第二十九話 学院祭の季節
小試験が終わった日の午後、王立学院の空気は少しだけ軽くなった。
数日前まで廊下に満ちていた緊張は薄れ、教本を抱えて俯いていた生徒たちの顔にも、ようやく年相応の色が戻り始めている。
試験結果はまだ出ていない。
けれど、終わったという事実だけで、人は少し息ができる。
食堂では甘い焼き菓子の売れ行きがいつもより良く、中庭では久しぶりに笑い声が弾んでいた。図書塔の閲覧席にも空きが戻り、代わりに商業区画の軽食屋には生徒たちが列を作っている。
ルナも、少しだけ肩の力を抜いていた。
小試験は難しかった。
魔法理論と戦術は手応えがあったが、歴史ではまた少し迷った箇所がある。
リリアーナは試験後、歴代王の名前を見たくないと真剣な顔で言い、エマは戦術問題を解き終えた瞬間に魂が抜けたようになり、セシリアはいつも通り美しい姿勢で答案を提出しながらも、教室を出た後に小さく息を吐いていた。
その全部が、今では少し微笑ましい。
試験を一緒に乗り越えた。
それだけで、友人たちとの距離がまた少し近づいた気がした。
⸻
その日の終礼前。
Sクラスの教室に、担任のミレディアが入ってきた。
いつもの黒い教員服。
銀灰色の髪をきっちり束ね、細縁の眼鏡の奥から教室を見渡す。
試験明けの浮ついた空気は、彼女が立つだけで少し引き締まった。
「皆さん、小試験お疲れさまでした」
短い労いの言葉に、生徒たちがわずかに安堵する。
しかし次の瞬間、ミレディアは一枚の書類を教卓に置いた。
「では、休む間もなく次の行事です」
教室に小さなどよめきが生まれた。
「学院祭の準備を始めます」
その言葉で、空気が一気に変わった。
学院祭。
王立学院で年に一度行われる大きな行事。
在校生だけでなく、保護者、卒業生、王都の有力者、商人、時には王族や貴族院関係者まで訪れる。
授業成果の展示。
武術演武。
魔法研究発表。
模擬店。
音楽会。
各クラスごとの出し物。
学生たちにとっては、日頃の緊張から解放される祭りであり、同時にクラスや個人の評価が外部へ示される重要な場でもあった。
特に一年Sクラスは注目されやすい。
王女リリアーナが在籍している。
学年首位のルナがいる。
名門伯爵令嬢セシリアがいる。
騎士家のカインもいる。
今年の一年Sクラスが何をするのか、学院内外の視線が集まるのは目に見えていた。
「本日は、クラスの出し物について話し合います」
ミレディアは淡々と言った。
「教師側からの指定はありません。ただし、学院祭にふさわしい節度と安全性を守ること。予算内に収めること。王立学院一年Sクラスとして恥ずかしくない内容にすること」
最後の一文で、数人の生徒が背筋を伸ばした。
「では、意見を出してください」
ミレディアがそう言った瞬間、教室は静まり返った。
誰もすぐには手を上げない。
こういう時、最初に意見を出すのは勇気がいる。
あまりに平凡なら笑われる。
あまりに奇抜なら反対される。
特にSクラスは貴族子女が多く、誰の提案が採用されるかが、微妙な序列の問題にも繋がる。
その重い沈黙を破ったのは、リリアーナだった。
「魔法展示はいかがでしょう」
王女らしい明るい声。
すぐに何人かが頷いた。
「良いと思います」
「Sクラスらしいですわ」
「来客にも見応えがあります」
しかし、別の生徒が手を上げた。
「ですが、魔法展示は上級生の研究科と被ります。特に三年魔導科が毎年大規模展示を行いますので、一年では見劣りするかと」
確かに、と教室の数人が頷く。
リリアーナは素直に頷いた。
「それもそうですわね」
次にカインが手を上げる。
「剣術や魔法戦闘の演武はどうですか」
騎士家の生徒たちが反応する。
「それなら準備も比較的分かりやすい」
「Sクラスの実力も示せる」
だが、今度は別の令嬢が眉を寄せた。
「学院祭に来るのは戦いを見たい方ばかりではありませんわ。小さな子供や貴婦人方も来ますし、荒々しすぎるのでは?」
「演武なら危険は少ない」
「しかし怪我の可能性はあります」
「それを言えば魔法展示も同じだ」
少し空気が硬くなる。
ルナは席でそのやり取りを聞いていた。
みんな真剣だ。
けれど、その真剣さが少しずつ尖り始めている。
⸻
意見は次々に出た。
魔法道具の展示。
剣術演武。
歴史劇。
小規模音楽会。
貴族礼法体験。
薬草茶の試飲会。
占い館。
焼き菓子の販売。
教室を使った展示会。
出るたびに誰かが賛成し、誰かが反対した。
最初は丁寧だった言葉も、少しずつ熱を帯びていく。
「礼法体験など、一般客には退屈では?」
「それを言うなら剣術演武は粗野ですわ」
「粗野とは何だ」
「事実でしょう」
「占い館などSクラスの品格に合いません」
「では何なら品格に合うのですか」
「そもそも品格ばかり気にしていては、誰も楽しめませんわ」
教室がざわつく。
ミレディアは教卓の前で黙って見ていた。
止めようと思えば、すぐに止められる。
だが彼女は、あえて少し見守っているようだった。
クラスで何かを決めるということは、授業とは違う難しさがある。
正解を答えれば終わるものではない。
違う価値観を持つ者同士が、折り合いをつけなければならない。
それもまた、学院で学ぶべきことだった。
⸻
ルナは少し不安になった。
隣のエマは困った顔でノートを抱えている。
リリアーナは笑顔を保っているが、目は真剣だ。
セシリアは静かに周囲を見ている。
以前のセシリアなら、自分の意見を通すためにもっと鋭く言ったかもしれない。
けれど今の彼女は、誰が何を恐れているのか、何にこだわっているのかを見ようとしているようだった。
「ルナさん」
セシリアが小声で言う。
「何か、思いつきますか」
「私?」
「ええ」
ルナは少し考えた。
みんなが参加できるもの。
来る人が楽しめるもの。
危険が少なく、準備もできて、Sクラスらしさも出せるもの。
すぐには浮かばない。
けれど、ふと前回の夜の勉強会を思い出した。
丸いテーブル。
温かい飲み物。
ミーナのパン。
友人たちの笑い声。
勉強しながら、食べながら、話していた時間。
あの時間は、とても温かかった。
「……喫茶店」
ルナは小さく呟いた。
セシリアが聞き返す。
「喫茶店?」
「うん。お茶と軽食を出す場所。普通すぎるかな」
セシリアは少し考えた。
そして、静かに目を細めた。
「いいえ。面白いかもしれません」
リリアーナもその声を聞きつけた。
「喫茶店ですか?」
エマが顔を上げる。
「それなら薬草茶も出せるかも」
カインも少し離れた席から聞いていたらしく、こちらを向いた。
「軽食なら、商業区画の協力も得られるかもしれないな」
セシリアがすぐに整理する。
「喫茶店なら、貴族子女は礼法と接客を活かせます。平民や商家出身の生徒は実務や計算に強い。魔法が得意な者は室内装飾や保温、照明などを担当できる。剣術が得意な者は搬入や警備補助もできます」
リリアーナが微笑む。
「そして来客も年齢や身分を問わず楽しめますわ」
エマが少し弾む声で言った。
「薬草茶と普通のお茶、両方あったら面白いかも。疲労回復とか、眠気覚ましとか」
「眠気覚ましは試験期間に売れそう」
ルナが言うと、エマが笑った。
その小さな会話が、周囲に広がる。
「喫茶店なら準備しやすいかも」
「装飾もできる」
「制服をアレンジするのもいい」
「客対応の練習が必要ですわね」
「菓子はどうする?」
「商業区画から仕入れる?」
先ほどまでばらばらだった意見が、少しずつ一つの方向へ流れ始めた。
しかし、当然ながら反対もあった。
「Sクラスが喫茶店など、平凡すぎませんか?」
ひとりの男子生徒が言った。
「上位クラスらしさがありません」
それに対して、セシリアが静かに答えた。
「上位クラスらしさとは、派手な魔法や演武だけでしょうか」
教室が静まる。
セシリアは続けた。
「来客を迎え、相手に合わせて対応し、場を整える。礼法、計算、魔法、実務、協調性。すべてが必要です」
以前の彼女なら、その言葉は上から押さえつける響きを持っていたかもしれない。
だが今は違った。
落ち着いて、理を示している。
「むしろ、一年Sクラス全員の力を示せる出し物だと思います」
リリアーナも頷いた。
「私も賛成です。学院祭は競争だけでなく、来訪者に学院を楽しんでいただく場でもありますから」
王女の言葉は重い。
だが、リリアーナは押しつけるようには言わなかった。
そこへカインも続ける。
「俺も賛成だ。演武も面白いが、全員参加にはしづらい。喫茶店なら役割を分けられる」
エマも手を上げた。
「薬草茶の案、やりたいです!」
教室の空気が、少し変わった。
反発は残っている。
だが、喫茶店という案には、多くの生徒が参加できる余地がある。
自分の得意を活かせる場所がある。
それが大きかった。
⸻
ミレディアが教卓を軽く叩いた。
木の音が教室に響く。
「では、一年Sクラスの出し物は喫茶店でよろしいですか」
ざわめき。
数人が顔を見合わせる。
やがて、手が上がった。
一人。
二人。
半数を超える。
反対は少数。
ミレディアは頷いた。
「決定です」
教室に小さな安堵が広がった。
長い話し合いだった。
少し言い争いにもなった。
けれど、なんとか決まった。
ルナはほっと息を吐いた。
自分の小さな呟きが、クラスの出し物になった。
それが少し不思議だった。
けれど、怖いだけではない。
楽しみでもあった。
「では次に、役割分担です」
ミレディアの一言で、安堵していた生徒たちの表情が再び固まった。
終わりではなかった。
むしろ、始まりだった。
⸻
役割分担は、さらに大変だった。
接客班。
調理補助班。
会計班。
装飾班。
仕入れ班。
宣伝班。
安全管理班。
生徒たちはそれぞれ希望を出した。
貴族令嬢の中には接客を希望する者が多く、騎士家の少年たちは安全管理や搬入を希望した。
エマは薬草茶の監修役に手を上げた。
リリアーナは接客と全体調整。
セシリアは礼法指導と会計補助。
カインは搬入と安全管理。
ルナは少し迷った。
「私は……何がいいかな」
エマが笑う。
「ルナは接客もできそう」
「私、うまく話せるかな」
「大丈夫。前よりずっと話せてるよ」
リリアーナが言う。
「ルナさんには、薬草茶の魔法保温と接客の両方をお願いしたいですわ」
「両方?」
「ええ。あなたがいるだけで、お客様はきっと興味を持ちますもの」
ルナは少し困った顔をした。
「それは、目立つ」
セシリアが静かに言った。
「ですが、今回は目立つことを悪いことと考えなくてもよいのでは?」
「え?」
「あなたが接客すれば、きっと多くの方が喜びます。もちろん無理をする必要はありません。でも、あなた自身がこのクラスの一員として立つことには意味があります」
その言葉に、ルナは少し考えた。
一年Sクラスの一員。
自分だけ特別に離れているのではなく、みんなと同じ出し物を作る。
それは、少し怖い。
でも、少し嬉しい。
「じゃあ、接客もやる」
ルナが言うと、エマが嬉しそうに頷いた。
「一緒にやろう」
「うん」
⸻
その日の放課後、ルナは帰り道でアルトたちに学院祭の話をした。
「クラスで喫茶店をすることになった」
「喫茶店ですか」
アルトは少し目を細めた。
「良いですね」
「私も接客する」
「それは見に行かなくては」
ルナは一瞬固まった。
「来るの?」
「学院祭ですから」
「アルトが来たら、また噂になる」
「すでに噂は十分あります」
「それはそうだけど」
セラフィスが楽しげに微笑む。
「お嬢様の接客姿、ぜひ拝見したいですね」
ヴァルクも短く言う。
「行く」
「ヴァルクも?」
「護衛だ」
「本当に護衛だけ?」
「……茶を飲む」
ルナは少し笑った。
学院祭。
今までは遠い行事のようだった。
けれど急に、自分のものになった気がした。
⸻
その一方で。
学院の廊下の隅で、別の声も動き始めていた。
「一年Sクラス、喫茶店ですって」
「王女殿下も接客なさるのかしら」
「ルナさんも出るらしいわ」
「さすが、目立つ場所を選ぶのね」
その言葉は、最初はただの雑談に聞こえた。
だが、少しずつ棘が混ざり始める。
「喫茶店の発案もルナさんだとか」
「王女殿下やセシリア様まで取り込んで?」
「本当に上手な方ね」
「学年首位で、公爵家の後ろ盾があって、さらに学院祭でも中心に立つなんて」
囁きは、廊下から階段へ、階段から食堂へ、小さく広がっていった。
誰が最初に言ったのかは分からない。
だが、その背後には確かに意図があった。
フェルナンド一派。
彼らは表立って動かない。
ルナを直接傷つけるような愚は犯さない。
その代わり、人の心に小さな針を刺す。
嫉妬。
疑念。
身分差。
特別扱いへの反感。
それらを少しずつ刺激する。
ルナが何かをすれば、目立ちたがりだと言う。
何もしなければ、周囲を利用していると言う。
友人が増えれば、取り込んでいると言う。
ひとつひとつは小さな噂だった。
だが、小さな水滴も、石に落ち続ければ跡を残す。
⸻
夕暮れの学院。
使われていない資料室の近くで、一人の男子生徒が封筒を受け取っていた。
渡したのは、学院外から来た使いの男。
服装は地味だが、手袋だけは上等だった。
「頼まれた通りに」
男が低く言う。
「分かっています」
男子生徒は封筒を懐にしまった。
「ただ噂を流すだけでしょう」
「噂ではない。“疑問”を広げるのです」
男は薄く笑った。
「ルナという少女は、本当に自分の力だけで今の地位にいるのか。王女殿下は利用されていないのか。セシリア嬢は取り込まれたのではないか。そういう疑問を」
「……やりすぎると教師に気づかれます」
「だから少しずつです」
男は背を向ける。
「学院祭は人が集まる。噂が育つには良い季節です」
その言葉を残し、男は廊下の影へ消えた。
男子生徒はしばらく立ち尽くした後、ゆっくり歩き出した。
窓の外では、学院祭準備に胸を弾ませる生徒たちの声が聞こえている。
その明るさと、彼の懐にある封筒の重さは、あまりにも不釣り合いだった。
⸻
同じ頃。
Sクラスの教室では、まだ数人の生徒が残って喫茶店の案を話し合っていた。
エマは薬草茶の候補を書き出し、リリアーナは接客の流れを考え、セシリアは予算表を整えている。
ルナは黒板に役割分担を書きながら、少し嬉しそうにしていた。
「楽しくなりそう」
エマが言う。
「うん」
ルナは頷いた。
「大変だけど」
「大変だから楽しいのですわ」
リリアーナが言うと、セシリアも静かに微笑んだ。
「皆で作るものですから」
ルナはその言葉に、胸が温かくなった。
皆で作る。
自分一人ではない。
友人たちと、クラスメイトたちと、一年Sクラスとして。
学院祭という季節が、少しずつ近づいてくる。
それは明るく、賑やかで、期待に満ちた時間になるはずだった。
けれど、その明るさの端には、まだ誰も気づかぬ小さな影が落ち始めていた。
祭りの準備は始まった。
同時に、悪意の準備もまた、静かに始まっていた。




