第十九話 剣士たちの視線
ガルドは、ヴァルクと向き合った瞬間、自分の背筋が自然と伸びるのを感じた。
それは礼儀としてではない。
教師としてでもない。
一人の剣士として、身体が勝手にそうしたのだ。
王立学院の校門前。
放課後の淡い夕暮れが、白い石畳を橙色に染めている。学院から出てくる生徒たちのざわめき、馬車の音、門衛の声。そのすべてが、ガルドの耳には少し遠く聞こえていた。
目の前に立つ男。
ヴァルク。
ルナの師。
背は高く、体格は引き締まっている。
だが、巨漢ではない。
軍の猛者にありがちな、見せつけるような圧もない。
鎧も着ていない。
剣すら持っていない。
ただ、そこに立っている。
それだけだった。
なのに、近づくほどに分かる。
隙がない。
いや、正確には違う。
隙がないというより、隙という概念が見つけにくい。
構えていないのに、どの方向へも動ける。
力を抜いているのに、力を失っていない。
視線は静かで、肩は落ち、呼吸は深い。
剣士なら、そこで気づく。
この男は、戦う準備をしていないのではない。
常に戦える状態が、日常になっているのだ。
ガルドは喉の奥が乾くのを感じた。
元軍人として、戦場の強者は見てきた。
荒々しい者。
速い者。
重い者。
執念深い者。
敵の血を見ることに慣れた者。
だがヴァルクは、そのどれとも違う。
彼の静けさは、火ではなく刃だった。
燃え上がる殺気ではない。
ただ研ぎ澄まされ、そこに置かれている鋼。
不用意に触れれば、触れた側が切れる。
「剣術教官のガルドです」
自分の声が、思ったより硬かった。
「ヴァルク」
返ってきた言葉は短い。
名乗りに余計な飾りはなく、礼法としては簡素すぎるほどだった。
だが、不思議と無礼には感じなかった。
この男に長い名乗りは似合わない。
剣が鞘から抜かれる時、わざわざ自分の来歴を語らないのと同じだ。
「ルナの剣を見ました」
「そうか」
「素晴らしい弟子です」
その瞬間、ヴァルクの目がわずかに柔らかくなった。
本当にわずかだった。
普通の者なら気づかないほどの変化。
だがガルドには分かった。
この男は、ルナを大切にしている。
弟子として。
あるいは、それ以上の何かとして。
「まだまだだ」
ヴァルクはそう言った。
その一言に、ガルドは思わず息を呑みそうになった。
あれで、まだまだ。
なら、この男が求める到達点はいったいどこにあるのか。
ルナの剣は、すでに学院生の域を超えていた。
カインを流し、複数の生徒を崩し、ガルド自身の踏み込みすら止めた。
それでも、この師は“まだまだ”と言う。
傲慢ではない。
見下しているのでもない。
ただ事実として言っている。
その事実の基準が、王立学院の外にあるのだ。
ガルドは、胸の奥に久しく忘れていた感覚が湧くのを覚えた。
恐怖ではない。
屈辱でもない。
渇望だった。
知りたい。
この男の剣を。
この男が見ている景色を。
この男がルナへ何を教えているのかを。
「もしよければ」
ガルドは言った。
「いつか、ご指導いただけませんか」
言ってから、自分でも少し驚いた。
王立学院の剣術教官として、生徒の師に頭を下げる。
普通なら、体裁を考える場面だった。
だがそんなものは、目の前の静かな剣士の前では軽かった。
ヴァルクはしばらく黙っていた。
沈黙が長い。
だが、その沈黙にも圧はない。
ただ考えている。
あるいは、必要かどうかを見ている。
「近衛の指導がある」
「伺っています」
「その時、来い」
ガルドは一瞬、言葉を失った。
「よろしいのですか」
「見るだけなら」
「十分です」
心からそう思った。
見るだけでいい。
剣士にとって、本物を見ることは、それだけで学びになる。
型の名を知らなくてもいい。
流派の由来を聞けなくてもいい。
ただ、立ち方を見たい。
剣の振り出しを見たい。
間合いの取り方を見たい。
生徒に教える技術ではなく、剣そのものがどこまで澄むのかを見たい。
ガルドは深く頭を下げた。
「感謝します」
「礼は要らない」
「それでも」
ヴァルクは少しだけ視線を逸らした。
礼を言われることに慣れていないのかもしれない。
その横で、ルナがほっとしたように笑っていた。
ガルドはその表情を見て、改めて思った。
昨日、自分はこの少女を疲れさせた。
だが今日、謝ることができてよかった。
そして今、この師に会う機会を得た。
剣士として、教師として、これは逃してはならない縁だ。
⸻
その日の夜。
王都北東区画にあるローデル家の食堂では、カインがいつもより饒舌になっていた。
ローデル家は騎士家である。
派手な貴族屋敷ではないが、造りは堅実で、玄関には磨き込まれた槍と盾が飾られている。壁には代々の当主が受けた褒章が並び、廊下には訓練用の木剣が当たり前のように立てかけられていた。
夕食の席には、父と兄がいた。
父、グレアム。
王国騎士団の中隊長を務める男で、広い肩と落ち着いた目を持っている。普段は寡黙だが、剣と戦場の話になると鋭くなる。
兄、ライオネル。
近衛兵団の候補生として訓練を受けており、カインより五歳上。剣の腕は家の中でも特に優れ、カインにとっては憧れであり、越えたい背中でもあった。
「最近、学院はどうだ」
父が食後の茶を飲みながら尋ねた。
何気ない問いだった。
だがカインは待っていたように顔を上げた。
「父上。学院に、すごい剣を使う子がいます」
父と兄の視線が向く。
「剣を?」
兄が少し笑った。
「魔法学院寄りの王立学院で、お前がそこまで言うのは珍しいな」
「本当にすごいんです」
カインは身を乗り出した。
「ルナという同級生です。学年首位で、全属性適性の子でもあります」
「ああ」
父が頷く。
「噂は騎士団にも届いている。王国友誼公爵の養子になるという少女か」
「はい。でも、すごいのは魔法だけではありません」
カインは昨日の模擬戦を思い出す。
あの静かな構え。
半歩のずれ。
剣の腹に触れられた瞬間、自分の力が流れた感覚。
手首へ添えられた木剣。
勝負が終わったと理解した時の、あの静かな敗北感。
「俺、負けました」
父は表情を変えなかった。
兄は少し眉を上げた。
「同年代の女子に?」
「はい」
「手を抜いたのか」
「抜いていません」
カインはまっすぐ兄を見た。
「力負けしたわけじゃない。速さで圧倒されたわけでもない。ただ、流されました」
「流された?」
「俺の剣を受けずに、力だけずらされたんです。気づいた時には手首を取られていました」
兄の顔から軽い笑みが消えた。
父も茶器を置く。
「続けろ」
カインはできる限り詳しく話した。
ルナの構え。
足運び。
カインの打ち込みを半歩で外したこと。
剣を弾くのではなく触れて流したこと。
ガルド教官と対峙し、踏み込みを止めたこと。
話せば話すほど、父と兄の表情が真剣になっていく。
「その剣は、騎士家のものではないな」
父が言った。
「はい。ガルド先生も、どこの流派か気にしていました」
「誰に師事している」
「ヴァルクという人です。ルナの家族で、護衛でもあるみたいです」
兄ライオネルの目が動いた。
「ヴァルク……最近、近衛兵団で噂になっている名だ」
「兄上、知っているんですか」
「王国友誼公爵アルト殿の側近で、近衛兵の指導に来ることになった剣士だ。副団長が直々に訓練場の準備を命じたと聞いた」
カインの胸が跳ねた。
「近衛兵の指導に……」
「ああ。まだ正式な日程は限られているが、見学許可が出るかもしれない。候補生や学院関係者にも、一部開放される可能性がある」
「俺も行けますか」
思わず口にしていた。
父がじっとカインを見る。
「なぜ行きたい」
「見たいからです」
即答だった。
「ルナの剣を教えた人を。あの剣の元になったものを。俺は、見たいです」
父はしばらく黙っていた。
カインは背筋を伸ばして待った。
子供の好奇心で済ませられるかもしれない。
同級生に負けた悔しさだと思われるかもしれない。
けれど違う。
悔しさはある。
だがそれ以上に、あの剣に惹かれた。
自分の知らない強さがあると知った。
ならば見たい。
学びたい。
それは騎士を目指す者として、自然な欲だった。
やがて父は口を開いた。
「良い目だ」
「父上」
「敗北を恥じるより、学ぼうとするなら行け」
カインの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
兄が少し笑った。
「ただし、見学で浮かれるなよ。近衛の訓練場は学院とは違う」
「分かっています」
「それと」
兄は少し意地悪く笑う。
「ルナという子に負けた悔しさは、ちゃんと持っておけ」
「もちろんです」
カインは頷いた。
「でも、友達にもなりたいと思っています」
父と兄が一瞬黙った。
「友達?」
兄が聞き返す。
「はい。剣を見てすごいと思いました。でも、それだけじゃなくて、彼女は相手に敬意を払う人です。俺は、ちゃんと友達になりたい」
父は小さく笑った。
「剣で友を得るか」
「変ですか」
「いや」
父は穏やかに首を振った。
「騎士には、そういう友も必要だ」
⸻
その夜、カインは自室で木剣を手に取った。
灯りは小さい。
窓の外には王都の夜が広がっている。
彼はゆっくり構えた。
ルナの動きを思い出す。
剣先の静けさ。
半歩のずれ。
力を流す感覚。
真似ようとする。
だが、できない。
剣が重い。
肩に力が入る。
踏み込みの後、戻りが遅い。
自分が今までどれだけ、押すこと、打つこと、勝つことに意識を向けていたかが分かる。
ルナの剣は違った。
相手を見る剣だった。
力をぶつけるのではなく、相手がどこへ流れようとしているかを感じる剣。
カインは何度か素振りをして、やがて木剣を下ろした。
「……遠いな」
ぽつりと呟く。
だが、不思議と嫌ではなかった。
遠いものがある。
まだ知らない強さがある。
それを知れたことが、嬉しかった。
近衛兵の訓練見学。
ヴァルクという剣士。
カインは胸の奥が熱くなるのを感じた。
明日、ルナに聞いてみよう。
ヴァルクがどんな訓練をするのか。
そして、できれば自分も見に行くと伝えよう。
友人として。
剣を学ぶ者として。
⸻
一方、学院の教官室でも、ガルドは遅くまで机に向かっていた。
目の前には、明日の授業計画書。
だが彼の視線は、書類ではなく机の上の木剣へ向いていた。
今日、ヴァルクと対面した。
それは短い時間だった。
言葉も少ない。
手合わせをしたわけでもない。
それでも、十分だった。
あの男は、本物だ。
強者という言葉だけでは足りない。
ガルドは軍で多くの剣士を見てきた。
戦場で生き残った者には、独特の匂いがある。
死を知り、痛みを知り、それでも剣を握り続けた者の重さ。
ヴァルクには、それがあった。
しかも、濁りが少ない。
戦場帰りの剣士は、多かれ少なかれ荒む。
怒り、怯え、執着、虚無。
そうしたものが剣に混ざる。
だがヴァルクの剣気は静かだった。
必要な時に斬る。
必要でなければ斬らない。
そこに誇示も迷いもない。
それが恐ろしい。
そして、美しい。
「近衛指導か」
ガルドは呟いた。
王城の訓練場。
近衛兵たち。
そこに、ヴァルクが立つ。
想像しただけで、胸が高鳴る。
教師としての好奇心ではない。
剣士としての飢えだった。
見たい。
学びたい。
自分の剣が、まだどれほど未熟なのかを知りたい。
ガルドは苦笑した。
「この歳で、まだこんな気分になるとはな」
しかし悪くなかった。
剣士は、強い者を見ると若返る。
それはある種の病のようなものだ。
彼は書類の端に、予定を書き込んだ。
――近衛指導日、見学申請。
その文字を見て、ガルドはようやく満足したように椅子へ背を預けた。
⸻
翌日の学院。
ルナが教室へ入ると、カインがすぐに近づいてきた。
以前よりも自然な足取りだった。
「おはよう、ルナ」
「おはよう、カイン」
「昨日、父と兄に君の剣のことを話した」
ルナは少し目を丸くした。
「私の?」
「ああ。すごい剣だったから」
「……恥ずかしい」
「悪い意味じゃない」
カインは慌てたように手を振る。
「それで、ヴァルクさんが近衛兵の指導をするって聞いた」
「うん。たぶん近いうちに」
「俺も見学に行こうと思う」
その目は真剣だった。
ルナは少し考え、それから頷いた。
「ヴァルク、たぶんあまりしゃべらないよ」
「知ってる。昨日少し見た」
「怖かった?」
「正直、少し」
カインは苦笑した。
「でも、見たい」
その言葉には、昨日の友達になりたいという言葉と同じまっすぐさがあった。
ルナは少し笑った。
「カインなら、きっと楽しいと思う」
「楽しい?」
「ヴァルクの訓練、見てる分には」
「受けると?」
「大変」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのやり取りを、教室の端からセシリアが見ていた。
ルナの周囲に、少しずつ人が増えている。
リリアーナ。
エマ。
ミーナ。
カイン。
そして教師のガルドまでもが、彼女の剣に興味を持っている。
それはセシリアにとって、また胸をざわつかせる光景だった。
けれど、そのざわめきの中には以前とは違うものも混ざっていた。
ただの苛立ちだけではない。
ルナの周りに生まれている関係が、少し眩しく見えたのだ。
⸻
その日の放課後、ルナは帰り道でアルトたちにカインの話をした。
「カインも、近衛の指導を見に来るって」
ヴァルクは一瞬だけ目を向けた。
「そうか」
「嫌?」
「邪魔しなければ」
「たぶん大丈夫」
アルトが微笑む。
「友人が剣に興味を持ってくれるのは良いことですね」
「うん」
ルナは少し嬉しそうだった。
「カインは、純粋に剣が好きなんだと思う」
「あなたと似ていますね」
「そうかな」
「ええ」
ルナは少し照れたように笑った。
セラフィスが横から言う。
「では、近衛指導の日は少々賑やかになりそうですね」
「面倒だ」
ヴァルクが呟く。
だが、その声に本気の拒絶はなかった。
ルナはそれに気づき、また少し笑った。
人と人が、少しずつ繋がっていく。
剣を通して。
言葉を通して。
謝罪や尊敬や、真っ直ぐな好奇心を通して。
それは時に疲れる。
けれど、悪いことばかりではない。
夕暮れの王都を歩きながら、ルナはそう思った。
明日もまた、少しだけ世界が広がるかもしれない。
その予感は、彼女の胸を静かに温めていた。




