第十二話 王家の晩餐
王城へ向かう馬車の中は、奇妙なほど静かだった。
外では夕暮れの王都が、黄金色から藍色へとゆっくり沈みつつある。石畳を行き交う馬車の車輪、商人たちが店仕舞いをする声、街路の魔導灯が一つずつ灯っていく気配。それらが窓越しに淡く流れていく。
その中心で、アルトは静かに座っていた。
黒を基調とした礼装は、過度な装飾を避けながらも上質で、襟元と袖口にのみ銀糸が走っている。整いすぎないほどに整った姿は、貴族の華やかさとは違う、静かな威厳を纏っていた。
隣にはセラフィス。
白銀の礼服を寸分の乱れもなく着こなし、いつもの執事然とした姿勢で座っている。その微笑みは柔らかいが、瞳の奥はすでに戦場を見据える参謀のものだった。
反対側にはヴァルク。
濃紺の正装に身を包み、剣を持たぬ代わりに無言の威圧を纏っている。剣がなくとも、この男が武であることは隠しようがなかった。
ルナは今日、屋敷で留守番だった。
学院の課題があること。
晩餐会という場所が、彼女にはまだ負担になること。
そして何より、今夜の話し合いは大人たちの政治を含むこと。
そう判断してのことだった。
出発前、ルナは少し不安そうにしていた。
「大丈夫?」
そう聞いたのは、本来なら送り出される側のアルトたちではなく、送り出す側のルナだった。
アルトは微笑んで答えた。
「ええ。晩餐を食べて、話をして帰るだけです」
「……本当に?」
「たぶん」
「たぶんって言った」
セラフィスが横から優雅に補足した。
「ご安心ください。主様が何か壊しそうになりましたら、私が止めます」
「止める側が一番怖い気がする」
ヴァルクは短く言った。
「早く帰る」
ルナはその言葉に、少しだけ笑った。
「うん。待ってる」
その笑顔を背に、三人は王城へ向かった。
⸻
王城《アルセリア宮》は、夜の光の中で昼とは違う威容を見せていた。
白亜の壁は魔導灯に照らされて淡く輝き、尖塔の先には星がかかっている。城門の両側には近衛兵が整列し、銀の鎧が青白い光を反射していた。
門前で馬車が止まる。
扉が開くと、レオンハルトが待っていた。
近衛副団長。
以前、災害級魔物との戦場で前線に立っていた男だ。
今夜の彼は礼装鎧を身につけ、宮廷の顔をしていたが、その目には戦場で見た時と同じ鋭さがあった。
「お待ちしておりました」
「ご案内、ありがとうございます」
アルトが軽く会釈する。
レオンハルトは一瞬、その礼の自然さに目を細めた。
この青年は、王城でもまるで揺れない。
恐れない。
媚びない。
しかし無礼でもない。
その均衡が、かえって異質だった。
「本日は、晩餐会の後に陛下との会談がございます」
「伺っています」
「晩餐会には一部重臣、貴族も出席しております」
レオンハルトはわずかに声を落とした。
「中には、あなた方の出席を快く思わぬ者もいるかと」
「そうですか」
アルトは穏やかに答える。
セラフィスは微笑んだ。
「ご心配なく。言葉には言葉で応じますので」
レオンハルトは少しだけ沈黙した。
その言葉が、なぜか剣を抜く宣言より危険に聞こえたからだ。
⸻
晩餐館は、王城本殿から渡り廊下を隔てた別棟にあった。
王族が大規模な客人を迎えるための建物であり、広間は高い天井と長い窓を持ち、壁には王国の歴史を描いた大きな絵画が並んでいた。
金の燭台。
白いテーブルクロス。
磨き上げられた銀食器。
水晶の杯。
花器に活けられた淡い青の花。
晩餐会の席は華やかだった。
すでに多くの貴族や重臣が集まっている。
彼らは笑みを浮かべ、互いに礼を交わしながらも、視線だけは鋭く動かしていた。
王都に突然現れた、黒髪の青年。
王族から丁重に扱われる正体不明の旅人。
全属性適性を示した少女ルナの保護者。
その存在を確かめるため、今夜ここにいる者は少なくなかった。
アルトたちが広間に入った瞬間、ざわめきが薄く広がった。
「……あれが」
「黒髪の」
「王家がわざわざ招いたという」
「従者も妙だな」
「護衛か? いや、あれは……」
囁きはすぐに消えた。
王族の前で無作法な声を立てるほど愚かな者はいない。
だが目は雄弁だった。
値踏み。
警戒。
侮り。
恐れ。
そして嫉妬。
それらを、セラフィスは一瞥で分類した。
特に害意の濃い数名を記憶する。
その視線の先で、国王アルディオンが立ち上がった。
「よく来てくれた、アルト殿」
国王自らの言葉。
広間の空気が変わった。
王妃セレナも柔らかく微笑み、第一王女フィリアは興味深げに目を細めている。第二王子エルディアスは真面目な顔で一礼し、末王女リリアーナは今にも手を振りそうな顔をしていたが、王妃に目で制されていた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
アルトは落ち着いて礼を返す。
「こちらこそ、今夜は形式ばった場に呼び立ててすまぬ」
「いえ。良い機会です」
王はその言葉に、わずかに笑った。
「そう言ってもらえると助かる」
そのやり取りを聞いた貴族たちは、内心でさらにざわついた。
王が、対等に近い言葉遣いをしている。
それはただの客人に向ける態度ではない。
⸻
晩餐が始まった。
料理は見事だった。
白身魚の香草蒸し。
鹿肉の赤酒煮込み。
季節野菜の冷製。
黄金色のスープ。
果実の蜜煮。
味も香りも洗練され、皿の上には王都の豊かさが凝縮されていた。
アルトは静かに食事を進め、セラフィスは完璧な所作で給仕の動きを観察し、ヴァルクは必要最小限の動作で肉を切っていた。
その所作に、何人かの貴族が微かに眉を動かす。
粗野ではない。
むしろ、想像以上に整っている。
それが気に食わない者もいた。
晩餐の中頃、ひとりの男が声を上げた。
中年の貴族。
肥えた身体に宝石を飾り、口元には作り笑いを浮かべている。
名はフェルナンド侯爵。
保守派貴族の一角であり、身分秩序を何より重んじる男だった。
「アルト殿」
声は丁寧だった。
だが、棘が隠しきれていない。
「このような王家の晩餐に招かれるとは、さぞ驚かれたことでしょうな」
「そうですね。珍しい経験です」
「ふむ。では、王国の礼法には不慣れでいらっしゃる?」
「多少は」
「なるほど」
侯爵は薄く笑った。
「いや、何。近頃は出自の定かでない者であっても、才さえあれば王城へ招かれる時代になったのだなと、感慨深く思いましてな」
空気が固まった。
王族の表情は動かない。
しかし、王妃セレナの目が細くなり、フィリアの口元から笑みが消えた。
アルトは何も言わなかった。
言う必要がなかったからだ。
セラフィスが静かに微笑んだ。
「フェルナンド侯爵」
「何かな、執事殿」
「確認なのですが」
セラフィスの声は、夜会の音楽のように柔らかかった。
「侯爵閣下は、出自の定かさを重視されるのですね」
「当然だ。貴族とは血と歴史によって成る」
「なるほど。大変勉強になります」
セラフィスは一礼する。
「では、侯爵家の三代前の当主が、戦時中に商人階級より婿入りされた件については、どのように解釈すればよろしいでしょうか」
侯爵の笑みが凍った。
周囲の数名が息を呑む。
「な……」
「いえ、否定しているわけではありません。むしろ素晴らしいことです。才ある商家出身者を家に迎え、傾きかけた領地財政を立て直した。血より実務を選んだ英断として、私は高く評価しております」
セラフィスはにこやかに続けた。
「ただ、先ほどの閣下のお言葉と照らすと、少々整合性に疑問がありまして」
「そ、それは……」
「もちろん、歴史には事情がございます。であれば、他者の出自を軽々しく論じる際にも、同じだけ事情を考慮なさるべきかと」
完璧な微笑み。
丁寧な言葉。
だがその刃は、容赦なく侯爵の喉元へ届いていた。
広間の空気が変わる。
笑ってはいけない。
だが何人かの貴族は、必死に杯を口元へ運んで笑いを隠していた。
フェルナンド侯爵の顔が赤くなる。
「執事風情が、随分と口が回る」
「恐れ入ります」
「褒めておらん!」
「では、忠告として承りました」
セラフィスは優雅に頭を下げる。
「今後も、閣下の発言がご自身の家史と矛盾しないよう、陰ながらお祈り申し上げます」
撃沈だった。
言葉は礼節を保っていた。
侮辱ではない。
だが完全に逃げ道を塞いでいた。
フェルナンド侯爵は口を開きかけ、閉じ、やがて硬い笑みを浮かべて黙った。
その様子を見ていた国王アルディオンは、ほんのわずかに口元を緩めた。
フィリアは扇で口元を隠している。
リリアーナは肩を震わせていた。
アルトは小さく息を吐いた。
「セラフィス」
「はい、主様」
「ほどほどに」
「すでにかなり抑えております」
「そうですか」
「はい」
ヴァルクが肉を口へ運びながら、低く言った。
「強いな」
「剣よりは平和的です」
「そうか」
「ええ」
たぶん違う、とアルトは思った。
⸻
晩餐の後、場は移された。
王城内の小会議室。
豪奢ではあるが、晩餐館ほど華美ではない。重厚な丸卓が中央に置かれ、壁には王国地図と魔法防衛網の図が掲げられている。
出席者は限られていた。
国王アルディオン。
王妃セレナ。
第一王女フィリア。
第二王子エルディアス。
宰相。
宮廷魔導長。
軍務卿。
近衛副団長レオンハルト。
そして、アルト、セラフィス、ヴァルク。
空気は晩餐会よりもずっと重い。
ここからが本題だった。
王が最初に口を開く。
「まず、今夜来てくれたことに感謝する」
「こちらこそ、場を設けていただきありがとうございます」
「単刀直入に言おう。ルナ殿の才能は、王国として無視できぬ域にある」
アルトは頷いた。
「理解しています」
「同時に、彼女はまだ子供だ」
王妃セレナが続ける。
「学院生活を壊す形で保護するべきではありません」
「同意します」
アルトの返答は早かった。
「私も、それを望んでいません」
王は静かに彼を見る。
「では、そちらの意向を聞かせてほしい」
アルトは少し間を置いた。
「ルナは、私の家族になることを望みました」
室内の空気が、わずかに変わる。
「養子、という形ですね」
「はい」
「本人の意思か」
「本人の意思です」
「ならば尊重すべきだ」
王は即答した。
その返答に、アルトはわずかに目を細める。
王はさらに続けた。
「王家としても、ルナ殿の身分的保護は必要と考えていた。君が正式な保護者となるなら、こちらとしても筋が通る」
宰相が書類を広げる。
「ただし、アルト殿自身が王国貴族ではないため、通常の養子縁組では社会的保護力に限界がございます」
「でしょうね」
セラフィスが静かに言う。
「そこで陛下より、特例案がございます」
宰相の声が少し硬くなる。
「アルト殿へ、王国友誼公爵位を授与する案です」
会議室が沈黙した。
重臣たちでさえ、その言葉の重さを理解している。
公爵。
王族に準じる最高位貴族。
しかし王は、すぐに補足した。
「通常の公爵ではない。領地なし、領民なし、納税義務なし、王命拘束なし。あくまで、王国が最大限の敬意を払う友人としての名誉爵位だ」
フィリアが続ける。
「称号は“蒼穹の客人”。王族の友人として、王城への出入りや謁見について特別な権限を持ちます」
アルトは沈黙した。
セラフィスも口を挟まない。
ヴァルクは微動だにしない。
「王命拘束なし、ですか」
アルトが言う。
「そうだ」
「つまり、王家から命令を受ける義務はない」
「ない」
「軍務も、政治的動員も?」
「ない」
「では、なぜそこまで?」
王は、真正面から答えた。
「君を縛るためではない。縛れぬ相手を縛ろうとすれば、敵になるだけだ」
重臣たちが息を呑む。
王は続ける。
「我らは、君たちを敵にしたくない。ルナ殿にはこの国で安心して学んでほしい。そして君には、この国も悪くないと思ってほしい」
率直だった。
政治の場にしては、あまりにも率直な言葉。
だがそれゆえに、アルトには届いた。
「見返りは?」
アルトが問う。
王は少しだけ笑う。
「本来なら求めぬ方が美しいのだろうが、国とは現実でできている」
「ええ」
「可能であれば、王国の戦力育成に協力してほしい」
軍務卿が身を乗り出す。
「具体的には、ヴァルク殿に近衛兵への剣術指導をお願いしたい。月に数度でも構わぬ」
ヴァルクが無言でアルトを見る。
アルトは小さく首を傾げる。
「どうしますか」
「暇ではない」
「ですが、ルナの登下校時間以外は比較的余裕がありますね」
「……」
ヴァルクは少し考えた。
「週一なら」
軍務卿の顔が明るくなる。
「十分です!」
レオンハルトも目を輝かせていた。
普段冷静な男が、明らかに期待している。
ヴァルクはその視線に少しだけ眉をひそめた。
次に、宮廷魔導長が身を乗り出す。
「それから、アルト殿には魔法指導、あるいは研究会への助言をお願いできぬだろうか」
「面倒です」
即答だった。
宮廷魔導長が絶望した顔になる。
セラフィスが横から微笑む。
「主様。月一回程度でしたら、ルナ様の学院資料確認のついでに可能では?」
「月一回」
「はい」
「短時間で」
「はい」
「質問責めは禁止で」
宮廷魔導長が慌てて頷く。
「も、もちろんです」
フィリアが小声で呟く。
「絶対守れなさそうね」
王妃が目でたしなめた。
アルトは少し考えた後、頷いた。
「月一回、短時間なら」
宮廷魔導長はまるで宝石を与えられた子供のような顔をした。
「感謝します!」
「ただし、危険な術式は教えません」
「もちろんです!」
その返事の速さに、セラフィスは微笑んだ。
「では私が監視いたします」
宮廷魔導長の顔が少し青くなった。
⸻
話し合いはさらに続いた。
ルナの学院内での扱い。
王家特別奨学生としての支援。
ただし本人の自由を侵害しないこと。
養子縁組の手続き。
家名の選択はルナ本人の意思を尊重すること。
学院内外の護衛体制。
貴族による不当な圧力への対応。
話は多岐にわたった。
その中で、アルトは一貫していた。
「ルナ本人の意思が最優先です」
何度もそう言った。
王も、それを否定しなかった。
「分かっている」
その返答があったからこそ、話は前へ進んだ。
やがて会談の終わり際、王は改めて立ち上がった。
「アルト殿」
「はい」
「王国友誼公爵の称号、受けてくれるか」
アルトは少しだけ沈黙した。
称号。
爵位。
彼自身には不要なものだった。
森で一人で生きていた頃なら、何の価値も感じなかっただろう。
だが今は違う。
それがルナを守る盾になるなら。
彼女が学院で胸を張る助けになるなら。
受け取る意味はある。
「ルナが望むなら、と言いたいところですが」
アルトは静かに言った。
「今回は、私が先に受けるべきでしょうね」
王の目がわずかに動く。
「受けてくれるか」
「はい」
アルトは軽く頭を下げた。
「ただし、私は王家の命令では動きません」
「承知している」
「ですが、この国が理不尽に襲われるなら助力します」
室内が静まる。
王が問う。
「なぜだ」
アルトは迷わず答えた。
「ルナが学ぶ国だからです」
その一言に、王も重臣たちも黙った。
理由は国益ではない。
忠誠でもない。
少女一人のため。
だがその一人がいる限り、この男は王国の敵にはならない。
王は深く頷いた。
「十分だ」
⸻
会談が終わった時、夜はすっかり更けていた。
王城を出る頃、星が高く澄んでいた。
馬車へ向かう途中、レオンハルトがヴァルクへ近づいた。
「指導の件、よろしくお願いする」
「手加減はする」
「……できれば初回は多めに頼む」
「考える」
レオンハルトは少しだけ苦笑した。
宮廷魔導長はアルトの後ろ姿を名残惜しそうに見ていたが、セラフィスに一瞥されてすぐ姿勢を正した。
フィリアは遠くから楽しげに見送り、リリアーナは今度こそ小さく手を振った。
アルトはそれに軽く会釈した。
⸻
屋敷へ戻ると、玄関の灯りがまだ点いていた。
扉を開けると、ルナが廊下に立っていた。
寝間着の上に薄い羽織をかけ、少し眠そうな目をしている。
「おかえり」
その声に、三人は一瞬だけ足を止めた。
待っていたのだ。
眠いのに。
心配で。
アルトの表情が柔らかくなる。
「ただいま」
「どうだった?」
「いろいろありました」
「いろいろ?」
セラフィスが微笑む。
「主様が公爵になりました」
ルナは瞬きをした。
「……え?」
「正確には、王国友誼公爵です」
「え?」
「王族の友人として、“蒼穹の客人”という称号もいただきました」
「ええええ!?」
夜の屋敷に、ルナの声が響いた。
ヴァルクが短く言う。
「俺は近衛を鍛える」
「え?」
「アルトは魔法を教える」
「ええ?」
情報が多すぎて、ルナは完全に固まった。
アルトは苦笑する。
「詳しくは明日話します。今日はもう寝ましょう」
「寝られないよ!」
「それは困りました」
セラフィスが穏やかに言う。
「では温かいミルクを用意しましょう。公爵家初日の夜ですし」
「公爵家って言わないで!」
ルナは顔を真っ赤にして叫んだ。
その声に、屋敷の空気が明るくなる。
王城での政治も、爵位も、称号も、すべてが大きな話だった。
だがこの家に帰れば、そこにあるのはただの家族の夜だった。
待っている少女がいて。
帰ってきた者たちがいて。
温かな飲み物を用意する執事がいて。
無口な剣士が静かに扉を閉める。
アルトはその光景を見て、静かに思う。
王国友誼公爵。
蒼穹の客人。
どれほど大仰な称号を与えられても、自分が守りたいものは変わらない。
この小さな家。
この少女の笑顔。
そして、彼女が明日も安心して学院へ向かえる日常。
それだけで十分だった。
王都の夜は更けていく。
だが屋敷の灯りは、もう少しだけ消えそうになかった。




