第十一話 眠れる少女のための会議
屋敷の夜は、深く静かだった。
王都の西区画に建つその家は、昼間こそ陽光と風を受けて明るく息づいているが、夜になると、まるで大きな獣が穏やかに身を伏せたような静けさに包まれる。
窓の外には、王都の灯りが遠く滲んでいた。
街路を照らす魔導灯。
帰路を急ぐ馬車の音。
どこか遠い酒場の笑い声。
それらは壁と庭木に柔らかく遮られ、この屋敷の中までは届かない。
食堂には、まだ薄く茶の香りが残っていた。
つい先ほどまで、そこにはルナの泣き笑いがあった。
家族になりたい。
その言葉を、彼女は震えながら口にした。
それは、どんな魔法よりも重い言葉だった。
どんな誓約書よりも、どんな王命よりも、アルトの胸に深く残った。
今、ルナは自室で眠っている。
泣き疲れたのだろう。
セラフィスがそっと様子を見に行き、戻ってきた時には、珍しく柔らかな顔をしていた。
「よくお休みです」
その一言に、アルトは静かに頷いた。
「そうですか」
「枕元にノートを置いたままでした」
「何か書いてありましたか」
「見ておりません」
セラフィスは当然のように答える。
「お嬢様の秘密ですので」
アルトは少しだけ笑った。
「あなたにも、そういう配慮があるのですね」
「失礼ですね、主様。私は完璧な執事です」
その言葉に、壁際のヴァルクが短く息を漏らした。
笑ったのだと分かるまでに、少し時間がかかった。
⸻
食堂の灯りは落とされ、今は小さな魔導灯だけが卓上を照らしている。
金色の淡い光。
黒い窓硝子に映る三人の影。
アルトは椅子に腰掛け、指を組んでいた。
セラフィスはその斜め後ろに立ち、ヴァルクは腕を組んで壁に背を預けている。
いつもの三人。
だが今夜の話は、いつもより重かった。
「さて」
セラフィスが静かに口を開く。
「お嬢様が望まれました」
「ええ」
「ならば、次は我々の仕事です」
その声は穏やかだったが、そこには確かな覚悟があった。
家族になる。
その願いは、言葉だけなら美しい。
だがこの王都では、言葉だけでは人を守れない。
家名。
身分。
後見人登録。
王家承認。
学院への届出。
貴族社会への通達。
そして、帝国の影。
ルナを家族として迎えるということは、彼女を守るための壁を築くと同時に、その存在を公に示すことでもあった。
「王に話す必要がありますね」
アルトが言う。
「避けられません」
セラフィスが即答した。
「王家はすでに、ルナ様を特別奨学生として保護する意向を示しています。そこへ我々が養子縁組を申し出る。王国側としても無視はできません」
「反対されるでしょうか」
「表向きには、まずされないでしょう」
「表向きには?」
「はい」
セラフィスは淡々と続ける。
「王家から見れば、主様がルナ様の正式な保護者となることは、利点が多い。ルナ様の後ろ盾が明確になり、学院内での身分問題もある程度抑えられる。何より、主様がこの国に留まる理由が強くなる」
アルトは目を伏せた。
「つまり、王家にとっても都合がいい」
「ええ」
「政治ですね」
「政治です」
短いやり取りだった。
だが、その中には、この世界の現実があった。
善意だけでは国は動かない。
愛情だけでは人は守れない。
けれど政治を嫌い、背を向けるだけでは、ルナの未来まで危うくなる。
アルトはそれを理解していた。
理解しているからこそ、厄介だった。
⸻
ヴァルクが低く言った。
「利用されるか」
「されます」
セラフィスは迷わず答えた。
「王家も貴族も、帝国も聖王国も、利用できるものは利用しようとするでしょう」
「なら潰す」
「早いです、ヴァルク」
「早いか」
「早いですね」
セラフィスは微笑んだ。
「ただ、必要になれば私も同意します」
「あなたも大概ですね」
アルトが言う。
しかし否定はしなかった。
ルナを害するものがあるなら、排除する。
それ自体に迷いはない。
問題は、どこまでを害と見なすかだった。
悪意ある貴族の言葉。
学院内の嫉妬。
王家の政治的配慮。
他国の関心。
すべてを敵として斬れば、ルナの世界は狭くなる。
しかし放置すれば、彼女は傷つく。
守ることと、閉じ込めることは似ている。
だが同じではない。
その境界を見誤れば、ルナの未来を奪うのは敵ではなく自分たちになる。
「私は」
アルトは静かに言った。
「ルナを檻に入れたくありません」
セラフィスもヴァルクも黙って聞いている。
「家名を与えることが、彼女を縛る鎖になってはいけない。王家の保護も同じです。安全のために自由を奪うのでは意味がない」
「では、王へはどう伝えますか」
「率直に」
アルトは顔を上げた。
「ルナは私の家族になることを望んだ。私はそれを受け入れる。その上で、彼女の学院生活を妨げない範囲で王家と協力する」
「協力、ですか」
「ええ。従属ではなく、協力です」
セラフィスの目が細くなる。
「良い言葉です」
「王が理解する方なら、それで通じるでしょう」
「理解しなければ?」
ヴァルクが問う。
アルトは少しだけ沈黙した。
それから、いつもと変わらぬ穏やかな声で答えた。
「その時は、王都を出ます」
食堂の空気がわずかに沈む。
重い言葉だった。
だが、当然でもあった。
この国がルナの居場所でなくなるなら、留まる理由はない。
学院も、王都も、王家も。
ルナの心より重いものではない。
セラフィスは一礼した。
「承知しました」
ヴァルクも短く頷く。
「どこへでも」
その言葉に、アルトはわずかに笑った。
「心強いですね」
⸻
しばらく沈黙が落ちた。
夜の静けさが、部屋の隅々まで染み込んでいく。
セラフィスは新しい紅茶を淹れ直した。
湯気が細く立ち昇り、淡い香りが空気を満たす。
「しかし」
セラフィスが言う。
「主様の養子、となると問題が一つあります」
「何でしょう」
「主様の家名です」
アルトは一瞬、動きを止めた。
「……黒瀬、ですか」
「この世界では馴染みのない響きです。異国名として押し通すことは可能でしょうが、貴族社会では確実に噂になります」
「すでに噂だらけでは?」
「増えます」
「困りましたね」
困ったと言いつつ、声はあまり困っていなかった。
セラフィスは淡々と選択肢を並べる。
「一つ、黒瀬の名をそのまま使う。ルナ様はルナ・クロセとなります」
「発音しにくそうですね」
「二つ、王国風の家名を新たに登録する」
「それは少し作為的です」
「三つ、養子縁組そのものは王家記録上で行い、学院内ではルナの名をそのままにする」
「彼女は苗字なしを気にしていました」
「ええ。ですので、本人に選ばせるのがよろしいかと」
アルトは頷いた。
「そうしましょう」
ヴァルクが言う。
「名は大事だ」
「ええ」
アルトは静かに答えた。
「彼女自身が選ぶべきです」
かつてルナは、自分の名前さえ奪われかけた少女だった。
ならば今度は、自分で選ばなければならない。
何と名乗るか。
誰の家族として生きるか。
それを大人たちが勝手に決めてはいけない。
⸻
話は、王家との会談へ移った。
セラフィスが簡潔に整理する。
「まず、王へ伝えるべき事項は三つ」
彼は指を一本立てた。
「第一に、ルナ様が主様の養子となる意思を示したこと」
二本目。
「第二に、王家の保護は受け入れる余地があるが、ルナ様の自由な学院生活を最優先とすること」
三本目。
「第三に、貴族や他国勢力からの干渉について、王国側にも抑止責任を求めること」
「よくまとまっています」
「執事ですので」
「参謀では?」
「兼任しております」
アルトは苦笑した。
「それと、王には一つ確認したいことがあります」
「何をでしょう」
「帝国です」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
ルナの血筋。
帝国王族の血。
まだ学院内では知られていない。
だが、永遠に隠し通せるとは限らない。
むしろ、ルナの才能が広がるほど、彼女の出自を探る者は必ず現れる。
「王国は、どこまで把握していると思いますか」
セラフィスは考える。
「完全には把握していないでしょう。ただし、疑いは持っているはずです」
「王は賢い」
「ええ。ルナ様の容貌、魔力量、年齢、帝国との過去の混乱。材料は揃っています」
「ならば、先に話すべきでしょうか」
セラフィスは珍しく即答しなかった。
少しだけ沈黙し、それから言う。
「危険です。しかし、有効でもあります」
「理由は」
「こちらから話せば、信頼の材料になります。王国が味方であるなら、帝国からの干渉に対し、先んじて備えられる」
「逆に」
「王国がルナ様を政治利用しようと考えれば、情報を与えることになります」
ヴァルクが低く言った。
「王を見れば分かる」
「ええ」
アルトは頷く。
「会って判断します」
謁見の間で見た国王アルディオン。
愚かな王子の暴走に対し、即座に頭を下げた男。
王としての面子より国を選べる人物。
少なくとも、愚かではない。
だが善人であることと、政治家であることは両立する。
彼は国を守るためなら、必要な手を打つだろう。
そこを見誤ってはならない。
⸻
夜がさらに深まる。
魔導灯の光が少し弱くなり、部屋の陰影が濃くなる。
セラフィスはふと、二階の方を見た。
「お嬢様は、明日も学院ですね」
「ええ」
「今日、友人ができたと嬉しそうでした」
「はい」
「その直後に、家族になりたいと泣かれた」
セラフィスの声は静かだった。
「成長とは、不思議なものですね」
アルトは少し目を伏せる。
確かにそうだった。
ルナは一日の中で、友人を得て、家族を望んだ。
外へ広がりながら、帰る場所を求めた。
それは矛盾ではない。
むしろ自然なことだった。
外の世界へ歩くためには、帰る場所が必要なのだ。
「私たちは」
アルトは言った。
「彼女の帰る場所でいなければなりません」
「はい」
「何があっても」
「もちろんです」
ヴァルクが短く続ける。
「守る」
それは誓いではなく、事実のような言葉だった。
⸻
会議が終わったのは、夜半を過ぎてからだった。
セラフィスは王家への返書を作成し、翌朝届ける手配を整えた。
ヴァルクは屋敷外周の見回りへ出た。
アルトは一人、廊下を歩く。
ルナの部屋の前で足を止めた。
中は静かだった。
寝息すら聞こえないほど、穏やかな眠り。
アルトは扉に手を触れない。
ただ、その前に立つ。
少し前まで、彼は一人で生きていた。
一人で生きられると思っていた。
人との関わりは、煩わしく、非合理で、時に傷を生むだけのものだと。
だが今、扉一枚向こうで眠る少女の未来を考えている。
王と話すことを考え、家名を考え、学院生活を考え、友人関係を考えている。
自分でも可笑しくなるほど、遠くまで来ていた。
「……家族、ですか」
小さく呟く。
その言葉はまだ、少し照れくさい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ胸の奥に、静かな温かさを灯す。
ルナが望んだ。
ならば応えたい。
それだけで十分だった。
⸻
翌朝になれば、また物語は動く。
王家との会談。
養子縁組。
学院内の視線。
貴族社会の反応。
帝国の影。
問題は山ほどある。
だが今夜だけは、屋敷は静かだった。
少女は眠り、家族になろうとする者たちは、その眠りを守るために言葉を交わした。
それは剣を抜く戦いではない。
魔法を放つ戦いでもない。
けれど確かに、ルナの未来を守るための最初の会議だった。
アルトは最後にもう一度、扉の向こうへ静かに言った。
「おやすみなさい、ルナ」
返事はない。
だが、それでよかった。
眠っているのなら、それでいい。
安心して眠れる夜がある。
その事実こそが、今のルナにとって何より大切なものだった。
アルトは静かに踵を返した。
王都の夜はまだ深い。
けれど、東の空の向こうでは、次の朝が少しずつ近づいていた。




