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異世界最強の引きこもりは、人と生きる意味を知る  作者: わまたよ


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第二十六話 伯爵家の食卓に咲くもの

 セシリアは、その日の帰り道、自分の胸がいつもより軽いことに気づいていた。


 馬車の窓の外には、夕暮れの王都が流れている。


 白い石畳。


 閉店準備を始める商店。


 遠くに見える学院の尖塔。


 街路の魔導灯が一つずつ灯り始め、橙色の空の下で王都は静かに夜の顔へ変わろうとしていた。


 いつもなら、学院から屋敷へ戻る時間は、反省の時間だった。


 今日の授業での答えは正確だったか。


 礼法の所作に乱れはなかったか。


 教師からの評価はどうか。


 順位は維持できるか。


 誰かに隙を見せなかったか。


 セシリアは馬車の中でも背筋を伸ばし、膝の上で手を重ね、頭の中で一日を採点していた。


 けれど今日は違った。


 思い出すのは、点数でも順位でもなかった。


 中庭の木陰。


 ルナのまっすぐな瞳。


 自分の口からこぼれた謝罪。


 そして――友達、という言葉。


 友達。


 その響きは、まだ胸の中で落ち着かなかった。


 親友と呼ぶには早すぎるのかもしれない。


 けれど、セシリアの心はもう、その言葉を手放したくなかった。


 馬車の揺れに合わせて、胸の奥が小さく温まる。


 誰かと比べるためではない。


 勝つためでも、誇るためでもない。


 ただ、明日また話したいと思える相手ができた。


 それだけのことが、こんなにも心を軽くするのだと、セシリアは初めて知った。



 伯爵家の屋敷は、王都貴族街の東側にあった。


 白灰色の石壁と深緑の屋根。


 門柱には家紋が刻まれ、庭は季節の花々で美しく整えられている。


 使用人たちはいつも通り静かに礼をし、玄関広間には磨き込まれた大理石の床が広がっていた。


 すべてが整っている。


 何も乱れていない。


 それはセシリアが幼い頃から見てきた、完璧な家の姿だった。


 だが、今日はその完璧さが少し違って見えた。


 以前は、屋敷へ帰るたびに、自分もまた完璧でいなければならないと思っていた。


 この床を歩く足音すら乱してはいけない。


 食卓での声の高さも、笑みの形も、匙を置く角度さえも。


 伯爵家の娘として、正しく。


 美しく。


 誇り高く。


 そうしなければ、自分には価値がないような気がしていた。


 だが今日、セシリアは少しだけ違う自分を持ち帰っていた。


 ルナに謝った自分。


 悔しさを認めた自分。


 友達になりたいと願った自分。


 そのどれもが完璧ではなかった。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 侍女が礼をする。


「ただいま」


 セシリアはいつも通り答えたつもりだった。


 だが侍女は一瞬、目を瞬かせた。


 その声が、いつもより柔らかかったからだ。



 夕食の席には、父と母がすでに座っていた。


 父、エルネスト・フォルクハルト伯爵。


 王国貴族院に席を持つ、理知的な男だった。


 黒に近い金髪を後ろへ流し、厳格な顔立ちをしている。声を荒らげることは少ないが、その一言には重みがあり、家中の者が自然と背筋を伸ばす。


 母、クラリス・フォルクハルト。


 淡い金髪と深い青の瞳を持つ、美しい女性だった。


 礼法と社交に優れ、王都の貴族夫人たちの中でも一目置かれている。穏やかな微笑みを絶やさないが、その穏やかさの奥には、娘と同じような強い自制心があった。


 セシリアは席につく。


 食堂には銀の燭台が灯り、長いテーブルには白いクロスがかかっている。


 皿に盛られた料理は美しく、香りも上品だった。


 いつもと同じ食卓。


 けれど、今夜の空気は少し違っていた。


 父はしばらくセシリアを見ていた。


 その視線に、彼女はわずかに緊張する。


「セシリア」


「はい、お父様」


「昨日の模擬戦を見た」


 セシリアの指先が止まった。


 銀の匙が皿の上で、かすかに音を立てる。


「……ご覧に、なられていたのですか」


「ああ。教師席の後方からな。学院長に許可を得ていた」


 母も静かに頷いた。


「私も見ていました」


 胸が急に強く鳴った。


 見られていた。


 負けた姿を。


 ルナに届かなかった自分を。


 必死に戦い、最後に敗北した自分を。


 セシリアは背筋を伸ばした。


 叱責を受ける準備をした。


 伯爵家の娘が、公の場で敗れた。


 しかも、感情を理由に模擬戦を申し込んだ。


 非難されても仕方がない。


「申し訳ありません」


 セシリアは静かに頭を下げた。


「私情を抑えきれず、学院で目立つ行いをしました。結果も敗北でした。フォルクハルト家の名を――」


「違う」


 父の声が、静かに遮った。


 セシリアは顔を上げた。


 父は厳しい顔をしていた。


 しかし、その厳しさは叱責のものではなかった。


 何かを堪えるような、苦い表情だった。


「謝るのは、私たちの方だ」


 セシリアは言葉を失った。


「お父様……?」


 母がそっと手を重ねる。


 その指先は、わずかに震えていた。


「セシリア。私たちは、あなたに完璧であることを求めすぎました」


 母の声は柔らかかった。


 けれど、その奥に深い後悔があった。


「あなたが幼い頃から、礼儀正しくあれ、優秀であれ、伯爵家にふさわしくあれと教えてきました。それがあなたを守ることだと思っていました」


 父が続ける。


「貴族社会は甘くない。弱さを見せれば利用される。無知であれば侮られる。だから私は、お前を強く育てねばならないと思った」


 セシリアは黙って聞いていた。


 父の言葉は、これまで何度も聞いてきたものと似ていた。


 だが今日は、響きが違った。


「だが昨日、お前を見て分かった」


 父の声が少し低くなる。


「お前はずっと、無理をしていたのだな」


 胸の奥に、何かが刺さった。


 その言葉を聞いた瞬間、セシリアの視界が少し滲んだ。


 無理をしていた。


 そう認められたことが、こんなに痛くて、こんなに救われるものだとは思わなかった。


「私は……」


 声が詰まる。


「私は、伯爵家の娘ですから」


「それ以前に、私たちの娘だ」


 父の言葉は短かった。


 だが、今まで聞いたどんな褒め言葉よりも深く胸に落ちた。


 母は席を立ち、セシリアの隣へ来た。


 そして、そっと彼女の肩に手を置く。


「昨日のあなたは、完璧ではありませんでした」


 母が言う。


 セシリアは小さく息を呑む。


 だが母は、優しく微笑んだ。


「でも、とても立派でした」


「……立派?」


「ええ。悔しさから逃げず、自分の未熟さからも逃げず、真正面から向き合っていました」


 母の声が少し震える。


「私は、あなたがあんなふうに必死に戦っている姿を見て……誇らしかったのです」


 セシリアの胸の奥で、固く結ばれていた糸が少しずつほどけていく。


 叱られると思っていた。


 敗北を責められると思っていた。


 もっと努力しなさいと言われると思っていた。


 けれど、父も母も、今夜は違った。


 彼女の敗北を責めるのではなく、その裏にあった苦しさを見ていた。


 戦った姿を見ていた。


「私は……ルナさんに負けました」


 セシリアはようやく言った。


 声が震える。


「全力でした。魔法も、剣も、今の私にできるだけのことをしました。それでも、届きませんでした」


「ああ」


 父は頷いた。


「見ていた」


「悔しかったです」


「そうだろう」


「でも……」


 セシリアは唇を噛んだ。


 涙がこぼれそうだった。


「ルナさんは、私を傷つけませんでした。私の魔法を壊さず、剣を折らず、最後まで見てくれました」


 母が静かに聞いている。


「私は、あの方を嫌っていました。羨ましくて、悔しくて、身分違いなどとひどいことも言いました」


 言葉にすると、また胸が痛んだ。


「でも、今日……謝りました」


 父の目がわずかに動く。


「そうか」


「はい。許してもらえるかは分からないと思っていました。全部忘れることはできないと言われました」


 セシリアは目を伏せる。


「でも、少しずつなら話してみたいと。友達になろうと、言ってくれました」


 そこで声が崩れた。


 母の手が、肩から背へ回る。


 幼い頃以来の、柔らかな触れ方だった。


「お母様……」


「よかったわね、セシリア」


 その一言で、涙がこぼれた。


 ぽろりと。


 伯爵令嬢としては、食卓で泣くなど許されないことだった。


 だが今夜、父も母もそれを咎めなかった。


 父はただ静かに、娘が涙を拭うのを待っていた。


 母は隣で、セシリアの背を撫でていた。


 セシリアは泣きながら、小さく笑った。


「私……親友ができたのかもしれません」


 その言葉は、少し幼く響いた。


 自分でも驚くほど、素直な声だった。


「まだ、ぎこちないです。何を話せばいいのかも分かりません。明日の昼食も、きっと緊張します」


 涙の残る目で、セシリアは父と母を見た。


「でも、嬉しいのです」


 父は長く黙っていた。


 そして、少しだけ表情を和らげた。


「そうか」


 それだけだった。


 だがセシリアには分かった。


 父は喜んでいる。


 不器用で、言葉は少ないけれど。


「大切にしなさい」


 父が言った。


「はい」


「ただし、無理に完璧な友人であろうとするな」


 その言葉に、セシリアは一瞬きょとんとした。


 父が少しだけ視線を逸らす。


「……私が言うのもおかしな話だが」


 母が小さく笑った。


「ええ、本当に」


「クラリス」


「でも、その通りですわ」


 母はセシリアを見た。


「友人関係まで完璧にしようとしたら、疲れてしまいます。ぎこちなくていいのです」


「ぎこちなくて……」


「ええ。少しずつ、互いを知ればいいのです」


 セシリアはルナの言葉を思い出した。


 少しずつなら。


 話してみたい。


 その言葉は、今また胸の中で温かく広がった。



 食事は、いつもより少し長く続いた。


 父は学院での模擬戦について、戦術的な面を尋ねた。


 セシリアは、ルナの魔法制御について話した。


 火、水、風、光を組み合わせた自分の最後の魔法を、ルナが壊さずに包んで散らしたこと。


 剣を打ち払うのではなく、流したこと。


 最後に背を支えられ、倒されなかったこと。


 父は真剣に聞いていた。


「相手を傷つけずに勝つか」


「はい」


「それは、強いだけではできない」


 父の声には感嘆があった。


 母も言った。


「きっと、優しい方なのですね」


 セシリアは少し考えた。


「優しい……のだと思います。でも、ただ優しいだけではありません」


「どういう意味?」


「強いから、優しくできるのだと思います」


 言ってから、セシリアは自分の言葉に納得した。


 ルナの優しさは、弱さではない。


 相手を恐れて譲るものでもない。


 傷つけられる力があるのに、傷つけないことを選ぶ優しさ。


 それは、セシリアが今まで知らなかった強さだった。


「私も、ああなりたい」


 自然に言葉がこぼれた。


 父と母が彼女を見る。


 セシリアは頬を少し赤くしながらも、続けた。


「勝つだけではなく、相手を見られる人に。自分の誇りを守るだけではなく、相手の誇りも踏みにじらない人に」


 母は静かに微笑んだ。


「もう、なり始めていますよ」


 その言葉に、セシリアは胸が詰まった。


 以前なら、そんな慰めは信じられなかった。


 自分はまだ足りない。


 まだ不完全。


 もっと努力しなければ。


 そう思っただろう。


 けれど今夜は、その言葉を少しだけ受け取れた。


 なり始めている。


 完全ではない。


 でも、少しずつ変われる。


 それでいいのかもしれない。



 食事の後、セシリアは自室へ戻った。


 部屋はいつも通り整っている。


 書棚には教本が並び、机の上には明日の授業準備が整えられている。窓辺には淡い香りの花が飾られ、天蓋付きの寝台には白い布がかけられていた。


 完璧な部屋。


 けれど今日のセシリアは、その完璧さの中で少しだけ力を抜くことができた。


 机に向かい、日記帳を開く。


 これまでは、日記にも反省ばかりを書いていた。


 今日の失敗。


 明日の目標。


 改善点。


 身につけるべき所作。


 しかし今日は、羽根ペンを持ったまま少し迷い、いつもとは違う言葉を書いた。


 ――ルナさんと和解した。


 少し間を置く。


 胸が温かい。


 さらに続ける。


 ――親友ができたかもしれない。


 書いた瞬間、顔が熱くなった。


 親友。


 まだ早いかもしれない。


 ルナに言ったら驚かれるかもしれない。


 エマやリリアーナにも笑われるかもしれない。


 でも、そう書きたかった。


 それほど嬉しかった。


 セシリアは日記帳を閉じ、胸に抱いた。


 今日は負けた日の翌日だった。


 普通なら、屈辱を噛みしめる日だったはずだ。


 けれど、今の胸にあるのはそれだけではなかった。


 悔しさはある。


 ルナに届かなかった現実は消えない。


 だが、その悔しさの隣に、温かいものがある。


 友達ができた。


 両親と話せた。


 完璧でなくてもいいと、少しだけ思えた。


 それは、セシリアにとって大きな変化だった。



 夜更け。


 セシリアは寝台に入った。


 灯りを落とすと、部屋は柔らかな暗闇に包まれる。


 窓の外には王都の灯りが遠く瞬いていた。


 明日の昼食。


 ルナと、エマと、リリアーナと一緒に食べる。


 何を話せばいいのだろう。


 薬草の話にはついていけるだろうか。


 市場のパン屋の話をされたら、どう返せばいいのだろう。


 王女殿下の前で自然に振る舞えるだろうか。


 考えると、不安は尽きない。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 以前の不安は、失敗してはいけないという恐怖だった。


 今の不安は、うまく仲良くなりたいという期待に近かった。


 セシリアは毛布を少し引き寄せる。


 胸の奥に、昼間のルナの声が残っている。


 少しずつなら。


 話してみたい。


 その言葉を思い出すたびに、心が少し軽くなる。


「……明日」


 小さく呟く。


「ちゃんと、おはようと言いましょう」


 これまでは、ルナに挨拶される側だった。


 冷たく返す側だった。


 でも明日は、自分から言ってみたい。


 おはよう、と。


 たったそれだけ。


 けれど、セシリアにとっては大きな一歩だった。


 完璧な令嬢としてではなく。


 伯爵家の名を背負う者としてでもなく。


 ただ、友達になりたい一人の少女として。


 セシリアは目を閉じた。


 眠りに落ちる直前、胸の奥に浮かんだのは、敗北の悔しさではなかった。


 白砂の上で自分を支えたルナの手。


 中庭で交わした不器用な言葉。


 そして、食卓で初めて少しだけ近づいた父と母の顔。


 負けたことで、失ったものもあった。


 けれど、得たものはそれよりずっと温かかった。


 その夜、セシリアは久しぶりに、反省ではなく明日への期待を抱いて眠りについた。

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