第十話 小さな笑顔
朝のSクラスは、相変わらず少しだけ冷たかった。
けれどルナは、その冷たさの中に、昨日とは違うものを見つけられるようになっていた。
誰かの視線。
誰かの囁き。
距離を取る足音。
それらはまだ胸に刺さる。
それでも、すべてが敵意ではないと知った。
リリアーナは友人だと言ってくれた。
ミーナは笑いながら手を引いてくれた。
アルトは、自分が自分であることを謝らなくていいと言ってくれた。
だから今日、ルナはほんの少しだけ前を向いていた。
⸻
昼休み。
食堂は多くの生徒で賑わっていた。
貴族子女たちは自然と奥の明るい席へ集まり、騎士家の少年たちは大皿の肉料理を囲み、商家出身の生徒たちは値段と量を比べながら賑やかに笑っている。
ルナは盆を持ったまま、少し立ち止まった。
どこへ座ればいいのか、まだ分からない。
リリアーナは今日は王族関係の用事で昼休みの途中まで不在だと言っていた。
ミーナは商業区画にはいるかもしれないが、毎日会えるわけではない。
つまり今日は、自分で選ばなければならない。
誰の隣に座るか。
誰に声をかけるか。
そんな些細なことが、ルナには戦いのように感じられた。
その時、食堂の隅で一人の少女が本を開いているのが見えた。
栗色の短い髪。
丸い眼鏡。
小柄で、少し地味な印象の少女。
制服の仕立ては上等ではあるが、貴族の華やかさとは違う。机の上には食事の皿と、魔法薬草学の入門書が置かれていた。
ルナはその本に目を止めた。
昨日、図書塔で借りようか迷った本だった。
胸の奥で、小さな勇気が灯る。
――挨拶から。
アルトの声を思い出す。
ルナはゆっくり近づいた。
「あの……」
少女が顔を上げる。
驚いたように目を瞬かせた。
「はい?」
「その本、面白い?」
自分でも、少し唐突だと思った。
けれど少女は、怯えるでも笑うでもなく、本の表紙を見てから答えた。
「うん。薬草の効能が分かりやすくまとまってるの。絵も多いし」
「私も、昨日それ借りようか迷った」
「そうなの?」
「うん」
沈黙が落ちた。
ルナは焦る。
次に何を言えばいいのか分からない。
しかし少女は、少しだけ椅子を引いた。
「……座る?」
その一言に、ルナの胸がぱっと温かくなった。
「いいの?」
「もちろん。席、空いてるし」
「ありがとう」
ルナは向かいに座った。
少女は少し緊張したように背筋を伸ばす。
「私はエマ。Bクラスなの。商人の家の出身」
「私はルナ。Sクラス」
「知ってる。全属性の子でしょ?」
言われた瞬間、ルナの肩が少し強張った。
エマはそれに気づき、慌てて手を振る。
「あ、ごめん。悪い意味じゃないの。ただ、すごいなって」
「……怖くない?」
「怖い?」
エマは不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
「みんな、少し距離を取るから」
「ああ……それはたぶん、どう話しかければいいか分からないんだと思う」
エマは苦笑した。
「私も今、ちょっと緊張してる」
「そうなの?」
「うん。だって主席合格の人が、急に薬草の本について聞いてきたから」
その言い方が可笑しくて、ルナは思わず笑った。
エマも笑った。
ぎこちないけれど、柔らかい笑いだった。
⸻
二人は食事をしながら、少しずつ話した。
エマの家は王都で薬草や香草を扱う小さな商会を営んでいること。
彼女自身は魔法薬学に興味があり、将来は治療薬を作る仕事をしたいこと。
貴族が多い学院では少し肩身が狭いこと。
それでも、学べることが楽しくて仕方ないこと。
「ルナは、何が好き?」
そう聞かれて、ルナは少し考えた。
「本を読むこと。魔法を考えること。あと……パン」
「パン?」
「市場に友達がいて、その子の家のパンがおいしい」
「いいなあ。私も行ってみたい」
「今度、一緒に行く?」
口にしてから、ルナは驚いた。
自分から誘った。
誰かを。
エマも少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「行きたい」
その返事が嬉しくて、ルナは胸の奥がふわりと軽くなった。
会話はその後も続いた。
好きな授業。
苦手な先生。
食堂で一番おいしい甘味。
図書塔の上階にあるという噂の禁書棚。
話題は特別なものではなかった。
けれどルナには、その全部が新鮮だった。
普通の少女たちがするような、取り留めのない会話。
意味がなくても楽しい話。
答えを出す必要のない時間。
それは、ルナがずっと知らなかったものだった。
⸻
昼休みが終わる頃、エマは本を抱えて立ち上がった。
「また話してもいい?」
ルナはすぐには答えられなかった。
喉の奥が少し詰まったからだ。
けれど、今度はちゃんと言えた。
「うん。私も、話したい」
エマは嬉しそうに笑った。
その笑顔につられて、ルナも笑う。
食堂の窓から入る光が、二人の間に落ちていた。
遠くから見れば、それは何でもない光景だった。
学生が昼食を共にし、笑っている。
それだけ。
けれどルナにとっては、世界がまた少し広がった瞬間だった。
⸻
放課後、ルナはいつもより早足で校門へ向かった。
今日のことを話したかった。
アルトに。
セラフィスに。
ヴァルクに。
門の外には、いつものように三人が待っていた。
アルトは彼女を見るなり、わずかに目を細めた。
「今日は良いことがありましたね」
「なんで分かるの?」
「顔に書いてあります」
「みんなそれ言う……」
ルナは少し頬を膨らませたが、すぐに笑った。
「友達ができた」
セラフィスの表情が柔らかくなる。
「それは素晴らしいですね」
「エマっていう子。Bクラスで、薬草が好きで、今度ミーナのパン屋に一緒に行く」
「予定まで決まっているとは」
「私が誘った」
その言葉に、アルトは静かに頷いた。
「よくできました」
「子ども扱いしてる」
「褒めています」
ヴァルクが短く言った。
「前進だ」
「うん」
ルナは素直に頷いた。
前進。
その言葉が、今日の自分には少し似合う気がした。
⸻
その夜。
屋敷の食堂には、いつもより穏やかな空気が流れていた。
セラフィスの料理は相変わらず美しく、温かなスープからは香草の香りが立っていた。
ルナは食事中も、今日の出来事を少しずつ話した。
エマが薬草に詳しいこと。
食堂の蜂蜜菓子が人気なこと。
Bクラスにも平民や商家出身の生徒がいること。
今度、ミーナのパン屋へ一緒に行く約束をしたこと。
話すたびに、ルナの表情は明るくなる。
その笑顔を見ながら、アルトは静かに紅茶を口へ運んだ。
少女らしい笑顔。
以前はほとんど見られなかったもの。
怯えや遠慮ではなく、ただ嬉しいから浮かぶ笑み。
それが増えている。
それだけで、この国に来た意味はあったのかもしれない。
⸻
夕食後。
セラフィスが食後の茶を用意し、ヴァルクが珍しく席についた。
ルナはその空気が少し違うことに気づいた。
「……何か話?」
アルトは頷く。
「ええ。少し大切な話です」
ルナは姿勢を正した。
胸の中に、少し緊張が戻る。
「学院での生活について。それから、あなたの身分のことです」
身分。
その言葉に、ルナの指がわずかに動いた。
セシリアに言われた言葉が蘇る。
身分違い。
苗字も家名も持たない者。
アルトはその反応を見逃さなかった。
「不安にさせたいわけではありません」
「うん」
「ですが、あなたがこのまま学院で学び続けるなら、家名や後ろ盾の問題は避けて通れません」
セラフィスが静かに続ける。
「王家からも支援の申し出があります。特別奨学生として保護する形も可能でしょう」
「王家……」
「ただし、それとは別に」
アルトは少し間を置いた。
「あなたが望むなら、私の養子になるという選択肢もあります」
空気が止まった。
ルナは目を見開く。
養子。
意味は分かる。
けれどすぐには心が追いつかなかった。
「……アルトの?」
「ええ」
「家族に、なるってこと?」
「形式上はそうです」
アルトは静かに言う。
「もちろん、形式だけではありません。あなたが望むなら、私はそうしたいと思っています」
ルナは黙った。
胸の中で、いくつもの感情が重なった。
驚き。
戸惑い。
嬉しさ。
怖さ。
こんなことを望んでいいのかという不安。
自分には家族などいないと思っていた。
失ったものだと思っていた。
手に入れてはいけないものだと思っていた。
けれど、本当は。
本当は、ずっと考えていた。
この屋敷に帰ってくるたび。
食卓でアルトの向かいに座るたび。
セラフィスに髪を整えられるたび。
ヴァルクが無言で荷物を持ってくれるたび。
自分は、この人たちと何なのだろう、と。
保護された子。
弟子。
同行者。
それだけでは足りない気がしていた。
もっと近い言葉を、心は探していた。
「……私」
声が震えた。
アルトは急かさなかった。
セラフィスも、ヴァルクも黙っている。
ルナは膝の上で手を握りしめた。
「前から、考えてた」
小さな声だった。
「この家にいるのが好き。ご飯を一緒に食べるのも、朝にいってきますって言うのも、夜におかえりって言ってもらうのも……全部、好き」
言葉にすると、涙が出そうになった。
「でも、名前をつけたら、壊れる気がしてた」
「壊れません」
アルトの声は静かだった。
「本当に?」
「ええ」
「私が家族になりたいって言っても?」
「もちろんです」
その瞬間、ルナの瞳から涙がこぼれた。
ぽろりと落ちて、膝の上に滲む。
「……なりたい」
絞り出すような声だった。
「アルトと、セラフィスと、ヴァルクと……家族として、一緒にいたい」
セラフィスが目を伏せた。
いつもの完璧な微笑みは少しだけ崩れていた。
「光栄です、ルナ様」
ヴァルクは短く言った。
「当然だ」
その不器用な言葉に、ルナは泣きながら笑った。
アルトは席を立ち、ルナの前に来る。
彼女の目線に合わせて膝をついた。
「では、これから手続きを進めましょう」
「うん」
「ただし、これは身分を得るためだけのものではありません」
「……うん」
「あなたが帰る場所を、きちんと言葉にするためのものです」
ルナはもう一度泣いた。
今度は悲しいからではなかった。
長い間、胸の奥で凍っていた何かが、ようやく溶けたようだった。
⸻
その夜、ルナは自室で机に向かった。
ノートを開く。
昨日までの文字がある。
――セシリア。
――あいさつする。
――こわがられても、やめない。
その下に、今日は新しい言葉を書いた。
――家族になる。
書いた瞬間、胸が温かくなった。
まだ手続きはこれからだ。
学院での問題がすべて解決するわけでもない。
セシリアとの距離も、噂も、視線も、明日になればまたあるだろう。
それでもルナは、もう昨日の自分とは違っていた。
友達ができた。
自分から話しかけられた。
そして、家族になりたいと言えた。
窓の外には、王都の灯りが静かに揺れている。
この街はまだ大きく、知らないことばかりで、時々怖い。
けれど帰る場所がある。
ただいまと言える場所がある。
おかえりと返してくれる人たちがいる。
ルナはノートを閉じ、そっと胸に抱いた。
少女の笑顔は、今日また少し増えた。
それは世界を変えるほど大きな出来事ではない。
けれど、一人の少女の世界を確かに明るくする、小さな奇跡だった。




