切にしたいのだと。
「……努力します」
セシリアがそう言うと、リリアーナは満足そうに微笑んだ。
「それで十分です」
⸻
食事が始まると、少しずつ空気がほどけていった。
香草鶏のクリーム煮は、温かく濃厚だった。
柔らかな鶏肉に白いソースが絡み、刻まれた香草が爽やかに香る。
春野菜のサラダは彩りがよく、薄く切った赤蕪、若い葉野菜、細い人参が酸味のあるドレッシングで和えられていた。
豆と根菜のスープは優しい味で、匙を運ぶたびに身体が温まる。
エマはスープを一口飲み、目を細めた。
「この根菜、たぶん軽い滋養作用があります」
「食べて分かるの?」
ルナが驚く。
「少しだけ。薬草商会の娘だから」
「すごい」
「でも戦術は分からない」
エマが真顔で言うと、ルナが笑った。
セシリアも思わず口元を緩めた。
その笑みは小さかったが、エマが気づいて嬉しそうにした。
「セシリアさんは、苦手な科目ありますか?」
突然の問いに、セシリアは少し戸惑った。
苦手。
その言葉を自分に許したことは、あまりない。
けれど昨日、父と母に言われた。
完璧でなくていい。
セシリアは少し考え、正直に答えた。
「……剣術は、得意とは言えません」
「でも昨日、すごかった」
ルナが言う。
セシリアは驚いて彼女を見る。
「私が?」
「うん。魔法と剣を一緒に使うの、すごく綺麗だった」
「綺麗……」
「火と風の使い方が上手だった。最後の魔法も、組み立てがすごかった」
ルナの声には嘘がなかった。
慰めでもない。
本当にそう思っている声だった。
セシリアの胸が、また少し熱くなる。
「私は、負けましたのに」
「でも、セシリアの努力は分かった」
その一言で、セシリアは何も言えなくなった。
努力。
ずっと欲しかった言葉。
結果ではなく、順位ではなく、家名でもなく。
自分が積み重ねたものを見てもらえた。
それが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
「……ありがとうございます」
セシリアは小さく言った。
ルナは少し照れたようにパンをちぎった。
⸻
途中、リリアーナが蜂蜜バターの焼き菓子を四等分しようとした。
それを見たルナが慌てて止める。
「リリアーナ、危ない」
「私もそろそろ上達したいのですが」
「前も言ってた」
「王女は焼き菓子を切る機会が少ないのです」
エマが笑いながら言う。
「それは確かに」
セシリアは、そのやり取りを不思議な気持ちで見ていた。
王女殿下が、焼き菓子を切ろうとしている。
ルナがそれを止めている。
エマが笑っている。
貴族の食卓ならあり得ない光景だった。
だが、嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥が温かくなる。
「では、私が切りましょうか」
セシリアは思い切って言った。
三人の視線が集まる。
セシリアは少し緊張しながら、ナイフを取った。
焼き菓子は小さく、四等分にするには意外と難しい。
完璧に切らなければ。
一瞬そう思った。
だが、すぐに自分で気づく。
完璧にしなくていい。
セシリアは慎重に切った。
結果、四つの大きさは少しだけ違った。
彼女は硬直した。
「……申し訳ありません。少し不均等に」
エマが即座に言った。
「一番大きいの、誰にします?」
リリアーナが真剣な顔で答える。
「本日の新しい友人記念として、セシリアさんへ」
「えっ」
ルナも頷く。
「うん。セシリアが切ってくれたから」
「い、いえ、それは」
「受け取ってください」
リリアーナが微笑む。
セシリアは、差し出された一番大きな焼き菓子を見つめた。
形は少し崩れている。
けれど、甘い蜂蜜の香りがする。
彼女はそっと受け取った。
「……ありがとうございます」
一口かじる。
外は軽く香ばしく、中はしっとり甘い。
蜂蜜バターが口の中で溶ける。
それは王侯貴族の晩餐に出る菓子よりも素朴だった。
だが、なぜかとても美味しかった。
「おいしいです」
セシリアが言うと、三人が嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、セシリアは思った。
ああ、これが友人と食べるということなのだ。
⸻
昼食の後半には、会話も少し自然になっていた。
エマが薬草の話をする。
リリアーナが学院の隠れた名所を教える。
ルナがミーナのパン屋の話をする。
セシリアは最初、聞き役に徹していた。
けれど、ミーナの話になると少し首を傾げた。
「市場通りのパン屋、ですか」
「うん。ミーナの家」
ルナが嬉しそうに言う。
「すごくおいしい」
「試験終わりに四人で食べました」
エマが言う。
「四人?」
「私、ルナ、リリアーナ、ミーナ」
「王女殿下が市場のパンを……」
セシリアが思わず呟くと、リリアーナはにこりと笑った。
「とても美味しかったですわ」
「それは……興味があります」
言ってから、セシリアは自分で驚いた。
市場のパン屋へ行く。
以前の自分なら、考えもしなかった。
けれど今は、少し行ってみたいと思った。
ルナの顔が明るくなる。
「じゃあ、今度一緒に行く?」
「よろしいのですか?」
「うん。ミーナも喜ぶと思う」
エマも頷いた。
「ミーナ、友達増えるの好きそう」
リリアーナが楽しげに言う。
「では次回は五人ですね」
五人。
その中に自分が入っている。
セシリアは胸の奥がじんわり温かくなった。
「……楽しみにしています」
その言葉は、自然に出た。
⸻
昼休みが終わる鐘が近づく頃、四人は食器を片付けた。
セシリアは立ち上がり、少し名残惜しさを感じていた。
短い時間だった。
ぎこちない場面もあった。
言葉に迷うことも、返答に詰まることもあった。
それでも、嫌な疲れではなかった。
むしろ、心が少し柔らかくなったようだった。
食堂を出る前、ルナが言った。
「また一緒に食べよう」
セシリアはすぐに答えられなかった。
嬉しくて、少し言葉に詰まったからだ。
「……はい」
それから、少しだけ勇気を出して続けた。
「ぜひ」
ルナが笑う。
エマも笑う。
リリアーナも満足げに頷く。
その輪の中に、自分がいる。
セシリアはそのことを、静かに胸へ刻んだ。
⸻
午後の授業が始まっても、セシリアの心は少し浮いていた。
浮ついているわけではない。
ただ、いつもより世界が柔らかく見える。
教室の空気。
羽根ペンの音。
窓から差し込む光。
ルナが時々ノートを取る横顔。
それらを見て、セシリアは思った。
自分は、何かを失ったわけではない。
負けた。
謝った。
完璧ではないと認めた。
それなのに、何も終わらなかった。
むしろ、新しいものが始まった。
それは彼女にとって、とても不思議なことだった。
⸻
放課後、セシリアは屋敷へ戻る馬車の中で、窓の外を見ていた。
今日の昼食のことを、どう両親に話そうか考える。
蜂蜜バターの焼き菓子を四等分したこと。
一番大きな欠片をもらったこと。
市場通りのパン屋へ誘われたこと。
王女殿下を名前で呼ぶよう促されたこと。
どれも、以前の自分なら上手く説明できない出来事ばかりだった。
でも、話したい。
今日あったことを、父と母に聞いてほしい。
その気持ちに気づいた時、セシリアは少し笑った。
帰ることが、以前より少し楽しみになっている。
それもまた、昨日から変わったことだった。
⸻
その夜。
フォルクハルト伯爵家の食卓で、セシリアはいつもより多く話した。
「今日、ルナさんたちと昼食をいただきました」
父は静かに顔を上げた。
母は嬉しそうに微笑む。
「どうでした?」
「……緊張しました」
正直に答える。
「でも、楽しかったです」
セシリアは少しずつ話した。
エマがリボンを褒めてくれたこと。
リリアーナが名前で呼ぶよう言ってくれたこと。
ルナが自分の魔法を綺麗だったと言ってくれたこと。
焼き菓子を切ったら少し不均等になったこと。
そして、一番大きい欠片をもらったこと。
話しているうちに、自然と表情が緩んでいく。
母はその顔を見て、目を細めた。
父も、黙って聞きながら、どこか安心したようだった。
「市場通りのパン屋へも、誘っていただきました」
「行きたいのか」
父が尋ねる。
セシリアは少し迷い、それから頷いた。
「はい。行ってみたいです」
父はしばらく考えた。
貴族令嬢が市場通りのパン屋へ行く。
護衛の問題も、社交上の問題もある。
だが、父は言った。
「護衛をつければよい」
セシリアは驚いて顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「ああ」
父は少しだけ口元を緩める。
「友人との約束なのだろう」
その言葉に、セシリアの胸がまた温かくなった。
「はい」
母が微笑む。
「よかったわね」
「はい」
セシリアは、今度ははっきりと笑った。
⸻
夜、自室に戻ったセシリアは日記帳を開いた。
昨日の一行が目に入る。
――親友ができたかもしれない。
その文字を見ると、まだ少し恥ずかしい。
けれど消したいとは思わなかった。
今日の欄に、彼女は丁寧に書いた。
――初めて四人で昼食を食べた。
少し考えて、もう一行。
――ぎこちなかったけれど、とても楽しかった。
さらに、少しだけ笑って書き足す。
――蜂蜜バターの焼き菓子は、友人と食べると特別に甘い。
書き終えると、胸が満たされるようだった。
完璧な一日ではなかった。
言葉に詰まった。
緊張した。
王女殿下を名前で呼べなかった。
焼き菓子も均等に切れなかった。
けれど、それでよかった。
それでも楽しかった。
それでもまた一緒に食べたいと思った。
セシリアは日記帳を閉じ、そっと灯りを落とした。
明日も学院へ行く。
ルナに挨拶をする。
エマと話す。
リリアーナを、いつか自然に名前で呼べるようになるかもしれない。
そしていつか、市場通りのパン屋へ行く。
そう思うと、明日が少し楽しみになった。
セシリアは目を閉じた。
完璧でない自分を、少しだけ許せた夜だった。




