第六話 貴族令嬢の敵意
王立学院の朝は、美しいほどに整っていた。
白い回廊には朝日が斜めに差し込み、磨かれた石床へ金色の線を落としている。中庭の噴水は静かに水を跳ね、植え込みの花々は夜露を残したまま、陽を受けて淡く輝いていた。
そこを歩く生徒たちもまた、どこか絵画の一部のようだった。
清潔な制服。
整えられた髪。
貴族子女らしい穏やかな笑み。
優雅な挨拶。
それらは学院の朝にふさわしい光景だった。
けれどルナには、まだその美しさが少し遠かった。
自分の靴音だけが大きく聞こえる。
胸元の学院章が、妙に重く感じる。
昨日の魔法理論授業で、彼女は教師ミレディアの問いに答えた。
ただ、知っていたから答えただけだった。
アルトやセラフィスに教わったことを、言葉にしただけだった。
けれど教室の空気は、その瞬間から少し変わった。
驚き。
好奇。
そして、薄く鋭いもの。
ルナはそれが何なのか、まだうまく名前をつけられなかった。
ただ、昨日よりも少しだけ、教室の扉が重く感じられた。
Sクラスの教室へ入る。
すでに何人かの生徒が席についていた。
談笑していた声が、一瞬だけ止まる。
それから何事もなかったように戻る。
その小さな間が、ルナの胸に刺さった。
「おはようございます」
彼女は小さく挨拶した。
返ってきた声は、まばらだった。
「おはよう」
「……おはようございます」
無視ではない。
拒絶でもない。
だが、温度は低かった。
ルナは自分の席へ向かう。
窓際寄りの席。
そこへ座ろうとした時、前方から涼やかな声が響いた。
「そこが、あなたのお席なのですね」
振り向くと、一人の少女が立っていた。
金糸を思わせる淡い髪を丁寧に巻き、白い肌に薄紅色の唇。制服は同じはずなのに、彼女が着るとまるで上質な礼服のように見えた。
立ち姿ひとつに育ちが滲んでいる。
背筋は真っ直ぐ。
顎は少し高く。
視線は静かで、冷たい。
その少女の周囲には、自然と二、三人の生徒が集まっていた。
名門伯爵家令嬢、セシリア。
ルナはその名前を聞いたことがあった。
入学前から主席候補と噂され、魔法理論も礼法も剣術も優秀。貴族社会ではすでに将来を期待されている令嬢だと。
そのセシリアが、まっすぐルナを見ていた。
「……はい」
ルナは答える。
「何か、問題がありますか?」
「いいえ。問題というほどではありませんわ」
セシリアは微笑んだ。
美しい微笑みだった。
だがそこには、温かさがなかった。
「ただ、不思議に思っただけですの」
「不思議……?」
「ええ」
セシリアは教室を見渡すように視線を動かした。
「このSクラスは、王国でも選ばれた者だけが入る場所です。代々国を支える家の子女、宮廷魔導士の血筋、騎士家の跡取り、地方領主の嫡子。皆、それぞれに家名と責任を背負っています」
言葉は丁寧だった。
けれど、その一語一語は刃のようだった。
「その中に、苗字も家名も持たぬ方がいらっしゃるのですもの」
教室の空気が固まった。
数人が息を呑む。
誰かが小さく笑いを噛み殺した。
ルナは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
苗字。
家名。
それは、彼女にとって遠いものだった。
奴隷だった頃、名前すら呼ばれないことがあった。
番号で呼ばれたこともある。
“お前”と呼ばれたこともある。
だから、ルナという名をアルトたちに呼ばれるようになってから、それだけで十分だと思っていた。
けれどこの場所では、それでは足りないのだと、今突きつけられた。
「……私は」
言葉が喉に引っかかる。
何を言えばいいのか分からない。
セシリアは優雅に首を傾げた。
「誤解なさらないで。私はあなたが努力されていないと言っているのではありませんわ」
その声は、むしろ穏やかだった。
穏やかだからこそ、余計に痛かった。
「ただ、学院には学院の格があります。身分には身分の重みがあります。努力だけで踏み込んでよい場所と、そうでない場所があるのです」
そして彼女は、はっきりと言った。
「身分違い、という言葉を覚えておいた方がよろしいですわ」
胸の奥が、冷たくなった。
まるで床が遠く沈んでいくようだった。
ルナは目を伏せる。
何も言い返せなかった。
間違っている、と言えばよかったのか。
自分は試験で認められたのだ、と言えばよかったのか。
でも、声が出なかった。
なぜならルナ自身も、心のどこかで思っていたからだ。
自分はここにいていいのだろうか、と。
セシリアの言葉は、その不安の形をそのまま声にしたものだった。
「セシリア」
その時、別の声がした。
リリアーナだった。
王女である彼女は、いつもの明るい表情を消していた。
「言い過ぎですわ」
教室がさらに静まる。
セシリアはリリアーナへ丁寧に礼をした。
「リリアーナ殿下。私は学院の秩序を案じているだけです」
「秩序と侮辱は違います」
「侮辱だとお感じになられたなら、言葉が足りませんでしたわ」
謝っているようで、謝っていない。
リリアーナの眉がわずかに寄る。
だが、ここで王女が強く出れば、ルナは余計に“王女に守られた特別扱いの子”になる。
それを分かっているからこそ、リリアーナは言葉を飲み込んだ。
セシリアも、それを分かっているようだった。
「それでは、失礼いたします」
彼女は優雅に身を翻し、自分の席へ戻っていく。
取り巻きたちもそれに続いた。
残されたルナは、静かに自分の席へ座った。
膝の上で、手が小さく震えていた。
⸻
午前の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
教師の声は聞こえている。
板書も見えている。
けれど言葉が意味になる前に、胸の奥で消えていく。
身分違い。
その言葉だけが、何度も反響していた。
自分には家名がない。
貴族の作法も知らない。
血筋も、後ろ盾も、誇れる生まれもない。
あるのは、拾われた命と、与えられた学びだけ。
それは、この場所では足りないものなのだろうか。
授業中、ミレディアが何度かルナへ視線を向けた。
いつもならすぐに答えられる問いも、今日は反応が遅れた。
ミレディアは何かを察したようだったが、あえて指名しなかった。
その配慮すら、ルナには少し苦しかった。
昼休み。
生徒たちは自然といくつかの輪に分かれた。
貴族令嬢たち。
騎士家の男子。
地方領主の子女。
リリアーナの周囲にも人が集まる。
ルナは弁当箱を持ったまま、教室を出た。
どこへ行くかは決めていなかった。
ただ、教室にいるのが少し苦しかった。
⸻
中庭の奥に、小さな木陰があった。
人通りから外れた場所で、噴水の音だけが遠く聞こえる。
ルナはそこで腰を下ろした。
セラフィスが用意してくれた昼食は、今日も美しかった。
小さなサンドイッチ。
香草入りの卵焼き。
果実。
焼き菓子。
ひとつひとつに手間がかかっているのが分かる。
けれど、あまり味がしなかった。
「……身分違い」
小さく呟く。
言葉にすると、また胸が痛んだ。
泣きそうになった。
でも泣かなかった。
泣いたら、セシリアの言う通りになってしまうような気がした。
ここにいる資格がない弱い子だと、証明してしまうような気がした。
その時、足音が聞こえた。
「見つけた」
リリアーナだった。
彼女は手に包みを持ち、ルナの隣へ当然のように座った。
「一人で食べるつもりでしたの?」
「……うん」
「では私も一人になってしまいますわ」
「リリアーナは、友達たくさんいる」
「たくさんいることと、今一緒に食べたい人がいることは別です」
そう言って、彼女は包みを開いた。
中には、学院食堂の焼き菓子が入っていた。
「甘いものは、だいたいの悲しみを半分くらいにします」
「全部じゃないんだ」
「全部消えたら、それはそれで危険ですもの」
ルナは少しだけ笑った。
リリアーナはそれを見て、ほっとしたように目を細めた。
「セシリアのこと、気にしています?」
「……うん」
嘘はつけなかった。
「私、何か悪いことしたのかな」
「していません」
「でも、嫌われた」
「嫌う理由は、必ずしも相手の中にあるとは限りません」
ルナは首を傾げた。
「どういう意味?」
「セシリアは、ずっと一番になるために努力してきた人です」
リリアーナは空を見上げた。
「名門伯爵家の娘として、失敗を許されず、完璧であることを求められてきた。彼女は傲慢ですが、怠け者ではありません」
「……努力してる人」
「ええ。だからこそ、突然現れたあなたが怖いのかもしれません」
「私が?」
ルナは驚いた。
自分が誰かに怖がられるなど、想像もしていなかった。
「あなたは、何も持っていないように見えるのに、彼女が積み上げてきたものを越えてしまった」
リリアーナの声は優しかった。
「それは、誇り高い人ほど苦しいものです」
ルナは黙った。
セシリアの冷たい目を思い出す。
あれは単なる意地悪だったのだろうか。
それとも、違うものも混ざっていたのだろうか。
「でも」
ルナは膝の上で手を握った。
「だからって、身分違いって言っていいの?」
「いいえ」
リリアーナは即答した。
「それは間違いです。あなたが傷ついて当然の言葉です」
その断言に、ルナは少し救われた。
傷ついた自分は弱いのではない。
傷つける言葉だったのだ。
「怒ってもいいのですわ」
リリアーナは言った。
「でも……怒り方が分からない」
「それは、これから覚えればよろしいのです」
王女は焼き菓子を一つ差し出した。
「学院は、魔法だけを学ぶ場所ではありませんから」
⸻
放課後。
ルナは校門へ向かう足取りが、いつもより少し重かった。
セシリアの言葉はまだ胸の奥に残っている。
けれど、昼のリリアーナの言葉も残っていた。
嫌われた理由が、自分の欠陥だけではないかもしれない。
それでも、どうすればいいのかは分からない。
校門の外には、いつものようにアルトがいた。
黒髪を夕風に揺らし、静かに立っている。
その隣にはセラフィスとヴァルクもいた。
「お帰りなさいませ」
セラフィスが一礼する。
「……ただいま」
ルナの声を聞いた瞬間、三人の気配がわずかに変わった。
ほんの少し。
しかし確かに。
アルトは何も言わず、歩き出した。
「今日は、何かありましたか」
帰り道の途中で、ようやく尋ねる。
ルナはしばらく黙っていた。
言えば、アルトたちは怒るだろう。
セラフィスは笑顔で恐ろしいことを考えそうだし、ヴァルクは無言で相手の家の門前に立ちそうだ。
だから迷った。
でも、隠すのも違う気がした。
「……身分違いって、言われた」
声は小さかった。
それでも三人は聞き逃さなかった。
空気が一瞬、冷えた。
セラフィスの微笑みが深くなる。
「どなたが?」
「セラフィス」
アルトが静かに制した。
「まだです」
「まだ、とは?」
「話を聞いてからです」
ヴァルクは何も言わない。
ただ、視線だけが鋭くなっていた。
ルナは慌てて続ける。
「でも、私……考えてた」
「何を?」
「どうすれば、仲良くできるのかなって」
三人が黙った。
予想外の言葉だったのだろう。
「嫌だった。すごく嫌だったし、悲しかった。でも……その子も、努力してきた人なんだって」
ルナは言葉を探しながら話す。
「私が急に来て、主席になって、Sクラスにいて……嫌だったのかもしれない」
「だから許すのですか」
セラフィスの声は静かだった。
ルナは首を横に振る。
「分からない」
正直な答えだった。
「許すのか、怒るのか、仲良くしたいのか、嫌いなのか……まだ分からない。でも、分からないまま嫌いになるのは、少し怖い」
アルトはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「良い考えです」
「良いの?」
「ええ」
夕陽が彼の横顔を柔らかく照らしていた。
「人と関わる時、すぐ答えを出さなくていい。怒ってもいい。距離を取ってもいい。近づこうとしてもいい」
「……うん」
「ただ、ひとつだけ」
アルトの声が少し低くなる。
「あなたを傷つける言葉を、“自分が悪いからだ”と思う必要はありません」
その言葉に、ルナの目が揺れた。
「身分で人の価値は決まりません」
セラフィスが続けた。
声は穏やかだったが、芯に冷たい怒りがあった。
「家名が人を飾ることはあっても、人そのものを高めるわけではありません」
ヴァルクも短く言った。
「お前は、お前だ」
それだけだった。
だが、ルナには十分すぎた。
⸻
その夜の食卓は、いつもより静かだった。
セラフィスの料理は相変わらず完璧だった。
香草を利かせた肉料理。
温かいスープ。
焼きたてのパン。
甘い果実の煮込み。
けれどルナは時折、考え込むように手を止めた。
セシリアのことを思い出していた。
冷たい瞳。
綺麗な声。
鋭い言葉。
嫌だった。
悲しかった。
でも、リリアーナの言った通りなら、彼女にも理由がある。
理由があれば傷つけていいわけではない。
それでも、理由を知ることはできるかもしれない。
「……仲良くなるって、どうするの?」
ぽつりと呟いた。
セラフィスが即座に答える。
「まず相手の弱みを握ります」
「違う気がする」
「では好物を調査します」
「それは少し近いかも」
ヴァルクが言う。
「戦う」
「遠い」
アルトは紅茶を置き、少し考えた。
「挨拶からでは?」
ルナは目を瞬かせる。
「挨拶?」
「ええ。毎日、同じように」
「それだけ?」
「それだけです」
「……それで仲良くなれる?」
「分かりません」
ルナは少しむっとした。
「分からないの?」
「分からないから、人間関係は難しいのです」
アルトは微笑んだ。
「ですが、少なくとも敵意だけを返すより、別の可能性が残ります」
ルナは静かに頷いた。
可能性。
その言葉は、小さな灯のようだった。
⸻
夜。
自分の部屋に戻ったルナは、机に向かった。
授業の復習をするつもりだった。
けれど、開いたノートの隅に、いつの間にか小さく文字を書いていた。
――セシリア。
その下に、少し迷ってから書き足す。
――あいさつする。
それだけの言葉。
けれどルナにとっては、大きな決意だった。
嫌なことを言われた相手へ、明日も挨拶する。
それは弱さではない。
逃げないための、小さな勇気だった。
窓の外には、王都の灯りが揺れている。
学院は難しい。
魔法よりも、剣よりも、人の心はずっと難しい。
けれど、だからこそ学ぶ意味があるのかもしれない。
ルナはノートを閉じ、そっと胸に手を当てた。
まだ痛い。
でも、痛みだけではない。
その奥に、ほんの少しだけ前を向こうとする何かがあった。
明日、もう一度教室へ行く。
そして言うのだ。
おはよう、と。
たったそれだけ。
けれどその小さな一言から、何かが変わるかもしれない。
少女はそう信じて、静かに灯りを消した。




