第八話 王女の誘い
王城に、報告書が届いたのは夜明け前だった。
まだ王都の空が藍色を残し、街路の魔導灯が眠たげに揺れている時刻。白亜の王城だけは、すでに静かな緊張の中にあった。
王立学院からの緊急報告。
それは一通の薄い封書に過ぎなかったが、王国中枢を震わせるには十分だった。
国王アルディオンは、執務室の灯を落とさぬまま、その報告書を読み終えた。
長い沈黙。
窓の外で朝の鳥が鳴く。
けれど室内にいる誰も、その声を聞いてはいなかった。
「……全属性適性」
王の声は低かった。
「さらに、測定水晶の限界域を越える魔力量」
報告書を机へ置く。
その紙一枚が、鉛のように重く見えた。
傍らに控えていた宰相、軍務卿、宮廷魔導長、王妃セレナ、第一王女フィリアが、沈黙のまま王を見つめている。
最初に口を開いたのは、宮廷魔導長だった。
老齢の魔導士で、長い白髭を撫でながら、震える声で言う。
「陛下。学院の測定器が正常であったならば、これは……王国史上でも例がございません」
「故障の可能性は」
「報告書によれば、ミレディア教員とオルガン教員が確認済み。測定器に破損はなし。ただし魔力量反応が危険域に達したため、再測定は見送ったと」
宰相が眉間を押さえた。
「龍を討つ保護者に、全属性適性の少女。……まるで神話の登場人物ですな」
フィリアが静かに笑った。
「神話ならまだ扱いやすいわ。紙の中に閉じておけますもの」
その言葉に誰も笑わなかった。
王は椅子へ深く腰掛け、指を組む。
「問題は二つある」
全員の視線が集まる。
「一つ。ルナという少女が、王国にとって極めて重要な才能であること」
「はい」
「二つ。彼女の後ろには、アルトがいること」
その名前が出た瞬間、空気がさらに重くなった。
黒髪の青年。
古龍を斬り、S級冒険者を圧倒し、謁見の間で王家を震わせた男。
彼が敵ではないことは幸運だった。
だが味方であるとも、まだ言い切れない。
何より彼は、国に縛られていない。
爵位も持たず、領地も持たず、王国への忠誠を誓ってもいない。
ただ、ルナを守るためにこの国にいる。
それはつまり――ルナがこの国から離れるなら、彼もまた離れるということだった。
「陛下」
宰相が慎重に言った。
「彼らをこの国に留めるため、爵位を与えるという案もございます」
「軽い爵位で縛れる男ではない」
王は即座に返した。
「むしろ侮辱と受け取られれば逆効果だ」
軍務卿が低く唸る。
「では軍顧問として?」
「軍に属す男でもない」
フィリアが口を挟む。
「彼を役職で縛ろうとする発想そのものが危険です。あの方は、権威で動く種類ではありません」
王妃セレナも静かに頷いた。
「アルト様が大切にしているのは、ルナさんの平穏でしょう。ならば、こちらが守るべきは彼女の生活です」
「学院生活の保障か」
「ええ」
王妃の声は穏やかだったが、明確だった。
「彼女がこの国で安心して学べるなら、アルト様もこの国に留まる理由を持ちます」
フィリアが続ける。
「ルナの身分問題もあります」
王は目を細めた。
「例の伯爵令嬢の件か」
「すでに学院内で、家名がないことを理由に軽んじる空気があるようです」
宰相が苦々しい顔になる。
「愚かな。能力を見れば明らかでしょうに」
「人は明らかなものほど、認めたがらない時があります」
フィリアは淡々と言った。
「特に、自分の優位を脅かす相手には」
王はしばらく黙った。
やがて、静かに命じる。
「王家として、ルナを特別奨学生として正式に保護する」
重臣たちが顔を上げた。
「学院生活に必要な費用、教材、寮、身辺警護。すべて王家が後ろ盾となる。ただし、過剰に干渉するな。本人の生活を壊してはならぬ」
「承知しました」
「さらに、アルトには礼を尽くす。招待状を出せ。相談という形でな」
フィリアが少し笑う。
「相談、ですか」
「頼みごとではない。命令でもない。相談だ」
王は窓の外を見た。
朝日が王都の屋根を照らし始めている。
「あの男をこの国に留めたいなら、まず我らが信頼に足る国であると示すしかない」
王妃セレナが柔らかく言った。
「それが一番、遠回りで確かな道ですね」
「そうだ」
王は深く息を吐いた。
「竜を飼うのではない。森の王に、ここも悪くないと思ってもらうのだ」
その比喩に、室内の者たちは沈黙した。
誰も否定しなかった。
それほどまでに、アルトという存在は常識の外にいた。
⸻
その日の学院は、昨日とはまた違うざわめきに包まれていた。
全属性適性。
その噂は、一晩で校内を駆け巡った。
誰が広めたのかは分からない。
だが学院という場所において、才能の噂ほど早く広がるものはない。
「水晶が七色に光ったらしい」
「全属性なんてあり得るのか?」
「主席合格は伊達じゃないってこと?」
「でも、怖いよね」
好奇と畏れ。
称賛と拒絶。
それらが混ざった視線を、ルナは朝から浴びていた。
教室へ入れば、昨日よりも少し静かになる。
廊下を歩けば、囁きが追いかけてくる。
近づく者は少なく、遠巻きに見る者は増えた。
ルナはそのすべてを感じながら、自分の席へ向かった。
机の上に手を置く。
昨日の夜、ノートに書いた言葉を思い出す。
――こわがられても、やめない。
彼女は小さく息を吸った。
そして、前方に座るセシリアへ向かって言った。
「おはよう、セシリア」
教室が止まった。
セシリアも一瞬だけ動きを止めた。
金色の髪が朝日に淡く光る。
彼女はゆっくり振り返る。
その瞳には、昨日よりも複雑な色があった。
悔しさ。
警戒。
そして、ほんの少しの戸惑い。
「……おはようございます」
返事は冷たかった。
けれど返ってきた。
ルナはそれだけで、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
仲良くなったわけではない。
何かが解決したわけでもない。
でも、一歩だけ進んだ。
たぶん、それでいい。
⸻
午前の授業が終わる頃、リリアーナが楽しそうにルナの席へやって来た。
「ルナさん」
「なに?」
「本日は私が学院をご案内いたします」
「案内?」
「ええ。昨日までのあなたは、教室と実技場と中庭しか知らないでしょう?」
「……たしかに」
「それでは学院生活の半分を損しています」
リリアーナは胸を張った。
「王立学院には、学び以外にも素晴らしい場所がたくさんありますの」
その声音は、王女というより、宝物を自慢したい少女そのものだった。
「でも、リリアーナは忙しいんじゃ」
「忙しいですわ」
「じゃあ……」
「でも、友人を案内する時間くらい作れます」
友人。
その言葉に、ルナは少しだけ目を見開いた。
ミーナに続いて、また一人。
自分をそう呼んでくれる人がいる。
それが不思議で、少しくすぐったかった。
「……ありがとう」
「では参りましょう」
⸻
最初に向かったのは、学院図書塔だった。
本館の北東に建つ高い塔で、赤茶色の屋根と白い壁が美しい。中へ入ると、天井まで届く本棚が円形に並び、中央には螺旋階段が上へ伸びていた。
古い紙の匂い。
革表紙の匂い。
静かな魔導灯の光。
ルナは思わず息を呑む。
「……すごい」
「でしょう?」
リリアーナが得意げに微笑む。
「ここには王国建国以前の古文書から、最新の魔法理論書まで揃っています」
「全部読めるの?」
「許可階層によりますわ。Sクラスなら三階までは自由です」
「三階まで……」
見上げると、本棚はまだまだ上まで続いている。
ルナの目が輝いた。
リリアーナはそれに気づき、くすりと笑う。
「あなた、本が好きなのですね」
「うん。知らないことが書いてあるから」
「素敵な理由ですわ」
ルナは棚へ近づき、一冊の魔法理論書へ手を伸ばしかけた。
だが途中で止まる。
「借り方、分からない」
「ではそこから教えます」
リリアーナは嬉しそうに受付へ案内した。
⸻
次は温室だった。
学院の南庭にあるガラス張りの建物で、内部には世界各地の植物が育てられている。
青い葉を持つ薬草。
夜に光る花。
触れると縮む蔓。
甘い香りを放つ白い実。
ルナは一つ一つに驚いた。
「これ、食べられる?」
「それは眠ります」
「こっちは?」
「それは三日ほど手が青くなります」
「危ないもの多くない?」
「植物学とはそういうものです」
リリアーナは真顔で言った。
ルナは思わず笑う。
その笑い声は、温室のガラスに柔らかく響いた。
近くで作業していた園芸担当の教師が、少し驚いたように振り返る。
昨日、全属性適性で学院を騒がせた少女。
その少女が、普通の学生のように花を見て笑っている。
その光景は、噂だけを聞いていた者には意外だった。
⸻
その後、リリアーナは食堂、購買、練習場、礼法室、音楽室、屋上庭園まで案内してくれた。
食堂では名物の蜂蜜パンを半分こした。
購買では羽根ペンの種類が多すぎてルナが迷った。
練習場では上級生たちの剣術訓練を遠くから眺めた。
音楽室では誰もいないのを確認して、リリアーナが少しだけ竪琴を弾いた。
音は柔らかく、風のようだった。
「上手……」
「王族の嗜みです」
「すごい」
「ですが練習は嫌いです」
「言っていいの?」
「あなたにだけ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
それは秘密を分け合うような笑いだった。
⸻
屋上庭園へ着いた時、空は淡く晴れていた。
学院の屋上に設けられた小さな庭園からは、王都の街並みが一望できる。
赤い屋根。
白い塔。
遠くの王城。
街路を行き交う馬車。
ルナは手すりにそっと触れ、景色を見下ろした。
「こんな場所があったんだ」
「お気に入りです」
リリアーナが隣に立つ。
「嫌なことがあった時、ここへ来ます」
「王女でも、嫌なことあるの?」
「もちろんありますわ」
リリアーナは笑った。
「王女だからこそ、あります」
ルナは少し考える。
「リリアーナは、すごく明るいから」
「明るい人が、悩まないわけではありません」
「……そっか」
「ええ」
風が二人の髪を揺らした。
リリアーナは王都を見ながら、静かに言う。
「あなたは今、目立っています。驚かれ、恐れられ、妬まれるでしょう」
ルナは黙る。
「でも、それだけではありません」
「……?」
「あなたを知りたいと思う人もいます。あなたと友達になりたい人も。力ではなく、あなた自身を見たい人も」
リリアーナは振り向いた。
「少なくとも私は、そうです」
ルナの胸が、じんわりと温かくなった。
昨日の冷たい視線。
今日の囁き。
それらで縮こまっていた心が、少しずつほどけていく。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
でもリリアーナは満足そうに微笑んだ。
「どういたしまして」
⸻
放課後。
ルナはいつもより少し軽い足取りで校門へ向かった。
門の外にはアルトがいる。
セラフィスも、ヴァルクも。
その姿を見つけると、胸に安心が戻る。
「おかえりなさい」
アルトが言う。
「ただいま」
今日の返事は、昨日より少し明るかった。
セラフィスがすぐに気づく。
「本日は良いことがあったようですね」
「うん」
ルナは少し誇らしげに言った。
「リリアーナが学院を案内してくれた」
「それは良かった」
「図書塔がすごかった。あと温室も。屋上庭園もあった」
「楽しそうですね」
「楽しかった」
その言葉は、自然に出た。
言ってから、ルナ自身が少し驚いた。
学院が楽しかった。
昨日まで怖くて、痛くて、難しかった場所。
それでも今日は、楽しかった。
アルトはその言葉を聞いて、静かに笑った。
「そうですか」
それだけだった。
だがその一言の中に、深い安堵があった。
セラフィスは少し目を伏せる。
「本日の夕食は少し豪華にしましょう」
「なんで?」
「良い一日を祝うためです」
ヴァルクが短く言う。
「肉だな」
「あなたの希望では?」
「祝いだ」
ルナは笑った。
夕暮れの道に、少女の笑い声が小さく響く。
⸻
その夜。
王城では、国王アルディオンがリリアーナからの短い報告を受け取っていた。
内容は簡潔だった。
――ルナは、笑いました。
王はその一文を見て、静かに目を細めた。
「そうか」
傍らの王妃セレナが微笑む。
「よい報告ですね」
「ああ」
王は報告書を閉じる。
「才能を留めるには、鎖ではなく居場所が要る」
そして窓の外、学院の方角を見る。
「まずは、一つ」
王国中枢は、アルトを留める策を巡らせていた。
だがその一方で、もっと単純で、もっと大切なものが芽生え始めていた。
ルナがこの国で笑えること。
それこそが、どんな政治よりも強い理由になるのかもしれなかった。




