第二十五話 ぎこちない友達
模擬戦の翌日、Sクラスの教室はいつもより静かだった。
誰もが普通を装っていた。
教本を開き、羽根ペンを準備し、隣席の者と短い挨拶を交わす。
けれど、空気の底にはまだ昨日の白砂の熱が残っている。
ルナとセシリアの模擬戦。
名門伯爵令嬢が申し込み、学年首位の少女が受けた、決闘まがいの正式な模擬戦。
結果はルナの勝利だった。
しかし、ただ勝っただけではない。
教師陣が息を呑んだのは、彼女の強さではなく、勝ち方だった。
セシリアの魔法を壊さず、剣を折らず、誇りを踏みにじらず、最後まで受け止めて終わらせた。
その戦い方が、生徒たちの間にも静かな波紋を広げていた。
⸻
ルナは教室の扉の前で、一度だけ深呼吸した。
昨日は勝った。
でも、それで全部が終わったわけではない。
むしろ、今日からが始まりなのだと思った。
セシリアがどう思っているのかは分からない。
悔しさで、もっと嫌われたかもしれない。
話しかけない方がいいのかもしれない。
けれど、昨日逃げなかったのに、今日逃げるのは違う気がした。
ルナは扉を開ける。
教室の中の視線が、ほんの少し動いた。
窓際。
セシリアの席。
彼女はすでに座っていた。
背筋を伸ばし、教本を開き、いつも通り美しく整った姿勢で。
けれど、その横顔は少しだけ硬かった。
ルナは自分の席へ向かう前に、セシリアの机の前で足を止めた。
胸が小さく鳴る。
「……おはよう、セシリア」
いつもの挨拶。
でも今日は、いつもより少し声が震えた。
セシリアはページをめくる手を止めた。
ほんの一拍。
長い一拍。
それから彼女は、ゆっくり顔を上げた。
青みがかった瞳が、ルナを映す。
「おはようございます、ルナさん」
返事は丁寧だった。
冷たくはなかった。
そのことに、ルナは少し驚いた。
セシリア自身も、自分の声が思ったより柔らかく出たことに驚いていた。
教室の空気がわずかに揺れる。
周囲の生徒たちが、気づかぬふりをしながら二人を見ていた。
ルナは何か続けようとした。
しかし、言葉が出てこない。
昨日のこと。
戦ってくれてありがとう。
怪我はない?
大丈夫?
どれも言いたい。
けれど、どれから言えばいいのか分からなかった。
セシリアもまた、同じように言葉を探していた。
その結果、二人は数秒ほど見つめ合ったまま黙った。
なんともぎこちない沈黙だった。
先に目を逸らしたのは、ルナだった。
「……また、あとで」
「ええ」
それだけ。
けれど昨日までとは違った。
セシリアの返事には、拒絶がなかった。
⸻
午前の授業が終わっても、二人はすぐに話せなかった。
休み時間になるたび、ルナはセシリアの方をちらりと見る。
セシリアもまた、ルナを見る。
目が合う。
どちらかが逸らす。
その繰り返しだった。
エマはその様子を見て、小声で言った。
「話したそう」
「うん」
ルナは素直に頷いた。
「でも、何を言えばいいか分からない」
リリアーナが横から微笑む。
「でしたら、まず場所を変えるのがよろしいかと」
「場所?」
「教室では周囲の目があります。人は、見られていると素直になりにくいものです」
エマも頷く。
「中庭とか?」
「はい。昼休みに誘ってみては?」
ルナは少し不安げにセシリアの席を見る。
「断られたら?」
「その時は、その時です」
リリアーナは優しく言った。
「でも昨日、セシリアさんも逃げませんでした。今日も逃げないかもしれません」
その言葉に、ルナは小さく頷いた。
人と向き合うのは怖い。
けれど、一人で怖がっていても何も変わらない。
昨日、自分は戦った。
なら今日は、言葉で向き合う日なのだ。
⸻
昼休み。
ルナはセシリアの机へ向かった。
手のひらに少し汗をかいている。
セシリアは昼食の準備をしていた。
取り巻きの令嬢たちは少し離れたところで待っている。
ルナが近づくと、彼女たちは一斉に黙った。
「セシリア」
ルナが呼ぶ。
セシリアが顔を上げる。
「何でしょう」
「少し、話せる?」
セシリアの瞳が揺れた。
取り巻きたちが息を呑む。
断ることもできた。
ここで「用事があります」と言えば、それで終わる。
けれど、セシリアは昨日の白砂を思い出した。
ルナは、自分の全力から逃げなかった。
ならば自分も、今日の言葉から逃げてはいけない。
「……ええ」
セシリアは静かに立ち上がった。
「少しだけなら」
ルナはほっとしたように頷いた。
二人は教室を出た。
背中に多くの視線を感じる。
けれど、誰もついてこなかった。
リリアーナが穏やかな笑みで周囲を制していたからだ。
⸻
二人が向かったのは、学院の中庭の奥にある木陰だった。
以前、ルナが一人で昼食を取った場所。
人通りから少し外れ、噴水の音が遠くに聞こえる。
春の風が木々を揺らし、葉の影が石畳の上で静かに動いていた。
ルナとセシリアは、少し距離を置いて立った。
近すぎず。
遠すぎず。
その距離が、今の二人らしかった。
最初に口を開いたのは、セシリアだった。
「昨日は、ありがとうございました」
丁寧な礼。
しかし声は少し硬い。
「こちらこそ」
ルナも答える。
「戦ってくれて、ありがとう」
また沈黙。
風が葉を鳴らす。
遠くで、誰かの笑い声が聞こえた。
セシリアは視線を落とし、指先を握った。
「……悔しかったです」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「昨日も、今も」
ルナは黙って聞いた。
「私は、ずっと努力してきました。家に恥じないように。誰にも見下されないように。完璧であるように」
セシリアの言葉は、少しずつ速くなる。
「学院へ入れば、自分の努力を証明できると思っていました。けれど、あなたがいた」
ルナの胸が小さく痛んだ。
「あなたは、突然現れて、私が積み上げてきたものを越えていきました。魔法も、試験も、剣も」
セシリアは顔を上げる。
瞳には、涙が滲んでいた。
だが彼女は泣かなかった。
「嫌いでした」
その言葉は鋭かった。
しかし、嘘ではなかった。
「あなたを見るたび、私の足りなさを見せつけられる気がした。あなたが笑っていると、どうして自分にはそれがないのかと思った」
声が震える。
「でも昨日、分からなくなりました」
「分からなく?」
「ええ」
セシリアは胸元に手を置いた。
「あなたは、私を傷つけませんでした。勝てたのに、簡単に終わらせられたのに、そうしなかった。私の魔法を見て、剣を見て、最後まで受け止めた」
ルナはそっと目を伏せる。
「それは……セシリアが本気だったから」
「本気なら、倒せばよかったでしょう」
「そうしたくなかった」
「なぜ?」
昨日も聞かれた問い。
ルナは少し考え、今度は昨日よりも言葉を探した。
「セシリアは、私にちゃんと向き合おうとしてくれたから」
セシリアの瞳が揺れる。
「最初は、怖かった。嫌味も言われたし、身分違いって言われた時は、すごく悲しかった」
セシリアの顔が痛みに歪む。
「……申し訳ありません」
それは、初めての謝罪だった。
飾りのない、真っ直ぐな言葉。
ルナは静かに首を振る。
「今でも、思い出すと少し痛い。でも、昨日のセシリアは、私をただ傷つけたい人じゃなかった」
「……」
「だから、知りたいと思った」
ルナは自分の胸に手を当てる。
「私は、人と仲良くなるのがまだ下手。どうすればいいか、分からないことばかり。でも、分からないまま嫌いになるのは嫌だった」
セシリアは言葉を失った。
自分は、分からないまま嫌っていた。
ルナのことを知ろうとせず、出自や才能や立場だけを見て、勝手に傷つき、勝手に憎んだ。
なのにルナは、知りたいと言う。
その差が、胸に刺さる。
「あなたは……強いのですね」
セシリアが呟いた。
ルナは驚いた顔をした。
「私が?」
「ええ。魔法や剣ではなく」
セシリアは少しだけ笑った。
泣きそうな笑みだった。
「人に向き合う強さです」
ルナは困ったように目を伏せる。
「強くないよ。すごく怖い」
「怖いのに、逃げないのでしょう」
「……逃げる時もある」
「それでも、戻ってくる」
セシリアの声は、少し柔らかくなっていた。
それは初めて聞く声だった。
貴族令嬢としての整った声ではなく、一人の少女の声。
⸻
しばらく、二人は黙っていた。
中庭の木漏れ日が、二人の足元に揺れている。
距離はまだ少しある。
けれど最初よりも、ほんの少しだけ近づいていた。
セシリアは深く息を吸った。
「ルナさん」
「うん」
「私は、あなたにひどいことを言いました」
ルナは静かに聞いている。
「身分違いなどと。あなたのことを何も知らずに、あなたの痛みも知らずに、ただ自分の悔しさをぶつけました」
セシリアは頭を下げた。
美しい金髪が肩から流れる。
「ごめんなさい」
その姿に、ルナは息を呑んだ。
名門伯爵令嬢が、誰もいない中庭で頭を下げている。
それはセシリアにとって、簡単なことではないはずだった。
ルナは少し迷った。
許す、という言葉をすぐに言っていいのか分からなかった。
傷ついたことは本当だ。
悲しかったことも本当だ。
けれど、セシリアが謝っていることも本当だった。
だからルナは、正直に言った。
「……すぐ全部忘れるのは、できないかもしれない」
セシリアの肩が小さく震えた。
でも、ルナは続ける。
「でも、謝ってくれて嬉しい」
セシリアがゆっくり顔を上げる。
「これから、少しずつなら」
「少しずつ?」
「うん。話してみたい」
セシリアの目に、今度こそ涙が浮かんだ。
彼女は慌てて目元を押さえる。
泣くつもりなどなかった。
泣くのは弱さだと、ずっと思っていた。
けれど、その涙は止まりそうになかった。
「……私も」
小さな声。
「私も、あなたと話してみたいです」
ルナは少しだけ笑った。
「じゃあ、友達……になる?」
言ってから、自分でも照れた。
セシリアも目を丸くした。
「友達」
「嫌?」
「嫌では、ありません」
「じゃあ?」
セシリアは視線を逸らし、頬を少し赤くした。
「……慣れていないだけです」
その言い方が少し可笑しくて、ルナは笑ってしまった。
セシリアも、つられるようにほんの少し笑った。
ぎこちない笑顔だった。
けれど、確かな笑顔だった。
⸻
昼休みの終わりが近づく頃、二人は教室へ戻った。
並んで歩くには少し距離がある。
会話もまだ少ない。
でも、行きと帰りでは何かが違っていた。
教室へ入ると、視線が一斉に向いた。
エマは不安そうにルナを見る。
リリアーナは静かに微笑む。
カインは何かを察したように頷いた。
ルナは自分の席へ戻ろうとした。
その時、セシリアが小さく言った。
「ルナさん」
「なに?」
「明日の昼食……」
セシリアは一度言葉を詰まらせた。
取り巻きたちが驚いた顔で見ている。
それでも、彼女は続けた。
「もしよろしければ、ご一緒しても?」
教室が静かになった。
ルナは少し驚いた。
それから、ゆっくり笑った。
「うん。一緒に食べよう」
エマがぱっと顔を明るくする。
リリアーナは満足げに頷いた。
セシリアは、ほっとしたように小さく息を吐いた。
友達。
その言葉はまだ慣れない。
少し照れくさくて、落ち着かなくて、どう振る舞えばいいのか分からない。
けれど、悪くなかった。
⸻
その日の放課後、ルナはいつもより少し軽い足取りで屋敷へ帰った。
門の外で待っていたアルトは、彼女を見るなり柔らかく目を細めた。
「今日は、良いことがありましたね」
「また顔に書いてある?」
「ええ」
ルナは少し笑った。
「セシリアと話した」
「そうですか」
「謝ってくれた。私も、少しずつ話してみたいって言った」
セラフィスが穏やかに微笑む。
「和解、でしょうか」
「たぶん。まだ、ぎこちないけど」
ヴァルクが短く言った。
「それでいい」
「うん」
ルナは空を見上げた。
夕暮れの王都は、柔らかな橙色に染まっている。
「友達になった」
その言葉を口にすると、胸が少し温かくなった。
アルトは静かに頷く。
「よく向き合いましたね」
「怖かった」
「それでも向き合った」
「うん」
ルナは小さく笑った。
「人と話すの、魔法より難しい」
「でしょうね」
「でも、少し分かった気がする」
「何をですか」
「怖くても、話してみないと分からないことがあるって」
アルトは嬉しそうに目を細めた。
「とても大切な学びです」
⸻
その夜、ルナは自室でノートを開いた。
これまでの言葉が並んでいる。
セシリア。
あいさつする。
こわがられても、やめない。
模擬戦。
傷つけずに終われた。
そして今日、ルナは新しい一行を書いた。
――セシリアと友達になった。
少し考えて、もう一行。
――ぎこちないけど、嬉しい。
その文字を見て、ルナは小さく笑った。
全部がすぐに綺麗になるわけではない。
言われた言葉の痛みが完全に消えたわけでもない。
セシリアもきっと、まだ悔しさを抱えている。
それでも、二人は話した。
謝った。
受け取った。
少しずつ近づくことを選んだ。
それは、小さくても確かな前進だった。
窓の外には王都の灯りが揺れている。
明日、セシリアと昼食を食べる。
どんな話をすればいいのか分からない。
沈黙するかもしれない。
ぎこちなくなるかもしれない。
でも、それでもいい。
友達になることは、きっと最初から上手にできるものではない。
何度も言葉を探し、少しずつ笑えるようになるものなのだ。
ルナは灯りを落とした。
胸の中には、静かな勇気が残っていた。
人と向き合う勇気。
それは剣よりも魔法よりも難しく、けれど同じくらい大切な力だった。




