第十四話 勉強会と焼きたてのパン
一学期の試験期間が近づくと、王立学院の空気は目に見えて変わった。
いつもなら昼休みになると賑やかに響く笑い声も、どこか控えめになる。廊下を歩く生徒たちの手には教本が増え、食堂では皿の横にノートを広げる者が現れ、図書塔の閲覧席は朝から埋まり始めた。
王立学院の試験は甘くない。
魔法理論、歴史、戦術、算術、礼法、魔法実技、剣術基礎。
成績は学期ごとに張り出され、クラス内順位だけでなく、学年全体の序列にも関わる。
貴族子女にとっては家名の名誉。
平民出身者にとっては奨学金継続の条件。
教師にとっては生徒の実力を測る重要な指標。
そして生徒たちにとっては、避けて通れぬ嵐だった。
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その日の放課後、ルナは図書塔二階の閲覧室にいた。
高い窓から差し込む午後の光は、棚に並ぶ古い本の背表紙を柔らかく照らしている。紙と革と乾いた木の匂いが混ざり、静かな空気の中に羽根ペンの走る音が小さく響いていた。
丸い机の上には、教本が何冊も積まれている。
魔法理論。
王国史。
基礎戦術。
算術演習。
薬草学入門。
それらを囲むように座っているのは、ルナ、エマ、リリアーナの三人だった。
リリアーナは王女らしく姿勢よく座っているが、目の前の歴史教本を前にして、微妙に目が泳いでいた。
エマは薬草学の範囲なら誰よりも生き生きしているが、戦術の地図問題になると途端に眉を寄せる。
そしてルナは、二人の間に座って、何冊もの教本を行き来しながら説明役になっていた。
「つまり、この術式は火属性そのものを強くするんじゃなくて、魔力の流れを細く整えるの」
ルナは紙に小さな図を描いた。
円。
線。
中心点。
火属性の流路と、補助節。
「流れが太すぎると、火力は上がるけど制御が荒くなる。だから試験で聞かれるのは、たぶん“強くする方法”じゃなくて、“安定させる方法”」
エマが目を丸くする。
「同じ火球なのに?」
「うん。同じに見えて、全然違う」
「なるほど……」
エマは必死に書き写した。
「ルナの説明、先生より分かりやすいかも」
「それは言いすぎ」
「本当ですわ」
リリアーナが真面目な顔で頷く。
「ミレディア先生の説明は鋭すぎて、時々刺さったまま理解が追いつきませんもの」
「刺さるんだ……」
ルナが思わず笑う。
リリアーナは胸に手を当て、芝居がかった声で言った。
「ええ。毎回、知性の急所を的確に」
エマが吹き出し、慌てて口を押さえた。
図書塔では大声を出してはいけない。
けれど堪えきれなかった笑いが、三人の間に小さく広がった。
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次は歴史だった。
ルナにとって、歴史は得意科目ではない。
魔法理論や戦術は構造が見える。
けれど歴史は、人の名前、年号、出来事、条約、王位継承、戦争と講和が絡み合っていて、まるでほどけにくい糸玉のようだった。
それでも、分からないままにはしない。
彼女は昨夜、セラフィスに質問しながら、年表を自分なりに整理してきた。
「第三次北方遠征は、ただの戦争じゃなくて、その後の講和条約が重要なの」
ルナは年表を指でなぞる。
「ここで国境線が決まって、その後の交易路も安定した。だから年号だけじゃなくて、“何が変わったか”を覚えるといいって、セラフィスが言ってた」
エマが感心したように呟く。
「セラフィスさんって、何でも知ってるんだね」
「うん。たぶん怖いくらい」
「怖いくらい?」
「笑顔で全部覚えてる」
リリアーナが小さく頷いた。
「分かります。あの方、王城の重臣より礼法に詳しそうですもの」
「たぶん詳しい」
三人は顔を見合わせる。
そしてまた、小さく笑った。
⸻
勉強会は、思っていたより楽しかった。
最初はただ、試験勉強のためだった。
エマが「戦術が分からない」と言い、リリアーナが「歴史は眠気との戦いです」と言い、ルナが「じゃあ一緒にやる?」と口にした。
それだけのことだった。
けれど、同じ机を囲んでみると、それは単なる勉強ではなかった。
分からないところを聞く。
知っているところを教える。
間違えて笑う。
誰かの得意を知る。
誰かの苦手を知る。
同じ時間を過ごす。
それだけで、三人の間の距離は少しずつ近づいていった。
ルナは教えながら、不思議な感覚を覚えていた。
自分の知識が、誰かの役に立つ。
誰かが「分かった」と笑う。
その瞬間、自分の中にあるものが、ただの才能や評価ではなくなる気がした。
役に立てる。
誰かと分け合える。
それは、とても温かいことだった。
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しばらくすると、リリアーナが机に突っ伏した。
「もう駄目です」
「まだ一時間しか経ってないよ」
エマが笑う。
「歴史の王様の名前が似すぎていますわ。アルディオン三世、アルディオン四世、アルディオン五世。もう少し個性を出していただきたいです」
「王様に言うことじゃない」
ルナが笑うと、リリアーナは顔を上げて真剣に言った。
「気分転換が必要です」
「たしかに、少し疲れたかも」
エマが肩を回す。
ルナも窓の外を見た。
午後の光は少し傾き始めている。
図書塔の窓からは学院商業区画へ続く通りが見えた。小さな屋台や店先には生徒たちが集まり、焼き菓子や飲み物を買っている。
ふと、ルナは思い出した。
「商業区画に行かない?」
「商業区画?」
エマが顔を上げる。
「うん。ミーナの家のパン屋が出てるかも」
リリアーナの目が輝いた。
「パン」
「反応早いね」
「王女であっても焼きたてのパンには抗えません」
エマも笑って頷いた。
「行きたい。ミーナさんにも会ってみたいし」
ルナの胸が少し弾んだ。
友達と、別の友達に会いに行く。
それだけのことなのに、なんだか大切なことのように思えた。
⸻
学院商業区画は、放課後の賑わいに包まれていた。
本館から石畳の小道を抜けると、そこには小さな市場のような空間が広がっている。文具店、菓子屋、軽食屋、魔道具修理店、古本露店。学院内とは思えないほど多彩な店が軒を連ね、生徒たちが思い思いに行き交っていた。
焼き菓子の甘い香り。
インクの匂い。
香草茶の湯気。
呼び込みの声。
笑い声。
ルナはその中を、エマとリリアーナと並んで歩いた。
以前なら、人混みに入るだけで肩が強張った。
視線が怖かった。
誰かにぶつかることが怖かった。
自分が邪魔なのではないかと、不安になった。
けれど今は、隣に友人がいる。
それだけで、同じ人混みが少し違って見えた。
「あ、あそこ」
ルナが指差す。
小さな屋台の前で、栗色の髪の少女が元気に客を呼び込んでいた。
「焼きたてパンありますよー! 勉強疲れには甘いパン! 恋の悩みには塩バター!」
「最後の効能は?」
エマが小声で突っ込む。
「たぶん気分」
ルナが答える。
ミーナは三人に気づくと、ぱっと顔を明るくした。
「ルナ!」
「ミーナ」
「来てくれたんだ! しかも友達連れてる!」
友達。
ミーナは何気なく言った。
ルナはその言葉に、少し照れたように頷いた。
「うん。エマと、リリアーナ」
エマは少し緊張しながら頭を下げた。
「は、初めまして。エマです」
リリアーナも微笑んで礼をする。
「リリアーナです」
ミーナは一瞬だけ固まった。
そして小声でルナに聞いた。
「……もしかして、王女様?」
「うん」
「うん、じゃないよ!?」
ミーナは慌てて姿勢を正す。
「は、初めまして! 市場通りパン屋の娘、ミーナです!」
リリアーナは楽しそうに笑った。
「そんなに硬くならないでください。今日はルナさんの友人として来ました」
「王女様が友人としてパン買いに来ることあるんだ……」
「あります。たぶん今日から」
その返しに、エマが小さく吹き出した。
ミーナもつられて笑い、場の緊張はすぐにほどけた。
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四人は屋台の横に置かれた小さな丸卓を囲んだ。
ミーナの父が奥から焼きたてのパンを出してくれる。
蜂蜜バターの丸パン。
香草チーズの平焼きパン。
木の実と干し果実を練り込んだ甘いパン。
表面は香ばしく、中はふわりと柔らかい。
ルナは両手でパンを持ち、ひと口かじった。
温かい。
甘い。
香ばしい。
自然と表情が緩んだ。
「おいしい」
「でしょ!」
ミーナが胸を張る。
「うちのパンは王都一だから!」
「王都一は大きく出たね」
エマが笑う。
「気持ちは王都一!」
「それなら間違いないですわ」
リリアーナが上品にパンを割りながら言う。
「この蜂蜜バター、とても美味しいです」
ミーナは目を輝かせた。
「王女様のお墨付き!」
「父に報告します?」
「絶対する!」
四人は笑った。
その笑い声は、商業区画の賑わいの中に溶けていく。
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話題は自然と試験のことになった。
「試験期間って大変なんだね」
ミーナが言う。
「私は学院生じゃないから分からないけど、みんな顔が死んでる」
「死んでますわ」
リリアーナが真剣に頷く。
「特に歴史が」
「リリアーナは歴史苦手なの?」
ミーナが聞く。
「苦手ではありません。ただ、王族として先祖の名前を間違えると精神的に重いのです」
「それは確かに重そう」
エマが苦笑する。
「エマは?」
「私は戦術が苦手。地図見てると眠くなる」
「それは私も少し分かる」
ルナが言うと、エマが驚いた。
「ルナでも?」
「うん。戦術は好きだけど、地図記号が多いと目が疲れる」
「なんか安心した」
「安心?」
「ルナにも苦手っぽいところあるんだなって」
その言葉に、ルナは少しきょとんとした。
そして、ゆっくり笑った。
「あるよ。たくさん」
以前なら、苦手を見せることは怖かった。
弱さを見せれば、見捨てられる気がした。
馬鹿にされる気がした。
けれど今は違う。
ここにいる友人たちは、ルナが完璧でないことに安心し、笑い、近づいてくれる。
それが少し不思議で、嬉しかった。
⸻
夕方の光が、商業区画の屋根を橙色に染め始めた。
店先の魔導灯が一つ、また一つと灯る。
生徒たちの数も少しずつ減り、屋台の周囲には穏やかな時間が流れていた。
四人は最後の甘いパンを分け合った。
「四等分、難しいね」
ミーナが真剣な顔でナイフを持つ。
「そこはパン屋の娘の腕の見せ所では?」
エマが言う。
「焼くのは得意だけど、均等に分けるのは別技能」
「では私が」
リリアーナが手を出しかけ、ルナが慌てて止める。
「王女にパンを切らせるの?」
「友人ですもの」
「でも危ない」
「私、そこまで不器用ではありませんわ」
結局、ミーナが少し歪な四等分に切った。
一番大きい欠片を前に、四人が沈黙する。
次の瞬間、全員がルナを見た。
「え?」
「今日一番教えてくれたから」
エマが言う。
「勉強会の先生料ですわ」
リリアーナも頷く。
「ルナにあげる!」
ミーナが笑う。
ルナは少し戸惑った。
それから、小さく笑った。
「ありがとう」
大きな欠片を受け取る。
甘いパンは、少しだけ特別な味がした。
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帰る時間になった。
エマは寮へ。
リリアーナは王城からの迎えへ。
ミーナは屋台の片づけへ。
それぞれ別の場所へ戻っていく。
けれど、その前にミーナが言った。
「また四人で食べようね」
「うん」
ルナは頷く。
エマも笑う。
「今度は試験が終わった後に」
リリアーナが少し悪戯っぽく言った。
「では、試験終了祝いにしましょう」
「落ち込む結果だったら?」
エマが不安そうに言う。
「その時は慰労会です」
ミーナが即答した。
「つまりどっちでもパン食べるんだ」
ルナが言うと、四人はまた笑った。
約束ができた。
次に会う約束。
それは、明日を少し楽しみにするための小さな灯だった。
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その日の帰り道、ルナはアルトに今日のことを話した。
図書塔で勉強会をしたこと。
エマが戦術を苦手としていること。
リリアーナが歴史に苦戦していること。
ミーナのパン屋へ行ったこと。
四人でパンを分け合ったこと。
アルトは静かに聞いていた。
セラフィスは穏やかに微笑み、ヴァルクは無言で歩いている。
「楽しかったですか」
アルトが尋ねる。
ルナは少しだけ考えた。
そして、迷いなく答えた。
「うん。すごく」
「それは良かった」
「勉強も、少し楽しかった」
「珍しいですね」
「教えたら、二人が分かったって笑ってくれて……嬉しかった」
ルナは胸元をそっと押さえた。
「この場所、少しずつ居心地が良くなってる気がする」
アルトはその言葉を聞いて、歩みをほんの少し緩めた。
少女は前を見ている。
夕暮れの光を受けた横顔は、以前より少し明るい。
学院はまだ難しい場所だ。
嫉妬もある。
噂もある。
身分の壁もある。
これから傷つくこともあるだろう。
それでもルナは、少しずつ自分の居場所を作り始めている。
誰かに与えられた席ではなく。
自分で話しかけ、教え、笑い、約束して得た場所。
「ルナ」
「なに?」
「よく頑張っていますね」
ルナは少し驚いた顔をしてから、照れたように笑った。
「まだ試験前だよ」
「それでもです」
「……うん」
その返事は小さかったが、確かに嬉しそうだった。
⸻
夜、自室でルナはノートを開いた。
いつものように、その日の出来事を短く書く。
――勉強会。
――エマ、リリアーナ。
――ミーナのパン。
少し考えて、もう一行足した。
――ここが、少し好きになってきた。
書いてから、胸が温かくなった。
学院はまだ怖い。
試験も不安だ。
セシリアとの距離も縮まったとは言えない。
それでも、ルナは今日、はっきりと思った。
この場所が嫌いではない。
むしろ、明日も行きたいと思える。
友達に会いたい。
一緒に勉強したい。
またパンを食べたい。
その気持ちは、小さくても確かな希望だった。
窓の外では、王都の灯りが静かに瞬いている。
ルナはペンを置き、ノートを閉じた。
明日も試験勉強がある。
覚えることも、分からないことも、たくさんある。
けれど今夜の彼女は、少しだけ穏やかだった。
帰る家がある。
待ってくれる人がいる。
そして学院には、笑い合える友達がいる。
その事実が、少女の眠りを優しく包んでいた。




