第十六話 変わらない人
学年首位の発表から、学院の空気は明らかに変わった。
それは、たった一枚の紙から始まった変化だった。
中央掲示板に張り出された成績表。
一年総合首位――ルナ。
魔法理論、満点。
戦術、満点。
算術、満点。
魔法実技、満点。
歴史のみ、わずかに減点。
その結果は、学院内の誰もが認めざるを得ないものだった。
試験の出来に偶然はない。
実技には誤魔化しが利かない。
筆記には、日々の積み重ねが出る。
だからこそ、ルナの名は以前にも増して強く学院中へ広がった。
全属性適性の少女。
王国友誼公爵の養子になるかもしれない少女。
王女と親しい少女。
そして、学年首位の少女。
人々は、彼女へ新しい名前をいくつも与えていった。
けれど、そのどれもが、ルナ自身の心を軽くするものではなかった。
⸻
朝、学院の門をくぐった瞬間から、視線が集まった。
以前にも視線はあった。
好奇心。
嫉妬。
畏れ。
しかし今は、それに別の色が混ざっている。
計算。
期待。
打算。
近づくための理由を探すような視線。
それが、ルナには分かるようになっていた。
「ルナさん」
廊下を歩いていると、ひとりの令嬢が声をかけてきた。
名はまだ知らない。
上品な金髪を結い、微笑み方も美しい。
制服の胸元には、Aクラスの章。
「おはようございます」
「……おはようございます」
ルナが返すと、令嬢はさらに笑みを深めた。
「この前の試験、素晴らしい結果でしたわね。さすがです」
「ありがとうございます」
「もしよろしければ、今度ご一緒にお茶でもいかがです? 私の家は王都東区画に屋敷がありまして、父もぜひ一度、あなたとお話ししたいと申しておりますの」
言葉は柔らかかった。
礼儀も整っていた。
だが、ルナはその中に、自分ではない何かへ向けられた期待を感じた。
父が会いたい。
家が知りたい。
お茶の誘いという形をしているが、それは友人になりたいという言葉ではない。
ルナはすぐに返事ができなかった。
「……考えておきます」
「ええ、ぜひ」
令嬢は満足げに去っていく。
ルナはその背中を見送り、胸の奥に小さな重さを感じた。
⸻
Sクラスの教室に入ると、また別の生徒が近づいてきた。
騎士家の少年だった。
「ルナ、今度の実技演習で組まないか」
「実技?」
「ああ。君の魔法制御を近くで見てみたいんだ。いや、もちろん勉強のために」
目はまっすぐだったが、その奥にある熱は、友好というより興味だった。
希少な魔法を見るための興味。
自分の力を測るための興味。
ルナは戸惑いながら頷きかけ、途中で止まった。
最近、こういう誘いが増えた。
お茶。
勉強会。
実技演習。
交流。
どれも悪意ではない。
だが、どれもどこか少しだけ違う。
彼らはルナと話したいのか。
それとも、ルナの力や立場と話したいのか。
その違いが、分からなかった。
「ごめんなさい。まだ予定が分からなくて」
「そうか。ならまた声をかける」
少年は軽く手を振って去っていった。
ルナは自分の席に座る。
机の上に教本を置き、そっと息を吐いた。
人と話すことは、前よりできるようになった。
挨拶も、昼食も、勉強会も。
少しずつ、怖くなくなってきた。
けれど、人が近づいてくる理由を考え始めると、急に難しくなる。
誰かの笑顔を、素直に受け取れなくなる。
それが少し、悲しかった。
⸻
午前の授業中も、ルナはいつもより少し集中が乱れた。
ミレディアの説明は明晰で、魔法理論の内容自体は理解できる。
だが、時折背後から視線を感じる。
メモを取る手。
こちらを見る目。
囁き。
学年首位という結果が出てから、ルナの答えや仕草までも、何かの材料として観察されているようだった。
授業が終わると、二人の女子生徒が席へ来た。
「ルナさん、今日の魔法理論のノート、少し見せてもらえませんか?」
「私もお願いできます?」
ルナは一瞬迷った。
勉強の助けになるなら、見せてもいい。
でも、昨日までは話しかけてこなかった人たちだ。
それでも断る理由はない。
「……少しなら」
「ありがとう。助かりますわ」
彼女たちはノートを覗き込み、ルナの図解を見て小さく感嘆した。
「やっぱり分かりやすい」
「さすが首位ね」
褒め言葉だった。
けれど、その“首位”という言葉が、なぜか少しだけ痛かった。
ルナ自身ではなく、順位を見ているような気がした。
ノートを返された後、ルナはページの端を指でなぞる。
紙には、自分の字が並んでいる。
昨日までなら、それは友人と学びを分け合うためのものだった。
今日は少し、別のものに見えてしまった。
⸻
昼休み。
ルナは食堂へ向かった。
胸の中には、小さな疲れが積もっていた。
誰かに怒鳴られたわけではない。
嫌味を言われたわけでもない。
むしろ多くの人は、前より優しくなった。
けれど、その優しさの中に何が含まれているのか考えるたび、足元が不安定になる。
食堂の扉を開くと、賑やかな声と香ばしい匂いが迎えた。
ルナは盆を持ち、いつもの席を探す。
すると、窓際の席でエマが大きく手を振っていた。
「ルナ、こっち!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥にあった重さが少しほどけた。
リリアーナもすでに座っていた。
王女らしい優雅さはそのままに、今日は皿の上の蜂蜜菓子を真剣に見つめている。
「リリアーナ?」
「本日の蜂蜜菓子は形が美しいですわ」
「そこを見るんだ」
ルナが座ると、エマがすぐに顔を覗き込んだ。
「疲れてる?」
「……分かる?」
「顔に書いてある」
「またそれ」
ルナは小さく笑った。
その笑い方を見て、エマは少しだけ眉を下げた。
「なんかあった?」
ルナは盆を置き、しばらく黙った。
話していいのか迷う。
弱音のように聞こえるかもしれない。
でも、この二人なら聞いてくれる気がした。
「最近、話しかけられることが増えた」
「うん」
エマは頷く。
「みんな、優しい。でも……」
言葉を探す。
リリアーナは急かさず、静かに待っていた。
「私と仲良くなりたいのか、私の力や立場が欲しいのか、分からない」
口にした瞬間、胸の中にあったもやもやが少し形を持った。
「お茶に誘われたり、家の人に会いたいって言われたり、ノートを見せてって言われたりする。嫌なことをされたわけじゃない。でも……怖い」
エマは真剣に聞いていた。
リリアーナも、王女としてではなく友人としての顔で頷く。
「それは、怖いですわ」
リリアーナが静かに言った。
「え?」
「人の笑顔の理由を考えなければならないのは、とても疲れます」
その声には、実感があった。
王族として育った彼女には、幼い頃からそういう笑顔が向けられてきたのだろう。
ルナは初めて、そのことに気づいた。
「リリアーナも?」
「ええ。王女である私に近づく人は、たくさんいます。けれど、私自身を見てくれているのか、王族という立場を見ているのか、分からなくなる時があります」
リリアーナは少し微笑んだ。
「だから、ルナさんといる時間は楽です」
「私と?」
「ええ。あなたは私を王女として扱いすぎない。時々、王女にパンを切らせないよう必死になりますけれど」
「あれは危ないと思って」
「そこが嬉しいのです」
エマが横から頷いた。
「私は、ルナが首位でも公爵家でも、たぶんあんまり変わらないかな」
「どうして?」
「だって最初に話した時、薬草の本の話だったし」
エマは笑った。
「ルナはすごいけど、私にとっては、薬草の本に興味を持ってくれた友達だよ」
その言葉は、まっすぐだった。
打算のない声。
計算のない笑顔。
ルナは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
エマは少し照れたように笑う。
リリアーナは蜂蜜菓子を三等分し、二人の皿へ分けた。
「では、確認しましょう」
「確認?」
ルナが首を傾げる。
「私たちは、ルナさんが学年首位でも、最下位でも、友人です」
「最下位は困るかも」
エマが苦笑する。
「勉強会が大変になるね」
「その時は全力で教えますわ」
「リリアーナが?」
「歴史以外なら」
ルナは思わず笑った。
胸の奥に溜まっていた重いものが、少しずつ溶けていく。
友人は変わらない。
それは、とても心強いことだった。
⸻
午後の授業が終わった後、廊下でまた一人の生徒に声をかけられた。
「ルナさん、よければ次の休日に私たちのお茶会へいらっしゃいませんか?」
綺麗な笑顔。
整った礼。
以前のルナなら、断れずに頷いていたかもしれない。
けれど今日は少しだけ違った。
「誘ってくれてありがとう」
まず、そう言えた。
「でも、予定を確認してから返事します」
相手は少し意外そうにしたが、すぐに笑った。
「ええ、お待ちしていますわ」
ルナは軽く頭を下げ、その場を離れた。
断ったわけではない。
でも、すぐに頷かなかった。
それだけのこと。
けれどルナにとっては、大きな一歩だった。
自分の時間を、自分で守る。
誰かに嫌われるのが怖くても、無理に応じない。
それは、リリアーナやエマと話した後だからできたことだった。
⸻
校門の外で待っていたアルトは、ルナの表情を見て少し首を傾げた。
「今日は、少し疲れていますね」
「うん」
「何かありましたか」
「人間関係が難しかった」
アルトは静かに頷いた。
「高度な科目ですからね」
「前も言ってた」
「ええ。何度でも言えます」
ルナは少し笑った。
隣を歩きながら、今日あったことを話した。
お茶に誘われたこと。
ノートを見せてほしいと言われたこと。
実技で組もうと言われたこと。
その全部が悪意ではないけれど、何を信じればいいのか分からなくなったこと。
アルトは最後まで黙って聞いていた。
セラフィスも、ヴァルクも口を挟まない。
話し終えると、アルトは静かに言った。
「相手の心をすべて見抜くことはできません」
「うん」
「だからこそ、すぐに決めなくていいのです」
「決めない?」
「この人は味方か敵か。この笑顔は本物か偽物か。すぐに結論を出さなくていい」
アルトの声は柔らかかった。
「時間をかけて見ればいい。近づきすぎず、離れすぎず。あなたが疲れない距離で」
「距離……」
「ええ」
セラフィスが続けた。
「礼儀正しく、しかし安売りはしない。親切に、しかし利用されない。それが社交の基本です」
「難しい」
「難しいです。ですので練習しましょう」
「練習できるの?」
「できます。お茶会の断り方百選から」
「そんなにあるの?」
「あります」
ヴァルクが短く言う。
「嫌なら嫌と言え」
「それは百選の何番?」
「一番」
ルナは思わず笑った。
少しだけ、気持ちが軽くなる。
⸻
その夜、屋敷の食卓はいつも通り温かかった。
セラフィスの料理は美しく、ヴァルクは黙々と食べ、アルトは穏やかに茶を飲む。
学院でどれほど視線に揺れても、この場所は変わらない。
ルナはそのことに、強く安心した。
「アルト」
「はい」
「友達が変わらないって、すごく安心するね」
アルトは少しだけ目を細めた。
「ええ」
「エマも、リリアーナも、ミーナも。私が首位でも、公爵の家族でも、あまり変わらない」
「それは良い友人です」
「うん」
ルナはスープの器を両手で包む。
温かさが手のひらに伝わる。
「私も、そういう人になりたい」
「どういう人ですか」
「相手のすごいところじゃなくて、その人自身を見られる人」
アルトは静かに微笑んだ。
「もう、なり始めていますよ」
「そうかな」
「ええ」
ルナは少し照れたように視線を落とした。
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自室に戻った後、ルナはいつものノートを開いた。
これまでの言葉が並んでいる。
今日、何を書くか少し迷った。
そして、ゆっくりとペンを動かした。
――人間関係は難しい。
少し間を置いて、もう一行。
――でも、変わらない友達がいる。
その文字を見つめていると、胸の奥が静かに温かくなった。
学院は、これからもっと難しくなるかもしれない。
近づいてくる人のすべてを疑うのは嫌だ。
でも、すべてを信じて傷つくのも怖い。
その間で、きっと迷い続ける。
けれど、迷った時に戻れる場所がある。
相談できる人がいる。
笑い合える友人がいる。
なら、明日も行ける。
ルナはペンを置き、窓の外を見た。
王都の夜は静かに広がっている。
たくさんの灯りの中に、たくさんの人がいて、それぞれ違う思いを抱えて生きている。
人と関わることは、きっと難しい。
けれど、難しいだけではない。
その中には、温かいものも確かにある。
ルナはそれを、少しずつ知り始めていた。




