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異世界最強の引きこもりは、人と生きる意味を知る  作者: わまたよ


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第二十話 近衛訓練場の静かな

 王城北側にある近衛訓練場は、朝から異様な緊張に包まれていた。


 そこは王都でも限られた者しか立ち入れない場所である。


 白亜の王城から少し離れた石造りの広場。


 周囲には高い壁が巡らされ、外から中の様子は見えない。東側には武具庫、西側には観覧用の石段、奥には雨天用の屋内訓練館がある。


 床は踏み固められた白砂。


 何百、何千という足が踏み込み、転び、立ち上がり、血と汗を落としてきた場所だった。


 普段なら、近衛兵たちの号令と剣戟の音が響く。


 だがこの日は違った。


 誰もが整列し、静かに待っていた。


 今日、ここへ一人の男が来る。


 王国友誼公爵アルトの側近。


 ルナの剣の師。


 そして、近衛兵への特別指導を任された男。


 ヴァルク。


 その名はすでに近衛兵団の中で囁かれていた。


 曰く、S級冒険者を相手に一歩も退かなかった剣士。


 曰く、ルナという少女に、学院教師すら驚かせる剣を仕込んだ男。


 曰く、王城での謁見事件の際、殺気だけで近衛の背筋を凍らせた男。


 噂には尾ひれがつく。


 しかし近衛兵たちは、噂に踊るだけの者ではない。


 彼らは王国最後の盾。


 王族の命を守る者。


 誇りも、鍛錬も、覚悟もある。


 だからこそ、今日の彼らは緊張していた。


 興味ではない。


 畏れでもない。


 その両方が混ざった、剣を持つ者特有の静かな熱だった。



 観覧席には、すでに王族も姿を見せていた。


 国王アルディオンは公務の合間を縫って短時間だけ見学すると言い、王妃セレナも隣に座っている。


 第一王女フィリアは興味を隠そうともせず、扇を閉じたまま訓練場を見下ろしていた。


 第二王子エルディアスは真剣な表情で立ち、末王女リリアーナは隣に座るルナを見つけると、小さく手を振った。


 ルナは少し照れながら振り返した。


 今日は学院の授業後ではなく、特別に午前の見学許可をもらって来ている。


 隣にはアルト。


 そしてセラフィス。


 三人は王族の近くに用意された席へ案内されていた。


 アルトはいつも通り穏やかで、セラフィスは涼しい顔をしている。


 ルナだけが少し落ち着かない。


「ヴァルク、大丈夫かな」


 思わず呟くと、アルトが静かに笑った。


「大丈夫の意味によります」


「怪我とか」


「ヴァルクはしません」


「相手は?」


「そこが問題ですね」


 ルナは余計に不安になった。


 セラフィスが優雅に補足する。


「ご安心ください。ヴァルクは意外と手加減が上手です」


「意外と?」


「必要があれば」


「それ、安心していいの?」


 ルナが眉を下げると、セラフィスは微笑むだけだった。



 少し離れた観覧席の下段には、ガルドがいた。


 学院の剣術教官として見学許可を得た彼は、いつもの教員服ではなく、動きやすい訓練着姿だった。


 腰には木剣。


 表情は引き締まっている。


 その隣に、カインもいた。


 ローデル家の父と兄から許可を得て、特別見学者として参加している。


 彼はまだ生徒でありながら、剣士としてこの場に強い興奮を覚えていた。


 ルナの剣の源。


 それを今日、直接見ることができる。


 胸の奥が熱くなる。


 同時に、手のひらが少し汗ばむ。


 楽しみであり、怖くもあった。


「緊張しているか」


 ガルドが横から声をかける。


「はい」


 カインは正直に答えた。


「良いことだ」


「先生もですか」


「当然だ」


 ガルドは訓練場中央を見つめたまま言った。


「本物を見る前に緊張できない剣士は、長生きしない」


 その言葉に、カインは背筋を伸ばした。



 やがて、訓練場の入り口が開いた。


 ヴァルクが入ってきた。


 特別な装いではない。


 濃紺の簡素な訓練着。


 腰には木剣。


 革靴ではなく、砂地に合う軽い靴。


 背筋はまっすぐだが、胸を張るわけでもない。


 ゆっくりと中央へ歩く。


 ただ、それだけだった。


 だが近衛兵たちは、その足取りから目を離せなかった。


 音が少ない。


 踏んでいるのに、砂がほとんど乱れない。


 肩が揺れない。


 視線がぶれない。


 全身に余計な力がない。


 剣を抜いていないのに、すでに剣の間合いが見えるようだった。


 ヴァルクは中央で立ち止まり、整列した近衛兵たちを見た。


 その視線は鋭くない。


 威圧もない。


 ただ見る。


 だが見られた近衛兵たちは、胸の奥を静かに掴まれたような感覚を覚えた。


「ヴァルク殿」


 前へ出たのは、近衛兵隊長だった。


 名はレオンハルト・グランヴェル。


 三十代半ば。


 金髪を短く整え、銀の訓練鎧を身につけた長身の男。


 以前、災害級魔物グラズ=ヴォルグとの戦いで前線を支えた近衛副団長でもあり、実質的に近衛の実戦部隊を束ねる隊長格である。


 王国近衛兵団の中でも屈指の剣士。


 堅実で、勇敢で、判断も速い。


 兵士たちからの信頼も厚い。


 そのレオンハルトが、正式な礼を取った。


「本日はご指導、よろしくお願いいたします」


「ヴァルクだ」


「はい」


「堅いのは要らない」


「承知しました」


 レオンハルトはわずかに口元を緩めた。


 だが、すぐに表情を戻す。


「初日です。まずは、我々がどのような相手に教えを受けるのか、兵たちへ示していただきたい」


 つまり模擬戦。


 その場にいる全員が理解した。


 近衛兵たちの間に、わずかな緊張が走る。


 ヴァルクは短く頷いた。


「いい」


「相手は私が」


 レオンハルトは木剣を受け取る。


 観覧席の空気が変わった。


 ルナは思わず膝の上で手を握る。


 カインは息を止めるように見つめる。


 ガルドの目は、すでに剣士のものになっていた。



 二人は訓練場中央で向き合った。


 間合いは五歩。


 レオンハルトは正眼に構える。


 無駄のない構えだった。


 足幅、腰の落とし方、剣先の高さ、視線。


 近衛兵隊長としての実力が、構えだけで分かる。


 一方、ヴァルクは木剣を下げたままだった。


 自然体。


 剣先は斜め下。


 構えていないようにすら見える。


 レオンハルトの眉がわずかに動く。


 油断ではない。


 構えないことが、この男の構えなのだ。


 合図役の近衛兵が手を上げた。


「始め!」


 その瞬間、空気が落ちた。


 ヴァルクが何かをしたわけではない。


 踏み込んだわけでも、剣を上げたわけでもない。


 ただ、彼の内側から薄く、剣気が滲んだ。


 ほんの少し。


 水面に墨を一滴落とした程度の、静かな変化。


 しかし、レオンハルトにはそれが嵐の前の圧のように感じられた。


 背中が冷える。


 指先が痺れる。


 喉が乾く。


 目の前にいるのは人間の形をしている。


 だが身体の奥が、それを“危険”と判断していた。


 距離は五歩。


 剣は届かない。


 それなのに、喉元に刃を当てられているような感覚があった。


 レオンハルトは、ほんの一瞬、呼吸を忘れた。


 それを見ていた近衛兵たちは驚いた。


 隊長が動かない。


 いや、動けない。


 レオンハルト・グランヴェルが、ただ向き合っただけで足を止めている。


 その事実が、近衛兵たちの背筋を震わせた。


 だがレオンハルトは、そこから崩れなかった。


 唇を噛み、呼吸を取り戻す。


 恐怖はある。


 だが恐怖を知った上で立つのが、近衛の剣士だ。


「……参ります」


 声は少し低かった。


 だが震えてはいない。


 レオンハルトが踏み込んだ。


 鋭い一歩。


 正面からの斬り込み。


 速い。


 重い。


 戦場で磨かれた剣だった。


 ヴァルクの木剣が、ようやく動いた。


 遅く見えた。


 だが間に合った。


 木剣同士が触れる。


 乾いた音。


 レオンハルトの一撃が、ほんのわずかに逸れる。


 弾かれたのではない。


 受け止められたのでもない。


 ただ、通る道を変えられた。


「っ!」


 レオンハルトはすぐに返す。


 横薙ぎ。


 突き。


 逆袈裟。


 踏み替えて、足を狙う低い一撃。


 近衛兵隊長にふさわしい連撃だった。


 どれも実戦的で、無駄がなく、相手を追い詰める。


 だがヴァルクは一歩も大きく下がらない。


 半身をずらす。


 剣の腹に触れる。


 角度を変える。


 足を置き直す。


 ただそれだけで、レオンハルトの剣は届かない。


 届かないどころか、打ち込むたびにレオンハルト自身の体勢が少しずつ崩れていく。


 観覧席のカインは、目を見開いていた。


 ルナの剣で見たものが、そこにあった。


 だが濃度が違う。


 ルナが水なら、ヴァルクは深い湖だった。


 静かで、底が見えず、踏み込んだ者を知らぬ間に沈める。


 ガルドは拳を握っていた。


 見逃したくない。


 一つの足運びも、一つの角度も。


 だが速すぎる。


 いや、速いだけではない。


 動きの始まりが見えない。


 気づいた時には、そこにある。


「……これが」


 ガルドは呟いた。


 これが、ルナの剣の源。



 レオンハルトは粘った。


 恐怖に呑まれながらも、近衛兵隊長としての意地で剣を振り続けた。


 打ち込む。


 逸らされる。


 踏み込む。


 届かない。


 下がる。


 距離が消える。


 突く。


 剣先がずれる。


 全てが少しずつ狂わされる。


 その“少し”が致命的だった。


 やがて、レオンハルトが大きく踏み込んだ瞬間。


 ヴァルクの木剣が、彼の喉元へ静かに置かれた。


 音もない。


 強い打撃もない。


 ただ、そこにあった。


 レオンハルトは動きを止める。


 汗が一筋、頬を流れた。


「一本」


 合図役が宣言した。


 訓練場は静まり返った。


 誰もすぐに声を出せなかった。


 圧倒的だった。


 だが乱暴ではない。


 痛めつけたわけでも、力でねじ伏せたわけでもない。


 レオンハルトが全力で剣を振り、ヴァルクがそれを静かに終わらせた。


 それだけだった。


 その“それだけ”が、見る者の心を震わせた。



 レオンハルトは深く息を吐いた。


 木剣を下げ、礼をする。


「……完敗です」


「悪くない」


 ヴァルクは短く言った。


 近衛兵たちがざわつく。


 悪くない。


 あれだけ圧倒して、評価はそれだけ。


 しかしレオンハルトは怒らなかった。


 むしろ、その言葉を重く受け止めた。


「一つ、お願いがあります」


「何だ」


「もう少しだけ、本気を見せていただけませんか」


 その言葉に、訓練場全体が凍った。


 ルナが思わず立ち上がりかける。


「えっ」


 アルトは静かに手で制した。


「大丈夫です」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんってまた言った」


 セラフィスは涼しい顔で言う。


「八割程度までなら訓練場は保つでしょう」


「訓練場の心配!?」


 ルナの不安をよそに、中央ではヴァルクがレオンハルトを見ていた。


「知りたいか」


「はい」


 レオンハルトの顔は蒼白に近かった。


 それでも目は逸らしていない。


「今のままでは、我々は自分たちが何を知らないのかすら分かりません」


 ヴァルクは少し沈黙した。


 そして、木剣を構え直した。


 初めて。


 この日初めて、明確に構えた。


 その瞬間、訓練場の空気が変わった。


 先ほどの剣気が一滴の墨なら、今度は夜そのものだった。


 静かに、重く、深い。


 風が止まったように感じられた。


 近衛兵たちの呼吸が浅くなる。


 観覧席の王族たちも、言葉を失った。


 国王アルディオンは目を細め、王妃セレナは胸元に手を置く。


 フィリアの扇が止まり、エルディアスは無意識に拳を握った。


 リリアーナはルナの袖を掴んでいた。


 カインは全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。


 ガルドは、ただ見ていた。


 見逃せない。


 怖い。


 だが目を逸らせない。


「八割だ」


 ヴァルクが言った。


 声は変わらない。


 だがレオンハルトには、その言葉が遠く聞こえた。


 目の前の男が、急に大きくなったように感じる。


 身体の大きさではない。


 存在の輪郭が広がった。


 間合いという概念が崩れる。


 剣の届く距離が、分からなくなる。


 どこにいても斬られる。


 そんな錯覚。


 いや、錯覚ではないのかもしれない。


「来い」


 ヴァルクが言った。


 レオンハルトは叫んだ。


 恐怖を押し潰すための声だった。


 踏み込む。


 全力。


 近衛兵隊長としてのすべてを込めた一撃。


 その瞬間、ヴァルクが消えた。


 少なくとも、レオンハルトにはそう見えた。


 次に見えたのは、目の前ではなく、側面。


 木剣の影。


 身体が反応する前に、胸元へ衝撃が走った。


 強くはない。


 骨を折るほどではない。


 だが、確実に命を奪える位置へ入っていた。


 レオンハルトの身体が後ろへ下がる。


 倒れかける。


 だが踏みとどまる。


 ヴァルクは待っていた。


 追撃しない。


 もう終わっているからだ。


 沈黙。


 長い沈黙。


 レオンハルトは木剣を落とさなかった。


 だが、剣先は震えていた。


「……ありがとうございました」


 彼は深く頭を下げた。


 声は掠れていた。


 それでも、確かに感謝があった。


 ヴァルクは木剣を下げる。


 剣気が消えた。


 途端に、訓練場へ風が戻ったように感じられた。


 近衛兵たちが一斉に息を吐く。


 誰かが膝をつきそうになり、隣の兵が支える。


 王族たちも、ようやく呼吸を思い出した。



 ヴァルクは整列した近衛兵たちを見た。


「強くなりたいなら」


 短い言葉。


 全員が耳を傾ける。


「まず、立て」


 近衛兵たちは意味を理解できず、一瞬黙った。


 ヴァルクは続ける。


「恐怖で足が止まる。怒りで肩が上がる。焦りで視野が狭くなる。剣以前の問題だ」


 静かな声だった。


 しかし、誰の胸にも届いた。


「今日から、立つことから始める」


 近衛兵たちは、誰も笑わなかった。


 誇りを傷つけられた者もいるだろう。


 だが、今見たものの前で反論できる者はいなかった。


 レオンハルトが最初に頭を下げた。


「ご指導、願います」


 続いて近衛兵たちも一斉に頭を下げる。


 白砂の訓練場に、数十人の礼が揃った。


 ヴァルクは短く頷いた。


「始める」



 観覧席で、ルナは胸を押さえていた。


 ヴァルクの強さは知っているつもりだった。


 毎朝見ている。


 教わっている。


 けれど、今日見たものはまた違った。


 自分が教わっている剣の奥に、こんな世界があるのだと知った。


「すごい……」


 小さく呟く。


 アルトは静かに頷いた。


「ええ」


 セラフィスは微笑んだ。


「今日はかなり抑えていましたね」


「……あれで?」


「ええ」


 ルナは少し遠い目をした。


 カインは観覧席の下で、木剣を握る手に力を込めていた。


 ガルドは隣で静かに息を吐く。


「見に来てよかったな」


「はい」


 カインの声は震えていた。


 怖かった。


 でも、それ以上に胸が熱い。


 あの剣を見た。


 自分はまだ、何も知らない。


 それが悔しくて、嬉しかった。


 ガルドもまた同じだった。


 教師としてではなく、一人の剣士として、胸の奥に火が灯っている。


 老いるにはまだ早い。


 学ぶにはまだ遅くない。


 そう思えた。



 訓練場では、ヴァルクの初回指導が始まろうとしていた。


 王族も、近衛兵も、学院関係者も、その場にいる全員が理解していた。


 今日、王国近衛兵団は、自分たちがどれほど遠くを見るべきかを知った。


 それは屈辱ではない。


 始まりだった。


 白砂の上に立つヴァルクは、相変わらず寡黙だった。


 だがその背中は、剣を学ぶ者たちにとって、遥か高い山のように見えた。


 そしてその山を見上げる者たちの中に、ルナも、カインも、ガルドもいた。


 それぞれ違う立場で。


 それぞれ違う想いで。


 けれど同じ剣の先を見つめながら。


 王都の空は、高く澄んでいた。

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