第十五話 試験の日、そして掲示板の前で
一学期最初の定期試験の日、王立学院は朝からいつもより静かだった。
静か、といっても人が少ないわけではない。
むしろ校門をくぐる生徒の数はいつもと同じで、馬車の往来も、寮から流れてくる制服姿の列も変わらなかった。
けれど声の量が違った。
普段なら廊下に響く笑い声も、今日は小さく抑えられている。誰もが教本を抱え、最後の確認をしながら歩いている。中庭の噴水の音さえ、いつもより大きく聞こえるほどだった。
試験。
その二文字は、王立学院の生徒たちから余裕を奪う。
貴族の子女にとっては家の名誉。
商家出身者にとっては奨学金や将来への足がかり。
騎士家の者にとっては己の資質を示す場。
そしてルナにとっては、自分がこの学院にいてよいのだと、もう一度確かめる日でもあった。
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朝のSクラス教室は、紙の擦れる音で満ちていた。
誰かが年表を見直している。
誰かが魔法式を指でなぞっている。
誰かが無言で窓の外を見つめている。
普段は堂々としている貴族子女たちも、今日は少しだけ表情が硬い。
リリアーナは机に開いた歴史教本を見つめながら、微かに眉を寄せていた。
「……王族として言うべきではありませんが」
「うん」
ルナが隣から声をかける。
「歴代王の名前が多すぎますわ」
「昨日も言ってた」
「昨日より増えて見えます」
「増えないよ」
ルナが小さく笑うと、リリアーナは真剣な顔で首を振った。
「いいえ。試験当日の歴史教本は、昨日より厚くなるものです」
「それは……気持ちは分かる」
少し離れた席では、エマが大きく深呼吸していた。
今日はBクラスの試験室へ向かう前に、わざわざSクラスの前まで来ていた。
「ルナ、最後に戦術のところだけ確認していい?」
「うん」
ルナは席を立ち、廊下に出た。
エマはノートを胸に抱え、少し青い顔をしていた。
「挟撃と包囲の違い、また混ざりそう」
「大丈夫。挟撃は二方向以上から圧迫する形。包囲は逃げ道を断つ形。目的が違うの」
「目的……」
「挟撃は崩すため。包囲は閉じ込めるため」
ルナが指で簡単な図を描くように宙をなぞると、エマは何度も頷いた。
「崩す、閉じ込める。崩す、閉じ込める」
「そう」
「ありがとう。なんか少し落ち着いた」
エマは胸に手を当てて息を吐いた。
「ルナは緊張してないの?」
「してる」
「本当?」
「うん。歴史が少し怖い」
「あ、そこは同じなんだ」
エマが笑った。
その笑顔を見て、ルナも少し肩の力が抜けた。
「終わったら、またミーナのところ行こう」
「うん。試験終了祝い」
「点数が悪かったら慰労会」
「ミーナが言ってた」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑いは小さかったが、試験前の張り詰めた空気の中では、温かな灯のようだった。
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鐘が鳴る。
試験開始を告げる鐘だった。
教室にミレディアが入ってくる。
いつも通り、黒の教員服に銀灰色の髪をきっちり束ね、細縁の眼鏡の奥から教室全体を見渡した。
「余計な物は机の中へ。羽根ペンとインク、学院指定の計算紙のみ」
その声だけで、空気が一段引き締まる。
生徒たちは一斉に準備を整えた。
紙が配られる。
表紙には、第一科目――魔法理論、と記されていた。
ルナは羽根ペンを手に取る。
掌は少し冷えていた。
それでも、呼吸は乱れていない。
アルトが言っていた。
分からないものは考える。
分かるものは丁寧に書く。
焦っても、答えは速くならない。
「始め」
ミレディアの声。
紙をめくる音が、教室中に一斉に広がった。
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魔法理論の問題は、やはり難しかった。
基礎問題から始まり、複合属性の安定化、術式展開時の魔力損耗、詠唱短縮における符節保持、さらには実戦中の術式修正例まで問われている。
だがルナには、問題の意図が見えた。
ただ知識を聞いているのではない。
魔法をどう理解しているかを問うている。
彼女は一問ずつ、丁寧に解いた。
余白には必要な図を描き、説明問題にはできるだけ簡潔な言葉を選んだ。
途中、風属性と火属性の干渉に関する応用問題で、少し手が止まる。
昨日、エマに説明した内容に似ている。
火力を増やすのではなく、流れを整える。
そう考えると、答えは自然に浮かんだ。
羽根ペンが紙を滑る。
静かな集中の中で、周囲の音が少し遠くなる。
⸻
二科目目は歴史だった。
ルナは問題用紙を開いた瞬間、心の中で小さく息を呑んだ。
やはり年号が多い。
王国成立期、北方遠征、講和条約、貴族院成立、魔法学会の創設。
名前も多い。
似た名前が並んでいる。
リリアーナが言っていたことを思い出す。
試験当日の歴史教本は、昨日より厚くなる。
たしかに、問題用紙も昨日より重く見えた。
けれど、ルナは逃げなかった。
セラフィスに教わった通り、年号だけでなく流れを思い出す。
何が起きたか。
なぜ起きたか。
その結果、何が変わったか。
分からないところは、空欄にせず推論を書く。
完璧ではないかもしれない。
それでも、自分の言葉で書いた。
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昼休み。
試験初日の半分が終わり、生徒たちは食堂へ流れ込んだ。
普段よりも疲労の色が濃い。
笑う者もいるが、その笑いは少し乾いている。
ルナは食堂の一角で、リリアーナとエマと合流した。
エマは椅子に座るなり、机に額をつけた。
「戦術、出た」
「挟撃と包囲?」
「出た」
「解けた?」
エマは顔を上げ、少しだけ誇らしげに笑った。
「崩す、閉じ込める、で解けた」
「よかった」
ルナも笑う。
リリアーナは静かに紅茶を飲んでいた。
顔は穏やかだが、目が少し遠い。
「リリアーナ?」
「歴代王の皆様に、申し訳ない気持ちです」
「間違えたの?」
「アルディオン四世と五世の政策が一瞬入れ替わりました」
「それは……惜しい」
「祖先に叱られそうですわ」
エマが困ったように笑う。
「王族って大変だね」
「ええ。でも、終わりましたから」
リリアーナは紅茶の杯を置き、微笑んだ。
「午後も戦いましょう」
その言い方があまりに真面目で、ルナとエマは同時に笑った。
試験は重い。
不安もある。
けれど、三人で話していると、それも少しだけ軽くなる。
ルナはそのことに気づき始めていた。
⸻
試験は数日にわたって続いた。
算術。
戦術。
礼法。
薬草学基礎。
魔法実技評価。
剣術基礎。
朝が来るたび、生徒たちは少しずつ疲れていった。
初日にはまだ整っていた髪も、三日目には少し乱れ、食堂の甘味売り場には長い列ができた。
それでもルナは、毎日を丁寧に乗り越えた。
分からない問題もあった。
歴史では自信のない箇所もあった。
礼法では、貴族子女たちの方が洗練されていると感じた。
だが、魔法理論と戦術、実技では手応えがあった。
特に魔法実技では、ミレディアが余計な騒ぎを避けるために課題を絞ってくれた。
それでも、ルナの制御精度は教師陣を黙らせた。
小さな火球を、規定の大きさで、規定の温度に保つ。
水球を一滴もこぼさず、細い輪にして回転させる。
風を起こし、紙片を一枚だけ浮かせる。
派手な魔法ではない。
だが、制御は誤魔化せない。
教師たちは記録紙に無言で点を記していた。
⸻
最終日の試験が終わった瞬間、学院中から一斉に息を吐くような空気が広がった。
誰かが机に突っ伏す。
誰かが歓声を上げる。
誰かが「終わった」と呟き、誰かが「終わってしまった」と青ざめる。
ルナも羽根ペンを置いた。
指先が少し疲れている。
肩も凝っていた。
けれど、不思議と嫌な疲れではなかった。
やりきった、と思えた。
教室を出ると、エマが廊下で待っていた。
「終わった!」
「うん」
「生きてる!」
「よかった」
「ルナ、反応が冷静!」
そこへリリアーナもやって来る。
「皆様、お疲れ様でした」
「リリアーナもお疲れ様」
「ええ。歴史とは一時休戦です」
「戦ってたんだね」
三人は顔を見合わせ、自然に笑った。
そのまま商業区画へ向かい、ミーナのパン屋で試験終了祝いをした。
ミーナは大きな籠いっぱいに焼きたてのパンを用意してくれていた。
「試験終わりには糖分と炭水化物!」
「どっちもパンだね」
エマが言う。
「つまりパンは完全食!」
「薬草学的には?」
「心には効く」
「またそれ」
ルナは笑いながら、蜂蜜パンを受け取った。
試験の出来について話し、間違えたかもしれない問題を笑い合い、次の日の休みの予定を少しだけ相談した。
その時間は、試験そのものよりもずっと鮮やかに心に残った。
⸻
成績発表は、その三日後だった。
朝から学院中央掲示板前には、多くの生徒が集まっていた。
順位表が張り出される日は、いつも独特の熱気がある。
期待。
不安。
祈り。
諦め。
そして競争心。
ルナは掲示板から少し離れた場所に立っていた。
隣にはエマとリリアーナがいる。
エマは両手を握りしめ、唇を引き結んでいる。
「怖い」
「私も」
ルナが言う。
「ルナでも?」
「うん。結果を見るのは怖い」
リリアーナは落ち着いて見えたが、扇を持つ手が少しだけ動いていた。
「結果が全てではありません。……と、言いたいところですが」
「けど?」
「やはり気になりますわ」
三人は小さく笑った。
その時、教師が掲示板へ紙を張り出した。
人の波が一気に前へ動く。
ざわめきが爆発する。
「見えない!」
「押さないで!」
「何位だ!?」
「やった!」
「嘘だろ……」
声が重なり、掲示板前は混乱に近い熱気に包まれた。
ルナは背が高くないため、後ろからではよく見えなかった。
エマも同じく背伸びしている。
リリアーナは人混みに慣れていないのか、少し困った顔をしていた。
「どうしよう」
エマが言う。
その時、近くにいた上級生が掲示板を見て、大きな声で呟いた。
「一位、ルナ……総合得点、ほぼ満点……?」
空気が止まった。
その一言は、波のように広がった。
「ルナ?」
「やっぱり?」
「学年首位?」
「Sクラス内じゃなくて?」
「全学年順位の一年首位だ」
「歴史以外ほぼ満点って書いてあるぞ」
ルナは一瞬、意味が分からなかった。
エマが先に反応した。
「ルナ!」
「え」
「一位だよ!」
リリアーナも目を輝かせる。
「おめでとうございます、ルナさん」
「……本当に?」
「本当ですわ」
人の流れが少し割れ、掲示板が見えた。
総合成績順位。
一年総合首位。
ルナ。
魔法理論、満点。
戦術、満点。
算術、満点。
魔法実技、満点。
剣術基礎、高得点。
礼法、高得点。
歴史、やや減点。
総合首位。
確かに、そこに自分の名前があった。
ルナは息を呑む。
嬉しい。
けれど、その感情より先に、周囲の視線を感じた。
まただ。
また、自分が注目されている。
全属性適性。
王家の後ろ盾。
公爵の養子になるかもしれない少女。
そして今、学年首位。
ざわめきが広がる。
「やっぱり化け物だ」
「全部持ってるじゃないか」
「公爵家の後ろ盾があるからって、点まで取れるわけじゃないだろ」
「いや、特別扱いじゃないの?」
「教師が贔屓してるんじゃ……」
称賛だけではない。
疑念も混ざっている。
嫉妬もある。
畏れもある。
ルナの胸が少し重くなった。
だがその時、エマがルナの手を握った。
「すごい」
短い言葉だった。
けれど、まっすぐだった。
リリアーナも微笑む。
「あなたが努力した結果です」
その言葉で、ルナはようやく息を吐けた。
そうだ。
これはただ与えられたものではない。
勉強した。
考えた。
悩んだ。
友人に教え、自分でも復習した。
試験の日、震えながら机に向かった。
その結果だ。
「……ありがとう」
ルナは小さく言った。
その声は、少し震えていた。
嬉しさと不安が、同時にあった。
⸻
少し離れた場所で、セシリアが掲示板を見つめていた。
彼女の名前は二位だった。
十分すぎる成績。
貴族令嬢として、名門伯爵家の娘として、誇ってよい結果。
だが、一位ではない。
一位は、ルナ。
また、ルナ。
セシリアの指先が、制服の袖を強く握った。
悔しさが胸を焼く。
努力した。
誰よりも机に向かった。
礼法も、歴史も、魔法理論も、幼い頃から積み重ねてきた。
なのに、届かない。
突然現れた少女に、また越えられた。
「セシリア様、二位でも素晴らしいですわ」
取り巻きの一人が言った。
慰めのつもりだったのだろう。
だが、その言葉はかえって痛かった。
二位でも。
その“でも”が、胸に刺さる。
セシリアは表情を崩さず、静かに答えた。
「ええ。悪くはありませんわ」
悪くはない。
だが、満たされない。
彼女はふと、ルナの方を見た。
ルナはエマとリリアーナに囲まれ、困ったように笑っている。
勝ち誇ってはいない。
見下してもいない。
ただ、少し戸惑いながら、友人たちの祝福を受けている。
それがまた、セシリアには苦しかった。
怒りの矛先が、定まらない。
憎めれば楽なのに。
嫌な人間なら、見下せたのに。
ルナは毎朝、挨拶をしてくる。
こちらが冷たく返しても、次の日もまた。
それが、どうしようもなく胸を乱した。
⸻
放課後、ルナは掲示板の前の騒ぎに少し疲れた顔で校門へ向かった。
門の外には、いつものようにアルトたちがいた。
アルトはルナを見ると、すぐに何かを察した。
「結果が出ましたか」
「うん」
「どうでした」
ルナは少しだけ視線を落とす。
そして小さく言った。
「一位だった」
セラフィスの表情が柔らかくなる。
「おめでとうございます、お嬢様」
ヴァルクも頷いた。
「当然だ」
「当然じゃないよ」
ルナは少し笑った。
アルトは静かに近づき、目線を合わせる。
「よく頑張りました」
その一言を聞いた瞬間、ルナの胸の奥がじんわりと熱くなった。
学院でたくさんの声を聞いた。
すごい。
化け物。
贔屓。
主席。
全属性。
公爵。
いろんな言葉が飛んできた。
けれど、アルトの言葉は違った。
よく頑張りました。
結果ではなく、そこまでの自分を見てくれている言葉だった。
「……うん」
ルナは頷いた。
「頑張った」
「ええ」
「でも、また目立った」
「そうですね」
「少し怖い」
「怖くても構いません」
アルトは穏やかに言う。
「ただ、誇ってもいい結果です」
ルナはゆっくり顔を上げた。
「誇っていい?」
「もちろん」
セラフィスも言った。
「努力と成果を恥じる必要はありません」
ヴァルクが短く続ける。
「胸を張れ」
ルナは少しだけ背筋を伸ばした。
まだ不安はある。
明日からまた視線は増えるだろう。
セシリアとの距離も、きっと難しくなる。
けれど今は、少しだけ自分を認めてもいい気がした。
⸻
その夜、ルナは自室でノートを開いた。
これまでの言葉が並んでいる。
――セシリア。
――あいさつする。
――こわがられても、やめない。
――家族になる。
――三人で昼食。
――ここが、少し好きになってきた。
その下に、今日はこう書いた。
――一位だった。
少し迷ってから、もう一行足した。
――頑張った。
その文字を見て、ルナは小さく笑った。
誰かに認められることは嬉しい。
でも、自分で自分にそう言えることも、同じくらい大切なのかもしれない。
窓の外では、王都の灯りが静かに瞬いている。
明日になれば、また学院は騒がしくなるだろう。
自分を見る目も変わるだろう。
それでもルナは、もう完全には怯えていなかった。
友人がいる。
家族がいる。
帰る場所がある。
そして、自分が努力したことを知っている。
その事実が、少女の胸に小さく、けれど確かな灯をともしていた。




