第十三話 称号の余波と、三人の昼食
アルトたちを乗せた馬車が王城を去ったあとも、王城《アルセリア宮》の灯りは消えなかった。
夜は深い。
王都の大通りはすでに人の流れを失い、魔導灯だけが石畳を淡く照らしている。遠くの酒場から漏れていた笑い声も途切れ、貴族街の窓明かりも一つ、また一つと沈んでいく。
だが、王城の奥。
国王の私的会議室だけは、まだ静かな光を灯していた。
重厚な扉が閉ざされる。
部屋に残ったのは、国王アルディオン、王妃セレナ、第一王女フィリア、第二王子エルディアス、宰相、軍務卿、宮廷魔導長、そして近衛副団長レオンハルト。
先ほどまでアルトたちが座っていた椅子は、今は空いている。
その空席が、かえって強い存在感を放っていた。
「……行ったか」
国王アルディオンが静かに言った。
王冠はすでに外され、机の端に置かれている。白銀の髪には夜の疲労がわずかに滲んでいたが、その目だけは鋭さを失っていなかった。
誰もすぐには答えなかった。
晩餐会。
貴族の挑発。
セラフィスの言葉による完璧な反撃。
そして、会談。
王国友誼公爵。
蒼穹の客人。
近衛兵への剣術指導。
宮廷魔導士への月一回の助言。
今夜決まったことは、王国の歴史に残るほど異例のものだった。
だが、その異例さを正しく測れる者は、この部屋にいる数名だけだった。
「陛下」
宰相が重い声で口を開いた。
「本当に、よろしかったのでしょうか」
「爵位のことか」
「はい。名誉とはいえ公爵位。領地も義務もなく、王命拘束もない。貴族院の反発は避けられません」
アルディオンは小さく息を吐いた。
「反発するだろうな」
「では」
「させておけ」
短い言葉だった。
宰相が目を伏せる。
王の決定は、すでに揺らがない。
「貴族どもは騒ぐ。だが、騒ぐだけだ」
アルディオンは机上に置かれた杯へ視線を落とした。
「彼らはまだ理解していない。アルト殿を公爵にしたのではない。我らが公爵という言葉を使って、ようやく礼を示せたに過ぎぬ」
部屋に沈黙が落ちる。
その言葉を、誰も軽くは受け止められなかった。
軍務卿が腕を組み、低く唸った。
「戦力として見れば、あの者一人で軍団以上。いや、軍団という単位で測ること自体が誤りかもしれません」
宮廷魔導長も頷く。
「魔法の方も同じです。月一回でも助言を受けられるなら、王国魔法研究は十年進む可能性があります」
フィリアが扇を閉じ、鋭い視線を向けた。
「ですが、そこを前面に出すべきではありません。彼は国益のために動く方ではない」
「分かっている」
王が言う。
「彼が動く理由は、ただ一つ。ルナ殿だ」
王妃セレナが静かに目を伏せた。
「あの少女が、この国で笑えるかどうか」
「ええ」
フィリアは頷く。
「それが最も重要です」
エルディアスが真面目な顔で言った。
「では、我々がすべきことは、ルナ殿の学院生活を守ることですね」
「そうだ」
アルディオンは息子を見た。
「過剰に守ってはならぬ。囲い込むな。飾るな。王家の道具にするな」
言葉は重かった。
「彼女はまだ子供だ。だが、ただの子供ではない。王国にとっても、他国にとっても、大きすぎる意味を持ち始めている」
セレナが続ける。
「だからこそ、普通でいられる時間が必要です」
その声は、王妃ではなく母のものだった。
「友人と食事をし、授業に悩み、失敗して、笑って帰る。そういう日々を奪ってはなりません」
部屋の空気が、少しだけ柔らかくなった。
しかしすぐに、フィリアが現実へ戻す。
「問題は貴族院です」
彼女は机上の資料を一枚取った。
「フェルナンド侯爵派は必ず反発します。今日の晩餐会で面子を潰されましたから」
「潰したのはセラフィス殿だがな」
軍務卿が半ば呆れたように言う。
フィリアは肩をすくめた。
「あれは見事でした。剣も魔法も使わずに人を沈めるところを、久しぶりに見ました」
レオンハルトが真面目な顔で言った。
「正直、戦場より怖かったです」
その言葉に、宮廷魔導長が深く頷く。
「あの執事殿だけでも、敵に回したくありませんな」
ほんの少し、部屋に苦笑が生まれた。
だがそれは長く続かなかった。
王は再び顔を引き締める。
「貴族院には、こう通達する。王国友誼公爵は、王国に仕える爵位ではなく、王国と友誼を結ぶ特別称号である、と」
「王命拘束なしの理由は?」
「友誼に命令は不要だ」
フィリアが微笑んだ。
「良い言葉です。反発する者は、“友人を命令で縛るべきだ”と主張することになります」
「お前なら、貴族院で楽しそうに言い負かすだろうな」
「楽しそうではなく、楽しいでしょうね」
セレナが少し困ったように娘を見る。
「ほどほどに」
「善処します」
善処という言葉ほど信用ならないものはない。
だが今夜、それを咎める者はいなかった。
⸻
次に話題は、ルナの養子縁組へ移った。
宰相が書類を広げる。
「養子縁組については、本人の意思確認が必要です。王国法上、後見人登録と家名の付与は可能。ただし、アルト殿の家名をどう扱うかが課題となります」
「黒瀬、だったか」
王が言う。
「異国名として登録することは可能です」
「ルナ殿が望むなら、それでいい」
王妃が静かに頷いた。
「彼女自身に選ばせましょう」
「同意します」
フィリアも言う。
「家名とは、ただの飾りではありません。彼女が初めて自分で選べるものになるかもしれない」
エルディアスは黙って聞いていた。
やがて、少し遠慮がちに口を開く。
「父上」
「何だ」
「ルナ殿は、王国にとって重要な存在です。しかし……その前に、アルト殿にとって家族なのですね」
王は息子を見る。
しばし沈黙した後、ゆっくり頷いた。
「そうだ」
「なら、我々はその順序を間違えてはならない」
エルディアスの声は真っ直ぐだった。
「王国のためのルナ殿ではなく、ルナ殿が安心して生きるための王国であるべきです」
フィリアが少し驚いたように弟を見た。
王妃は柔らかく微笑む。
アルディオンは、満足げに目を細めた。
「よく言った」
エルディアスはわずかに頬を赤くした。
「いえ」
「その言葉、忘れるな」
「はい」
⸻
会議はさらに続いた。
近衛指導の日程。
ヴァルクを迎える際の訓練場確保。
初回の参加者制限。
宮廷魔導長の研究会については、質問事項を事前提出とすること。
セラフィスによる監視がつくため、暴走しないこと。
それを聞いた宮廷魔導長は、少し肩を落とした。
「質問事項を絞れと言われても……聞きたいことが山ほど」
フィリアが淡々と刺す。
「山ほど出した瞬間に、次回から来ていただけなくなりますよ」
「三つに絞ります」
「一つにしなさい」
「……二つで」
「一つ」
「……はい」
宮廷魔導長は老人とは思えぬほど小さくなった。
王はその様子を見て、ほんの少し笑った。
今夜の会議には、重さだけでなく、奇妙な明るさもあった。
それはおそらく、アルトたちが敵ではないと確認できたからだろう。
完全な味方ではない。
だが、少なくとも王国を滅ぼそうとしてはいない。
それだけで、王国中枢にとっては十分すぎるほどの安堵だった。
⸻
会議が終わる頃、夜はさらに深まっていた。
重臣たちが退室し、最後に残ったのは王と王妃、フィリアだけだった。
セレナが窓辺へ歩く。
王都の灯りは、もうかなり少なくなっている。
「あなた」
「何だ」
「今夜の決定は、歴史に残るでしょうね」
「悪い意味でなければいいが」
フィリアが口元に笑みを浮かべる。
「悪い意味で残さないために、私たちが働くのです」
「頼もしいことだ」
王は椅子に深く座り、疲れたように息を吐いた。
「しかし、あの青年は不思議だ」
「アルト様ですか」
「ああ」
王は目を閉じる。
「公爵位にも興味を示さず、称号にも浮かれず、王家の支援にも慎重。ただ、ルナ殿のためになるかだけを見ている」
セレナが静かに微笑む。
「だから信じられるのでは?」
「だから恐ろしいのだ」
王は目を開く。
「国も爵位も金も名誉も、彼を動かす鎖にならぬ。だが、少女一人が彼をこの国に留めている」
「それを弱点と見る者も出るでしょう」
フィリアの声が冷える。
「その時は」
王の目が鋭くなる。
「王国がその者を許さぬ」
静かな宣言だった。
王妃は頷き、フィリアもまた、静かに礼をした。
その夜、王国中枢は一つの方針を定めた。
アルトを縛るのではなく、信を得る。
ルナを利用するのではなく、守る。
それが王国を守る最良の道でもあるのだと。
⸻
翌朝。
王立学院では、すでに新しい噂が広がり始めていた。
王国友誼公爵。
蒼穹の客人。
王族の友人。
領地を持たず、王命に縛られない特別な爵位。
その名を授けられたのが、ルナの保護者である黒髪の青年だという話は、朝の鐘が鳴る前には学院中を駆け巡っていた。
ルナが教室へ入ると、空気がいつもと違っていた。
視線が集まる。
だが昨日までのような単なる好奇や嫉妬ではない。
警戒。
戸惑い。
計算。
そして、明らかな距離感の変化。
「……あの子の保護者、公爵になったんですって」
「名誉公爵らしいわ」
「王族の友人って何?」
「そんな称号、聞いたことない」
「つまり、王家が後ろ盾ってこと?」
囁きは小さかったが、ルナには聞こえた。
胸が少し苦しくなる。
昨日までとは別の意味で、また自分が遠くなった気がした。
けれど、今日はひとつ違うことがあった。
食堂で会う約束があった。
エマと。
そして、リリアーナと。
⸻
昼休み。
学院食堂はいつものように賑やかだった。
長い木製のテーブルには生徒たちが集まり、笑い声と食器の音が響いている。窓から差し込む光は柔らかく、焼きたてのパンの香りが広がっていた。
ルナは盆を持って、少し緊張しながら食堂の奥へ向かった。
エマはすでに席に座っていた。
栗色の短い髪。
丸い眼鏡。
今日は薬草の本ではなく、小さなノートを開いている。
ルナを見つけると、ぱっと顔を上げた。
「ルナ、こっち!」
その声に、ルナの心が少し軽くなる。
「うん」
近づいたところで、エマは少しだけそわそわした。
「それで……今日は本当に、王女殿下も?」
「うん。来るって」
「ど、どうしよう。私、変なこと言わないかな」
「リリアーナは優しいよ」
「優しい王女殿下って、逆に緊張するよ」
ルナは少し笑った。
その時、背後から明るい声がした。
「お待たせしました」
リリアーナだった。
王女でありながら、今日は護衛や取り巻きを連れず、盆を持って普通の生徒のように立っている。
周囲の生徒たちは当然ざわめいた。
だがリリアーナは気にした様子もなく、ルナの隣へ座った。
「あなたがエマさんですね」
「は、はい! Bクラスのエマです! 薬草商会の娘です!」
声が裏返っていた。
リリアーナは柔らかく微笑む。
「ルナさんから聞いています。薬草に詳しい、と」
「い、いえ、まだ勉強中で……」
「素敵です。私、薬草はほとんど分かりませんの。ぜひ教えてください」
エマは目を丸くした。
王女から教えてほしいと言われるなど、想像もしていなかったのだろう。
「わ、私でよければ」
「嬉しいです」
そのやり取りを見て、ルナはほっとした。
二人がちゃんと話せている。
自分の友達同士が、同じ席にいる。
それが、思っていた以上に嬉しかった。
⸻
最初はぎこちなかった会話も、食事が進むにつれて少しずつ柔らかくなった。
エマは薬草の話になると途端に饒舌になった。
「このスープに入ってる香草、疲労回復に少し効果があるんです。でも煮込みすぎると香りだけ残って効能は落ちます」
「そうなの?」
ルナが驚く。
「うん。だから薬にする時は低温で抽出するの」
リリアーナが目を輝かせた。
「面白いですわ。料理と薬は近いのですね」
「はい! 食べるものも身体に作用するので、広い意味では全部薬みたいなものです」
「では、この蜂蜜菓子は?」
「心に効きます」
エマが真顔で言った。
一瞬沈黙。
次に、リリアーナがくすくす笑った。
「それは重要な効能です」
「うん」
ルナも笑った。
その笑い声は、食堂のざわめきの中に自然に溶けた。
特別な称号。
公爵。
王族の友人。
そんな大きな言葉が学院を飛び交っていても、この席にあるのはただの昼食だった。
パンを分け合い、スープを飲み、甘味の話をする。
それだけの時間。
けれどルナにとって、それはとても大切なものだった。
⸻
会話はやがて、学院生活の話へ移った。
「Sクラスは大変ですか?」
エマが尋ねる。
「うん。授業が難しい」
「ルナでも?」
「人間関係が」
「ああ……」
エマは少しだけ苦笑した。
リリアーナも頷く。
「それは最難関科目ですわ」
「王女でも?」
「王女だからこそです」
三人は顔を見合わせる。
身分も立場も違う。
王女。
商家の娘。
苗字のない少女。
けれど悩みの形は、少しずつ重なる部分があった。
「私」
ルナがぽつりと言った。
「最近、いろんな名前が増えてる気がする」
「名前?」
エマが首を傾げる。
「主席とか、全属性とか、公爵の養子になるかもしれない子とか」
言葉にすると、少し胸が重くなった。
「でも、私自身はまだ、よく分からないことばかりで……」
リリアーナは黙って聞いている。
エマも茶化さなかった。
「だから、こうして普通に話せる時間が、すごく安心する」
ルナは少し照れたように笑った。
「ありがとう」
エマは瞬きをして、それから優しく笑った。
「私も楽しいよ」
リリアーナも頷く。
「私もです。王女ではなく、ただの友人としてここに座れるのは、とても貴重ですから」
「ただの友人」
ルナはその言葉を繰り返した。
胸の奥で、何かが温かくなる。
「じゃあ……また、三人で食べたい」
「もちろん!」
エマが即答する。
「ええ。定例会にしましょう」
リリアーナが楽しげに言った。
「定例会?」
「そうです。昼食友の会です」
「名前が少し硬い」
「では、蜂蜜菓子研究会」
「それ、食べるだけでは?」
「重要な研究です」
エマが真面目に頷いた。
ルナはまた笑った。
少女らしい、柔らかな笑顔だった。
⸻
食堂の少し離れた席から、その様子を見ている者がいた。
セシリアだった。
彼女は取り巻きに囲まれながらも、視線だけをルナたちへ向けている。
王女と商家の娘と、ルナ。
本来なら交わるはずのない三人が、同じテーブルで笑っている。
しかもリリアーナは、そこに何の不自然さも感じていないようだった。
セシリアの胸に、複雑な感情が浮かぶ。
苛立ち。
羨望。
理解不能。
そして、ほんの少しの寂しさ。
ルナは自分が傷つけた相手だ。
その相手は、自分へ毎朝挨拶をしてくる。
そして今、少しずつ居場所を作っている。
セシリアには、それが眩しかった。
「セシリア様?」
取り巻きが声をかける。
「何でもありませんわ」
彼女は視線を逸らし、静かに紅茶を口へ運んだ。
だが、味はよく分からなかった。
⸻
放課後。
ルナは校門へ向かう足取りが軽かった。
今日も噂は多かった。
視線も多かった。
公爵の話で、ますます遠巻きにされた気もする。
けれど、昼食の時間があった。
エマとリリアーナと三人で笑った。
それだけで、今日という日は悪くなかったと思えた。
校門の外には、アルトが立っていた。
いつものように静かに。
だが今日、ルナはその姿を見て少し笑ってしまった。
「おかえりなさい」
「ただいま、公爵様」
アルトは一瞬だけ動きを止めた。
後ろのセラフィスが肩を震わせる。
「……やめてください」
「学院でみんな言ってた」
「困りましたね」
「有名人だね」
「あなたもです」
「私は困ってる」
「私もです」
二人は少しだけ見つめ合い、同時に小さく笑った。
セラフィスが穏やかに尋ねる。
「本日は楽しかったですか」
「うん」
ルナは迷わず答えた。
「エマとリリアーナと三人でご飯を食べた」
「それは何よりです」
「また食べる約束もした」
アルトは静かに頷く。
「良い一日でしたね」
「うん」
夕方の光が、ルナの髪を柔らかく照らしていた。
公爵。
王族の友人。
全属性適性。
学院主席。
周囲は彼女にいくつもの名前を与えていく。
けれどその中心にいる少女は、今日、友人と昼食を食べて笑った。
それこそが、アルトにとって最も大切な報告だった。
⸻
その夜、ルナは自室の机に向かい、ノートを開いた。
これまで書き重ねた言葉がある。
――セシリア。
――あいさつする。
――こわがられても、やめない。
――家族になる。
その下に、今日の言葉を書き足す。
――三人で昼食。
短い言葉だった。
だが、見ているだけで胸が温かくなる。
ルナはペンを置き、窓の外を見た。
王都の夜灯りが、遠く瞬いている。
世界はまだ広い。
学院はまだ難しい。
自分の立場も、これからもっと複雑になるのかもしれない。
それでも。
明日も食堂へ行こう。
明日も挨拶をしよう。
明日も少しだけ、自分から誰かに近づいてみよう。
そう思えた。
少女の世界は、また少し広がった。
今度は、三人分の笑い声とともに。




