第七話 全属性適性
夜の屋敷は、静かだった。
王都の西区画に建つその屋敷は、昼間こそ柔らかな陽光と庭の緑に包まれているが、夜になると少しだけ別の顔を見せる。
窓の外には、遠く王都の灯りが星のように滲んでいた。
大通りの喧騒はここまでは届かず、ただ時折、風に揺れる木々の葉擦れだけが聞こえる。
ルナは夕食を終えると、いつもより早く自室へ戻った。
明日の授業の準備をする、と言っていた。
その声は平静だった。
だが、アルトには分かっていた。
平静に見せようとしているだけだと。
扉が閉まる音を聞いた後、食堂には三人だけが残った。
アルト。
セラフィス。
ヴァルク。
食卓には、まだ温かな紅茶が置かれている。
セラフィスは静かにカップを整えながら、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
ただし、その瞳は冷たかった。
「主様」
最初に口を開いたのはセラフィスだった。
「本日の件ですが」
「ええ」
アルトは紅茶へ視線を落としたまま頷く。
「避けて通れませんね」
ヴァルクは壁際に立っていた。
いつものように無言だったが、空気は重い。
怒っている。
彼は怒りを言葉にしない。
だからこそ、周囲の空気が剣の刃のように冷える。
「身分違い、ですか」
セラフィスがその言葉を繰り返す。
丁寧な声音だった。
だが、食器がかすかに鳴った。
「実にくだらない言葉です」
「くだらない、で済めばいいのですが」
アルトは静かに答えた。
「この国では、そうではないのでしょう」
「ええ。貴族社会において家名とは盾であり、剣であり、檻でもあります」
セラフィスは椅子の背に手を置く。
「ルナ様には、その盾がありません」
「盾がないから、言葉が直接届く」
「はい」
沈黙。
ルナが傷ついたことは明らかだった。
しかし問題は、それだけではない。
学院は社会の縮図だ。
そこには学力や才能だけでは届かない力がある。
家柄。
血筋。
後ろ盾。
名前。
ルナは能力だけなら誰にも劣らない。
だが、社会は能力だけで人を守ってはくれない。
「……養子」
低く、ヴァルクが言った。
短い一言に、アルトとセラフィスの視線が向く。
ヴァルクは腕を組んだまま続けた。
「家名が要るなら、与えればいい」
セラフィスはわずかに目を細める。
「考えていなかったわけではありません」
「私もです」
アルトは紅茶を置いた。
陶器の底が、静かに皿へ触れる。
「ルナが望むなら、養子にすることはできるでしょう」
「問題は、主様がこの国の貴族ではないことです」
「貴族でなくても、後見人としての登録は可能では?」
「可能です。ただし、正式に家名を与えるとなると少々複雑になります」
セラフィスは淡々と説明する。
「王家の承認を受け、後見人としての社会的地位を明確にし、必要であれば爵位または準貴族待遇を得る。通常なら長い手続きが必要ですが……」
「国王なら通すでしょうね」
「むしろ向こうから提案してくる可能性すらあります」
そこまで言って、セラフィスはわずかに苦笑した。
「王家としても、ルナ様を無防備なまま学院に置くより、名目上でも確かな後ろ盾を与えた方が都合がよい」
「都合、ですか」
「政治とはそういうものです」
アルトは黙る。
養子。
その言葉は、軽く扱えるものではなかった。
ルナを守るためなら、手段としては有効だ。
だが、それは同時に彼女の人生へ一つの名前を刻むことでもある。
黒瀬ルナ。
あるいは、この世界に合わせた別の家名。
それが彼女にとって救いになるのか。
それとも、新しい鎖になるのか。
「主様」
セラフィスが静かに言う。
「ルナ様は、家名を持たぬことで傷つきました」
「ええ」
「しかし、家名を与えることで全てが解決するわけではありません」
「分かっています」
アルトの声は低かった。
「名を与えるのは簡単です。ですが、それで彼女が“自分は借り物の名で立っている”と思うなら、意味がない」
ヴァルクが頷く。
「聞くべきだ」
「ええ」
アルトはゆっくり息を吐いた。
「ルナが望むなら、私は家名でも立場でも用意します。ですが望まないなら、無理に与えない」
「では、まずは様子見ですか」
「いえ」
アルトは首を横に振った。
「近いうちに話します。彼女が落ち着いている時に」
セラフィスは一礼した。
「承知しました」
その時、二階から小さな足音が聞こえた。
三人は同時に黙る。
階段を下りてくる音ではない。
部屋の中を歩く音。
やがて止まり、また少し動く。
眠れずにいるのだろう。
アルトは少しだけ目を伏せた。
「……強い子です」
セラフィスが言った。
「しかし、強い子ほど、折れるまで我慢します」
「分かっています」
ヴァルクが短く言う。
「見ておく」
「頼みます」
アルトは窓の外を見た。
王都の灯りは美しい。
だが、その光の中にも影はある。
学院という新しい世界で、ルナはその影にも触れていくのだろう。
守りたい。
けれど、守りすぎてはいけない。
その境界線は、剣よりも魔法よりも難しかった。
⸻
翌朝。
ルナはいつも通り起きてきた。
少し眠そうだったが、制服はきちんと整っている。
セラフィスが襟元を確認し、ヴァルクが無言で頷き、アルトが「いってらっしゃい」と告げる。
ただ、それだけ。
昨夜の話はしなかった。
ルナも何も言わなかった。
ただ玄関を出る前、彼女は一度だけ振り返った。
「……今日、実技がある」
「魔法ですか」
「うん」
小さく頷く。
「少し、怖い」
「怖くても構いません」
アルトは言った。
「暴れないようにすれば大丈夫です」
「そこ?」
「そこです」
ルナは一瞬きょとんとして、それから少し笑った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
その背中は、昨日よりほんの少しだけ真っ直ぐだった。
⸻
王立学院の実技場は、本館の北側にあった。
半円形の観覧席に囲まれた広い砂地。
周囲には魔法障壁用の石柱が並び、中央には測定水晶が据えられている。
水晶は大人の頭ほどの大きさで、透明な内部に淡い光を宿していた。
魔力を流すと、その属性や濃度、安定度を測定する魔道具である。
この日の授業は、魔法実技の基礎確認だった。
Sクラスの生徒たちは、実技場に整列していた。
教師は二人。
一人は担任のミレディア。
もう一人は魔法実技主任の老教師、オルガン。
白い髭を蓄えた小柄な老人だが、学院では長く実技を見てきた名物教師らしい。
「さて、諸君」
オルガンが杖をつきながら前へ出た。
「今日は属性適性を測る。すでに入学試験で測定した者もいるが、学院正式記録として改めて確認する」
生徒たちの間にざわめきが生まれる。
属性適性。
魔法を扱う者にとって、才能を示す最初の指標。
火、水、風、土、雷、光、闇。
一般には一属性が主適性。
二属性あれば優秀。
三属性なら天才。
四属性以上は歴史に名が残ることもある。
「測定は順番に行う。水晶へ手を置き、魔力を流せ。無理に強く流す必要はない。適性は量ではなく反応で見る」
そう説明され、生徒たちは一人ずつ前へ進んだ。
最初の男子生徒。
水晶が赤く光る。
「火属性、強適性。風属性、微適性」
周囲から感嘆の声。
次の令嬢。
青と白の光。
「水属性、強適性。光属性、中適性」
彼女は誇らしげに微笑む。
Sクラスらしく、どの生徒も優秀だった。
一属性だけの者は少ない。
ほとんどが二属性以上。
三属性持ちが出ると、観覧席にいた補助教師たちが記録用紙へ慌ただしく書き込んだ。
ルナは列の中でそれを見ていた。
手のひらが少し汗ばむ。
自分の適性は、アルトたちから大まかには聞いている。
だが、学院の正式な場で測るのは初めてだった。
昨日のセシリアの言葉が、まだ胸に残っている。
目立ちたくない。
でも、隠していいのかも分からない。
アルトなら何と言うだろう。
たぶん、こう言う。
必要以上に誇る必要はありません。
でも、あなたの力を恥じる必要もありません。
「次、セシリア」
その名が呼ばれ、ルナは顔を上げた。
セシリアが前へ出る。
金色の髪が陽を受けて輝き、所作は相変わらず美しかった。
彼女は水晶へ手を置く。
静かに魔力を流した瞬間、水晶が強く光った。
赤。
青。
白。
さらに、淡い紫。
実技場がざわめく。
「火属性、強適性。水属性、強適性。光属性、中適性。雷属性、微適性」
オルガンの目が細くなる。
「見事。四属性反応だ。さすが伯爵家の才女よ」
生徒たちから感嘆の声が上がる。
セシリアは一礼した。
その横顔には、当然という誇りと、少しの安堵があった。
彼女は席へ戻る途中、ほんの一瞬だけルナを見た。
視線が交差する。
冷たい。
だが昨日とは違う。
そこには、挑むような色があった。
ルナは小さく息を吸った。
「次、ルナ」
名前が呼ばれた瞬間、実技場の空気が変わった。
昨日の魔法理論授業を見ていた者たちは、黙って彼女を見る。
見ていなかった補助教師たちも、主席合格者の名に顔を上げた。
ルナは一歩前に出た。
砂を踏む音が、自分でも大きく聞こえる。
水晶の前に立つ。
透明な球体の中で、淡い光が揺れている。
「落ち着いて」
ミレディアが短く言った。
それは命令ではなく、助言だった。
ルナは頷き、手を置く。
冷たい。
水晶の表面は、春の朝の水のようだった。
魔力を流す。
ほんの少し。
そのつもりだった。
⸻
最初に光ったのは、赤だった。
火属性。
次に青。
水属性。
続いて緑。
風。
黄土色。
土。
紫。
雷。
白。
光。
黒に近い深い藍。
闇。
七つの色が、水晶の内部で同時に立ち上がった。
光はぶつからなかった。
濁らなかった。
それぞれが明確な色を保ったまま、円を描くように回り始める。
まるで小さな世界が、水晶の中に生まれたかのようだった。
誰も声を出さない。
砂地を撫でる風の音だけが聞こえる。
次の瞬間、水晶の光がさらに強くなった。
属性反応だけではない。
魔力量に反応している。
測定台の下部に刻まれた魔法文字が次々と発光し、記録石が震え始めた。
「止めろ!」
オルガンが叫んだ。
ルナは慌てて手を離す。
水晶の光はしばらく残り、やがてゆっくりと消えた。
静寂。
あまりにも深い静寂。
そして、遅れてざわめきが爆発した。
「全属性……?」
「嘘だろ」
「水晶の故障では?」
「七属性反応なんて、聞いたことがない」
「しかも全部、強くなかった?」
補助教師たちは完全に混乱していた。
記録用紙を持つ手が震えている。
オルガンは水晶へ駆け寄り、何度も確認した。
「破損なし……魔力焼けもない……正常反応……」
ミレディアは黙ってルナを見ていた。
その目には驚愕があった。
だが、それ以上に思考する者の光があった。
「ルナ」
「は、はい」
「今、どれほど流しましたか」
「……少し、です」
「具体的に」
「えっと……普段の練習で火球を一つ作る時より、少ないくらい」
オルガンが頭を抱えた。
「それでこれか……」
教師陣の顔色が変わっていく。
これは単なる優秀ではない。
天才という言葉でも足りない。
学院の記録に残るどころではない。
王国の魔法史そのものに関わる可能性がある。
生徒たちの視線も変わった。
驚き。
畏れ。
嫉妬。
疑念。
そして、拒絶。
セシリアは立ち尽くしていた。
美しい顔から血の気が引いている。
四属性反応。
彼女にとって、それは誇りだった。
家族から期待され、努力を重ね、ようやく示せた才能。
だが、その直後にルナは全属性を見せた。
本人に誇示する意図などなかったとしても、結果は残酷だった。
セシリアの指先が震える。
彼女は唇を噛み、視線を逸らした。
⸻
その後の授業は、半ば授業ではなくなった。
教師陣はルナの再測定を求めたが、ミレディアが止めた。
「本日はここまでにします」
「しかし、これは――」
「だからこそです。生徒の心理負担を考慮すべきです」
ミレディアの声は冷たかった。
オルガンも我に返り、頷く。
「……そうじゃな。記録は一旦保留。学院長へ報告する」
その言葉で、場は解散となった。
だが、空気は戻らない。
ルナは列へ戻ったが、周囲の生徒たちは自然と少し距離を取った。
誰も露骨には逃げない。
けれど、一歩。
たった一歩の距離が、はっきりと生まれた。
ルナはそれに気づいた。
気づいてしまった。
胸の奥に、小さな冷たいものが落ちる。
昨日よりも、今日の方が遠い。
自分は近づこうと思ったのに。
挨拶しようと思ったのに。
また、離れてしまった。
⸻
放課後。
校門の外で待つアルトは、ルナの表情を見た瞬間、何かを察した。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
「実技でしたね」
「うん」
「何がありましたか」
ルナは少し俯く。
「水晶が、光った」
「どのくらい」
「全部」
アルトは一瞬黙った。
セラフィスは隣で目を閉じた。
「そうですか」
アルトは静かに言った。
「怪我は?」
「ない」
「ならよかった」
「……よかったのかな」
ルナの声は震えていなかった。
けれど弱かった。
「みんな、びっくりしてた。先生たちも。セシリアも……」
足元を見る。
「また、遠くなった気がする」
アルトはすぐには答えなかった。
しばらく並んで歩く。
夕方の王都は、人の声と馬車の音で満ちている。
その中で、アルトの声は静かに届いた。
「才能は、時に人との距離を広げます」
「……うん」
「ですが、才能そのものが悪いわけではありません」
「でも、私が普通なら」
「それは違います」
アルトは立ち止まった。
ルナも足を止める。
「あなたがあなたであることを、謝る必要はありません」
その言葉は、昨夜のものと似ていた。
だが今のルナには、より深く響いた。
「ただし」
アルトは続ける。
「力を見た人が、すぐに理解してくれるとは限りません。驚く者もいる。恐れる者もいる。嫉妬する者もいる」
「……セシリアも?」
「おそらく」
ルナは黙った。
「では、どうしますか」
「分からない」
「ええ。分からなくていい」
アルトは少し微笑む。
「昨日、挨拶すると決めたのでしょう」
ルナは驚いて顔を上げた。
「……ノート見た?」
「見ていません」
「じゃあ、なんで」
「あなたの顔に書いてありました」
ミーナみたいなことを言う。
ルナは少しだけ笑った。
「明日も、挨拶しますか」
しばらく沈黙。
やがてルナは、小さく頷いた。
「する」
「では、それで十分です」
⸻
その夜。
学院では、測定記録が学院長室へ運ばれていた。
オルガンは興奮と疲労で顔を赤くし、ミレディアは無言で報告書を差し出す。
学院長ローゼンバルトは、老いた指で紙面をなぞった。
「全属性適性……か」
声は静かだった。
だが目は鋭い。
「しかも魔力量測定不能域」
オルガンが頷く。
「水晶が耐えられませんでした」
「ふむ」
学院長は窓の外を見た。
夜の学院。
静かな塔。
その中に、歴史を変えるかもしれない少女がいる。
「王家には?」
「まだです」
「今夜中に報告する」
ミレディアが問う。
「保護対象として、ですか」
「当然だ」
学院長は淡々と言った。
「才能は祝福であると同時に、標的にもなる」
彼は報告書を閉じた。
「ルナ。……苗字のない少女か」
小さく呟く。
「この学院は、しばらく騒がしくなるな」
⸻
同じ頃。
王都西区画の屋敷では、ルナが自室の机に向かっていた。
ノートを開く。
昨日書いた文字がある。
――セシリア。
――あいさつする。
その下に、今日新しく書き足した。
――こわがられても、やめない。
文字は少し震えていた。
けれど、消さなかった。
窓の外に、月が浮かんでいる。
明日も教室へ行く。
明日も視線はあるだろう。
冷たい言葉もあるかもしれない。
それでも、ルナはもう知っている。
逃げないことは、戦うことだけではない。
挨拶をすること。
笑ってみること。
分からない相手を、すぐ嫌いにならないこと。
それもまた、小さな勇気なのだと。
少女はペンを置き、静かに目を閉じた。
明日、もう一度。
そう思いながら。




