第十八話 剣に惹かれる者たち
カインは、剣の音が好きだった。
木剣が打ち合う乾いた音。
刃が空気を裂く音。
踏み込みで砂が鳴る音。
それらは幼い頃から、彼にとって日常の音だった。
騎士家ローデル家に生まれたカインにとって、剣は玩具ではなく、誇りであり、義務であり、未来だった。
父は王国騎士団の中隊長。
兄はすでに近衛兵団候補。
家の壁には代々受け継がれた剣が飾られ、夕食の席では戦術や武勇の話が当然のように交わされる。
だからカインは、自分が剣において同年代に遅れを取るとは思っていなかった。
驕っていたわけではない。
ただ、積み重ねてきた自負があった。
毎朝、剣を振った。
手の皮が裂けても、足腰が震えても、父に「もう一度」と言われれば立ち上がった。
学院へ入る前から、自分より強い同年代などそうはいないと思っていた。
だが、その日。
訓練場の砂の上で、カインのその考えは静かに崩れた。
⸻
相手はルナだった。
全属性適性。
学年首位。
王家が特別に扱う少女。
そうした噂は、カインも知っていた。
けれど正直に言えば、剣においてまで彼女が強いとは思っていなかった。
魔法の天才。
勉学の天才。
それだけでも十分すぎる。
剣は別だろう、と。
そう考えていた。
だが木剣を構えた瞬間、違和感があった。
ルナは小柄だった。
腕も細く、身体も華奢に見える。
木剣を握る手も、騎士家の者のように硬く鍛えられているわけではない。
それなのに、構えが静かだった。
剣先が揺れない。
肩に力が入っていない。
視線が刃だけを追っていない。
カインはその時、胸の奥に小さな緊張を覚えた。
この相手は、見た目で測ってはいけない。
そう本能が告げていた。
「始め!」
ガルド教官の声が響く。
カインは先に動いた。
踏み込みは悪くなかった。
父から何度も直された基本の一撃。
右足で砂を蹴り、身体を前へ運び、右上から斜めに打ち込む。
速さも、角度も、十分だったはずだ。
しかし。
ルナは、そこにいなかった。
逃げたわけではない。
大きく避けたわけでもない。
ただ半歩ずれた。
それだけだった。
木剣は空を切り、次の瞬間、カインの剣の腹へ軽く触れられた。
押されたわけではない。
弾かれたわけでもない。
それなのに、力が流れた。
自分の振った剣の重みが、自分の身体を前へ運んでしまう。
重心が崩れかける。
カインは慌てて足を踏み替えた。
危ない。
そう思った時には、もう遅かった。
ルナはすでに横へ回っていた。
彼女の木剣の先が、カインの手首へ添えられている。
打ち込まれたわけではない。
痛みもない。
けれど、もしこれが真剣であれば、剣を握る力は奪われていた。
カインは息を止めた。
完敗だった。
力で押し負けたわけではない。
速さで置き去りにされたわけでもない。
ただ、自分の力が、自分を倒す方向へ誘導された。
それが、何より衝撃だった。
「……参った」
言葉は自然に出た。
悔しさはあった。
だがそれ以上に、胸が高鳴っていた。
なんだ、今の剣は。
美しい、と思った。
強い剣を美しいと思ったことはある。
父の剣。
兄の剣。
騎士団の演武。
それらはどれも力強く、洗練され、誇り高かった。
だがルナの剣は違った。
水のようだった。
触れたと思えば流れ、掴もうとすれば手の中を抜ける。
相手を倒すための剣ではなく、相手の力を知り、その流れの終わりに静かに立っている剣。
カインは、その剣に惹かれた。
そして、同時にルナという少女に興味を持った。
噂の少女ではなく。
公爵家の関係者でもなく。
学年首位でもなく。
ただ、自分の前で静かに剣を構えた一人の人間として。
「すごいな」
カインは思わず言っていた。
ルナは少し驚いたように目を瞬かせる。
「え?」
「今の、すごかった」
「そう……?」
「うん。力じゃない。流された」
ルナは困ったように視線を落とした。
「たぶん、ヴァルクの真似」
その名前を、カインはその時初めて強く意識した。
ヴァルク。
ルナの師。
いったいどんな剣士なのだろう。
そして、そんな剣を教わるルナは、何を見てここまで来たのだろう。
カインはもう一度、礼をした。
「また、手合わせしてほしい」
その言葉に、ルナは少し戸惑いながらも頷いた。
「うん。私でよければ」
その返事が、なぜか嬉しかった。
この人と、友達になりたい。
カインは心からそう思った。
⸻
一方で、ガルドは別の意味で衝撃を受けていた。
剣術担当教官として、彼は多くの生徒を見てきた。
貴族の子。
騎士家の子。
才能ある者。
努力する者。
剣に向く者。
向かぬ者。
中には確かに、目を見張る才を持つ者もいた。
だが、ルナの剣はそれらとは質が違った。
子供の剣ではない。
学院の剣でもない。
軍の剣でもない。
そして、王国の一般的な流派にも当てはまらない。
まず、無駄が少ない。
剣を振る時に、余計な力が入らない。
身体の軸がぶれず、足運びが滑らかで、相手の力を真正面から受けない。
受けるのではなく、ずらす。
払うのではなく、通す。
打つのではなく、置く。
その一つ一つが奇妙だった。
だが奇妙でありながら、理にかなっていた。
ガルドが自ら相手をした時、それはより明確になった。
最初の打ち込み。
彼は手加減していた。
生徒相手だから当然だ。
しかし、子供相手の軽い確認ではない。
実力を見るための、十分に鋭い一撃だった。
ルナはそれを、受け止めなかった。
剣を合わせた瞬間、力が流れた。
まるで、硬い壁に当たったのではなく、水面へ刃を入れたような感覚だった。
次の一手。
ガルドは速度を上げた。
それでも彼女は下がりすぎない。
怖がって逃げるのではなく、剣の届く範囲の端を保ちながら動く。
距離の感覚が異常に良い。
そして、最後。
ガルドが踏み込みを深くした一瞬。
彼女は前へ出た。
普通の生徒なら下がる。
怖くて距離を取る。
大人の剣の圧に、身体が反応してしまう。
だがルナは、内側へ入った。
剣の外ではなく、剣が最も力を持つ前に。
肘下へ木剣を添え、足で重心の逃げ道を塞ぐ。
その瞬間、ガルドは理解した。
続ければ、自分の力で崩れる。
それは技だった。
偶然ではない。
何度も、何度も、同じような状況を経験していなければできない技。
彼女自身の才もある。
だがそれだけではない。
師がいる。
間違いなく。
そしてその師は、相当に危険な剣士だ。
⸻
授業後、ガルドはルナを呼び止めた。
最初は冷静に確認するつもりだった。
誰に教わったのか。
流派は何か。
どのような訓練をしているのか。
教師として当然の確認だと思っていた。
だが、気づけば彼は質問を重ねすぎていた。
「誰に教わった」
「流派は」
「師は軍人か」
「訓練時間は」
「今の入り身はどう教わった」
「足運びは何を基礎にしている」
ルナは一つ一つ答えようとしていた。
真面目に、困りながら、嘘をつかずに。
しかし、その表情は少しずつ疲れていった。
大きな瞳に戸惑いが浮かび、言葉を選ぶたびに肩が小さく強張る。
それでも彼女は、教師に対して失礼にならないよう必死に答えていた。
そのことに、ガルドは途中で気づけなかった。
気づいたのは、彼女が部屋を出ていった後だった。
指導室に残された静けさの中で、ガルドは自分の机に置かれた木剣を見つめていた。
尋問だった。
少なくとも、あの少女にはそう感じられただろう。
彼女はただ授業を受けただけだ。
ただ自分の身につけた技を使っただけだ。
それを、自分は興味に負けて質問責めにした。
「……何をやっている」
ガルドは深く息を吐いた。
教師である前に、一人の剣士として興奮してしまった。
未知の剣。
見たことのない技。
その奥にいる師。
知りたい。
会ってみたい。
剣を交えてみたい。
そんな欲が、教師としての節度を越えた。
ガルドは額を押さえる。
「謝らねばな」
翌日、まずルナへ謝る。
その上で、改めて願い出るべきだ。
師に会わせてほしい、と。
命令ではなく。
教師としての確認でもなく。
一人の剣士として。
⸻
翌日。
ルナは少しだけ緊張しながら学院へ向かった。
昨日の剣術授業の後から、また噂が増えていた。
魔法だけではない。
剣も強い。
教師を止めた。
カインを一瞬で崩した。
噂は少しずつ形を変えながら広がっている。
今日もまた誰かに聞かれるかもしれない。
そう思うと、朝の教室の扉が少し重かった。
けれど、教室へ入って最初に近づいてきたのは、意外な人物だった。
カインだった。
彼はいつもの真面目な顔で、けれど少し緊張しているように見えた。
「ルナ」
「おはよう、カイン」
「おはよう」
そこで一度、言葉が途切れた。
カインは何かを決意するように息を吸った。
「昨日の手合わせ、ありがとう」
「こちらこそ」
「それで……」
彼は少しだけ視線を逸らし、それからまっすぐルナを見た。
「俺は、君と友達になりたい」
ルナは瞬いた。
あまりに真っ直ぐな言葉だった。
「友達?」
「ああ」
カインは頷く。
「君の剣を見て、すごいと思った。もっと知りたいとも思った。でも、それだけじゃない」
言葉を探すように、彼は少し眉を寄せる。
「君は、噂で聞くよりずっと普通に話すし、相手に敬意を払う。俺は、そういう君とちゃんと話したい」
ルナは黙って聞いていた。
胸の奥が少し温かくなる。
この言葉には、打算がない。
カインは自分の立場や公爵のことを言わない。
魔法の力を利用しようともしていない。
剣に惹かれたことは確かだろう。
けれどそれは、利用ではなく尊敬に近いものだった。
「私……友達になるの、まだ上手じゃない」
ルナは小さく言った。
カインは少し笑った。
「俺も、女子と友達になるのは慣れてない」
「そうなの?」
「騎士家の男ばかりの中で育ったから」
その言い方が少し可笑しくて、ルナは笑った。
「じゃあ、一緒に練習?」
「そうだな」
カインは真面目に頷く。
「よろしく、ルナ」
「うん。よろしく、カイン」
そのやり取りを、少し離れた席でリリアーナが微笑ましそうに見ていた。
エマが廊下から顔を出し、小声で呟く。
「友達、増えたね」
ルナは少し照れたように頷いた。
⸻
昼前、剣術教官のガルドがルナを呼びに来た。
昨日のことがあったため、ルナは少し身構えた。
それに気づいたのか、ガルドは普段よりずっと穏やかな顔をしていた。
「ルナ。昨日の件で、少し話がある」
「……はい」
指導室ではなく、訓練場脇の開けた場所だった。
逃げ場のある場所。
それだけで、ルナは少し安心した。
ガルドは正面に立ち、深く頭を下げた。
「昨日は悪かった」
「え?」
「質問しすぎた。お前を困らせた」
ルナは驚いた。
教師が、生徒に頭を下げている。
周囲には誰もいないが、それでも珍しいことだと分かった。
「いえ……先生は、悪いことをしたわけでは」
「した」
ガルドはきっぱり言った。
「俺は教師としてではなく、剣士として興奮していた。未知の剣を見て、知りたくなった。だが、それをお前にぶつけるべきではなかった」
その言葉には、嘘がなかった。
ルナは少しだけ肩の力を抜いた。
「……疲れました」
「ああ」
「でも、先生が悪い人じゃないのは分かってました」
ガルドは苦笑した。
「それでも謝らせてくれ」
「はい」
ルナは小さく頷いた。
「受け取ります」
ガルドの表情が少し和らぐ。
「ありがとう」
しばらく沈黙があった。
そしてガルドは、少し迷ってから切り出した。
「その上で、改めて頼みがある」
「頼み?」
「お前の師に会いたい」
ルナは目を瞬かせた。
「ヴァルクに?」
「ああ」
ガルドの目が、剣士のものになる。
鋭く、熱を帯びている。
「昨日の剣は、俺の知らないものだった。軍式でも、王国流でも、貴族剣術でもない。だが、理がある。相手を壊す技を、壊さずに止める技でもある」
彼は言葉を選びながら続けた。
「その剣を教えた者に、会ってみたい。できれば話を聞きたい。無理なら、姿を見るだけでもいい」
ルナは少し考えた。
ヴァルクは人付き合いが得意ではない。
たぶん、面倒だと言う。
でも、ガルドの頼みは昨日のような勢いだけではない。
きちんと謝り、きちんと頼んでいる。
「聞いてみます」
「助かる」
「でも、ヴァルクが断ったら」
「その時は諦める」
ガルドは真剣に頷いた。
ルナは少し笑った。
「分かりました」
⸻
放課後。
校門の外には、いつものようにアルト、セラフィス、ヴァルクがいた。
ルナは少し緊張しながら歩み寄る。
「ただいま」
「おかえりなさい」
アルトが微笑む。
その隣で、ヴァルクはルナの表情を見てすぐに何かを察したようだった。
「何かあったか」
「うん。ガルド先生が、ヴァルクに会いたいって」
ヴァルクは無言になった。
沈黙が長い。
セラフィスが微笑む。
「人気者ですね、ヴァルク」
「不要だ」
「まだ何も言っていませんよ」
「面倒だ」
ルナは少し困った顔をした。
「でも、昨日質問しすぎたことを謝ってくれた。ちゃんと」
ヴァルクの視線がわずかに動く。
「そうか」
「うん。それで、一人の剣士として会いたいって」
アルトが静かに言った。
「会うだけなら、よいのでは?」
ヴァルクはアルトを見た。
それからルナを見る。
少しだけ息を吐いた。
「分かった」
ルナの顔が明るくなる。
「いいの?」
「会うだけだ」
「ありがとう」
すると、少し離れた場所からガルドが歩いてきた。
学院の門の内側で待っていたらしい。
彼はルナへ軽く頷き、それからヴァルクを見た。
その瞬間、ガルドの表情が変わった。
先ほどまでの教師の顔ではない。
剣士の顔だった。
目の前の男が、ただ者ではないと一目で理解したのだ。
ヴァルクは何もしていない。
剣も持っていない。
ただ立っているだけ。
だが、その立ち姿に隙がなかった。
重心が静かで、呼吸が深く、視線が揺れない。
何より、近づけば近づくほど分かる。
この男は、剣そのもののような存在だ。
ガルドは自然と背筋を伸ばした。
「剣術教官のガルドです」
「ヴァルク」
短い名乗り。
それだけ。
だがガルドは不快には思わなかった。
むしろ、その簡潔さが似合っていた。
「ルナの剣を見ました」
「そうか」
「素晴らしい弟子です」
ヴァルクの目がわずかに柔らかくなった。
「まだまだだ」
その言葉に、ガルドは喉の奥で笑いそうになった。
あれで、まだまだ。
なら、この男の基準はどこにあるのか。
「もしよければ、いつかご指導いただけませんか」
ガルドは真剣に言った。
ヴァルクは少し考える。
「近衛の指導がある」
「伺っています」
「その時、来い」
ガルドの目が見開かれた。
「よろしいのですか」
「見るだけなら」
「十分です」
その声には、抑えきれない喜びがあった。
アルトは静かにそのやり取りを見ていた。
セラフィスは少し面白そうに微笑んでいる。
ルナは、ほっとしていた。
昨日の疲れた出来事が、少し良い形へ変わった気がした。
⸻
帰り道。
ルナはアルトの隣を歩きながら言った。
「今日は、友達が増えた」
「カインですか」
「うん。剣を見て、友達になりたいって」
「良かったですね」
「それと、ガルド先生とも少し話しやすくなった」
「謝罪を受け取れたからですか」
「うん」
ルナは空を見上げる。
夕方の空は淡い橙色で、雲の端が金色に染まっていた。
「人って、難しいけど……変わることもあるんだね」
「ええ」
アルトは頷く。
「昨日怖かったことが、今日少し違って見えることもあります」
「うん」
ルナは小さく笑った。
また一つ、世界が広がった。
剣を通して。
謝罪を通して。
真っ直ぐな友達申請を通して。
それは、彼女にとって新しい学びだった。
人との関わりは、傷つくこともある。
疲れることもある。
けれど、向き合えば少しだけ形を変えることもある。
そのことを知った日の夕暮れは、いつもより少し優しい色をしていた。




