表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界最強の引きこもりは、人と生きる意味を知る  作者: わまたよ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
47/78

第六話 貴族令嬢の敵意

 王立学院の朝は、美しいほどに整っていた。


 白い回廊には朝日が斜めに差し込み、磨かれた石床へ金色の線を落としている。中庭の噴水は静かに水を跳ね、植え込みの花々は夜露を残したまま、陽を受けて淡く輝いていた。


 そこを歩く生徒たちもまた、どこか絵画の一部のようだった。


 清潔な制服。


 整えられた髪。


 貴族子女らしい穏やかな笑み。


 優雅な挨拶。


 それらは学院の朝にふさわしい光景だった。


 けれどルナには、まだその美しさが少し遠かった。


 自分の靴音だけが大きく聞こえる。


 胸元の学院章が、妙に重く感じる。


 昨日の魔法理論授業で、彼女は教師ミレディアの問いに答えた。


 ただ、知っていたから答えただけだった。


 アルトやセラフィスに教わったことを、言葉にしただけだった。


 けれど教室の空気は、その瞬間から少し変わった。


 驚き。


 好奇。


 そして、薄く鋭いもの。


 ルナはそれが何なのか、まだうまく名前をつけられなかった。


 ただ、昨日よりも少しだけ、教室の扉が重く感じられた。


 Sクラスの教室へ入る。


 すでに何人かの生徒が席についていた。


 談笑していた声が、一瞬だけ止まる。


 それから何事もなかったように戻る。


 その小さな間が、ルナの胸に刺さった。


「おはようございます」


 彼女は小さく挨拶した。


 返ってきた声は、まばらだった。


「おはよう」


「……おはようございます」


 無視ではない。


 拒絶でもない。


 だが、温度は低かった。


 ルナは自分の席へ向かう。


 窓際寄りの席。


 そこへ座ろうとした時、前方から涼やかな声が響いた。


「そこが、あなたのお席なのですね」


 振り向くと、一人の少女が立っていた。


 金糸を思わせる淡い髪を丁寧に巻き、白い肌に薄紅色の唇。制服は同じはずなのに、彼女が着るとまるで上質な礼服のように見えた。


 立ち姿ひとつに育ちが滲んでいる。


 背筋は真っ直ぐ。


 顎は少し高く。


 視線は静かで、冷たい。


 その少女の周囲には、自然と二、三人の生徒が集まっていた。


 名門伯爵家令嬢、セシリア。


 ルナはその名前を聞いたことがあった。


 入学前から主席候補と噂され、魔法理論も礼法も剣術も優秀。貴族社会ではすでに将来を期待されている令嬢だと。


 そのセシリアが、まっすぐルナを見ていた。


「……はい」


 ルナは答える。


「何か、問題がありますか?」


「いいえ。問題というほどではありませんわ」


 セシリアは微笑んだ。


 美しい微笑みだった。


 だがそこには、温かさがなかった。


「ただ、不思議に思っただけですの」


「不思議……?」


「ええ」


 セシリアは教室を見渡すように視線を動かした。


「このSクラスは、王国でも選ばれた者だけが入る場所です。代々国を支える家の子女、宮廷魔導士の血筋、騎士家の跡取り、地方領主の嫡子。皆、それぞれに家名と責任を背負っています」


 言葉は丁寧だった。


 けれど、その一語一語は刃のようだった。


「その中に、苗字も家名も持たぬ方がいらっしゃるのですもの」


 教室の空気が固まった。


 数人が息を呑む。


 誰かが小さく笑いを噛み殺した。


 ルナは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。


 苗字。


 家名。


 それは、彼女にとって遠いものだった。


 奴隷だった頃、名前すら呼ばれないことがあった。


 番号で呼ばれたこともある。


 “お前”と呼ばれたこともある。


 だから、ルナという名をアルトたちに呼ばれるようになってから、それだけで十分だと思っていた。


 けれどこの場所では、それでは足りないのだと、今突きつけられた。


「……私は」


 言葉が喉に引っかかる。


 何を言えばいいのか分からない。


 セシリアは優雅に首を傾げた。


「誤解なさらないで。私はあなたが努力されていないと言っているのではありませんわ」


 その声は、むしろ穏やかだった。


 穏やかだからこそ、余計に痛かった。


「ただ、学院には学院の格があります。身分には身分の重みがあります。努力だけで踏み込んでよい場所と、そうでない場所があるのです」


 そして彼女は、はっきりと言った。


「身分違い、という言葉を覚えておいた方がよろしいですわ」


 胸の奥が、冷たくなった。


 まるで床が遠く沈んでいくようだった。


 ルナは目を伏せる。


 何も言い返せなかった。


 間違っている、と言えばよかったのか。


 自分は試験で認められたのだ、と言えばよかったのか。


 でも、声が出なかった。


 なぜならルナ自身も、心のどこかで思っていたからだ。


 自分はここにいていいのだろうか、と。


 セシリアの言葉は、その不安の形をそのまま声にしたものだった。


「セシリア」


 その時、別の声がした。


 リリアーナだった。


 王女である彼女は、いつもの明るい表情を消していた。


「言い過ぎですわ」


 教室がさらに静まる。


 セシリアはリリアーナへ丁寧に礼をした。


「リリアーナ殿下。私は学院の秩序を案じているだけです」


「秩序と侮辱は違います」


「侮辱だとお感じになられたなら、言葉が足りませんでしたわ」


 謝っているようで、謝っていない。


 リリアーナの眉がわずかに寄る。


 だが、ここで王女が強く出れば、ルナは余計に“王女に守られた特別扱いの子”になる。


 それを分かっているからこそ、リリアーナは言葉を飲み込んだ。


 セシリアも、それを分かっているようだった。


「それでは、失礼いたします」


 彼女は優雅に身を翻し、自分の席へ戻っていく。


 取り巻きたちもそれに続いた。


 残されたルナは、静かに自分の席へ座った。


 膝の上で、手が小さく震えていた。



 午前の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


 教師の声は聞こえている。


 板書も見えている。


 けれど言葉が意味になる前に、胸の奥で消えていく。


 身分違い。


 その言葉だけが、何度も反響していた。


 自分には家名がない。


 貴族の作法も知らない。


 血筋も、後ろ盾も、誇れる生まれもない。


 あるのは、拾われた命と、与えられた学びだけ。


 それは、この場所では足りないものなのだろうか。


 授業中、ミレディアが何度かルナへ視線を向けた。


 いつもならすぐに答えられる問いも、今日は反応が遅れた。


 ミレディアは何かを察したようだったが、あえて指名しなかった。


 その配慮すら、ルナには少し苦しかった。


 昼休み。


 生徒たちは自然といくつかの輪に分かれた。


 貴族令嬢たち。


 騎士家の男子。


 地方領主の子女。


 リリアーナの周囲にも人が集まる。


 ルナは弁当箱を持ったまま、教室を出た。


 どこへ行くかは決めていなかった。


 ただ、教室にいるのが少し苦しかった。



 中庭の奥に、小さな木陰があった。


 人通りから外れた場所で、噴水の音だけが遠く聞こえる。


 ルナはそこで腰を下ろした。


 セラフィスが用意してくれた昼食は、今日も美しかった。


 小さなサンドイッチ。


 香草入りの卵焼き。


 果実。


 焼き菓子。


 ひとつひとつに手間がかかっているのが分かる。


 けれど、あまり味がしなかった。


「……身分違い」


 小さく呟く。


 言葉にすると、また胸が痛んだ。


 泣きそうになった。


 でも泣かなかった。


 泣いたら、セシリアの言う通りになってしまうような気がした。


 ここにいる資格がない弱い子だと、証明してしまうような気がした。


 その時、足音が聞こえた。


「見つけた」


 リリアーナだった。


 彼女は手に包みを持ち、ルナの隣へ当然のように座った。


「一人で食べるつもりでしたの?」


「……うん」


「では私も一人になってしまいますわ」


「リリアーナは、友達たくさんいる」


「たくさんいることと、今一緒に食べたい人がいることは別です」


 そう言って、彼女は包みを開いた。


 中には、学院食堂の焼き菓子が入っていた。


「甘いものは、だいたいの悲しみを半分くらいにします」


「全部じゃないんだ」


「全部消えたら、それはそれで危険ですもの」


 ルナは少しだけ笑った。


 リリアーナはそれを見て、ほっとしたように目を細めた。


「セシリアのこと、気にしています?」


「……うん」


 嘘はつけなかった。


「私、何か悪いことしたのかな」


「していません」


「でも、嫌われた」


「嫌う理由は、必ずしも相手の中にあるとは限りません」


 ルナは首を傾げた。


「どういう意味?」


「セシリアは、ずっと一番になるために努力してきた人です」


 リリアーナは空を見上げた。


「名門伯爵家の娘として、失敗を許されず、完璧であることを求められてきた。彼女は傲慢ですが、怠け者ではありません」


「……努力してる人」


「ええ。だからこそ、突然現れたあなたが怖いのかもしれません」


「私が?」


 ルナは驚いた。


 自分が誰かに怖がられるなど、想像もしていなかった。


「あなたは、何も持っていないように見えるのに、彼女が積み上げてきたものを越えてしまった」


 リリアーナの声は優しかった。


「それは、誇り高い人ほど苦しいものです」


 ルナは黙った。


 セシリアの冷たい目を思い出す。


 あれは単なる意地悪だったのだろうか。


 それとも、違うものも混ざっていたのだろうか。


「でも」


 ルナは膝の上で手を握った。


「だからって、身分違いって言っていいの?」


「いいえ」


 リリアーナは即答した。


「それは間違いです。あなたが傷ついて当然の言葉です」


 その断言に、ルナは少し救われた。


 傷ついた自分は弱いのではない。


 傷つける言葉だったのだ。


「怒ってもいいのですわ」


 リリアーナは言った。


「でも……怒り方が分からない」


「それは、これから覚えればよろしいのです」


 王女は焼き菓子を一つ差し出した。


「学院は、魔法だけを学ぶ場所ではありませんから」



 放課後。


 ルナは校門へ向かう足取りが、いつもより少し重かった。


 セシリアの言葉はまだ胸の奥に残っている。


 けれど、昼のリリアーナの言葉も残っていた。


 嫌われた理由が、自分の欠陥だけではないかもしれない。


 それでも、どうすればいいのかは分からない。


 校門の外には、いつものようにアルトがいた。


 黒髪を夕風に揺らし、静かに立っている。


 その隣にはセラフィスとヴァルクもいた。


「お帰りなさいませ」


 セラフィスが一礼する。


「……ただいま」


 ルナの声を聞いた瞬間、三人の気配がわずかに変わった。


 ほんの少し。


 しかし確かに。


 アルトは何も言わず、歩き出した。


「今日は、何かありましたか」


 帰り道の途中で、ようやく尋ねる。


 ルナはしばらく黙っていた。


 言えば、アルトたちは怒るだろう。


 セラフィスは笑顔で恐ろしいことを考えそうだし、ヴァルクは無言で相手の家の門前に立ちそうだ。


 だから迷った。


 でも、隠すのも違う気がした。


「……身分違いって、言われた」


 声は小さかった。


 それでも三人は聞き逃さなかった。


 空気が一瞬、冷えた。


 セラフィスの微笑みが深くなる。


「どなたが?」


「セラフィス」


 アルトが静かに制した。


「まだです」


「まだ、とは?」


「話を聞いてからです」


 ヴァルクは何も言わない。


 ただ、視線だけが鋭くなっていた。


 ルナは慌てて続ける。


「でも、私……考えてた」


「何を?」


「どうすれば、仲良くできるのかなって」


 三人が黙った。


 予想外の言葉だったのだろう。


「嫌だった。すごく嫌だったし、悲しかった。でも……その子も、努力してきた人なんだって」


 ルナは言葉を探しながら話す。


「私が急に来て、主席になって、Sクラスにいて……嫌だったのかもしれない」


「だから許すのですか」


 セラフィスの声は静かだった。


 ルナは首を横に振る。


「分からない」


 正直な答えだった。


「許すのか、怒るのか、仲良くしたいのか、嫌いなのか……まだ分からない。でも、分からないまま嫌いになるのは、少し怖い」


 アルトはしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり頷いた。


「良い考えです」


「良いの?」


「ええ」


 夕陽が彼の横顔を柔らかく照らしていた。


「人と関わる時、すぐ答えを出さなくていい。怒ってもいい。距離を取ってもいい。近づこうとしてもいい」


「……うん」


「ただ、ひとつだけ」


 アルトの声が少し低くなる。


「あなたを傷つける言葉を、“自分が悪いからだ”と思う必要はありません」


 その言葉に、ルナの目が揺れた。


「身分で人の価値は決まりません」


 セラフィスが続けた。


 声は穏やかだったが、芯に冷たい怒りがあった。


「家名が人を飾ることはあっても、人そのものを高めるわけではありません」


 ヴァルクも短く言った。


「お前は、お前だ」


 それだけだった。


 だが、ルナには十分すぎた。



 その夜の食卓は、いつもより静かだった。


 セラフィスの料理は相変わらず完璧だった。


 香草を利かせた肉料理。


 温かいスープ。


 焼きたてのパン。


 甘い果実の煮込み。


 けれどルナは時折、考え込むように手を止めた。


 セシリアのことを思い出していた。


 冷たい瞳。


 綺麗な声。


 鋭い言葉。


 嫌だった。


 悲しかった。


 でも、リリアーナの言った通りなら、彼女にも理由がある。


 理由があれば傷つけていいわけではない。


 それでも、理由を知ることはできるかもしれない。


「……仲良くなるって、どうするの?」


 ぽつりと呟いた。


 セラフィスが即座に答える。


「まず相手の弱みを握ります」


「違う気がする」


「では好物を調査します」


「それは少し近いかも」


 ヴァルクが言う。


「戦う」


「遠い」


 アルトは紅茶を置き、少し考えた。


「挨拶からでは?」


 ルナは目を瞬かせる。


「挨拶?」


「ええ。毎日、同じように」


「それだけ?」


「それだけです」


「……それで仲良くなれる?」


「分かりません」


 ルナは少しむっとした。


「分からないの?」


「分からないから、人間関係は難しいのです」


 アルトは微笑んだ。


「ですが、少なくとも敵意だけを返すより、別の可能性が残ります」


 ルナは静かに頷いた。


 可能性。


 その言葉は、小さな灯のようだった。



 夜。


 自分の部屋に戻ったルナは、机に向かった。


 授業の復習をするつもりだった。


 けれど、開いたノートの隅に、いつの間にか小さく文字を書いていた。


 ――セシリア。


 その下に、少し迷ってから書き足す。


 ――あいさつする。


 それだけの言葉。


 けれどルナにとっては、大きな決意だった。


 嫌なことを言われた相手へ、明日も挨拶する。


 それは弱さではない。


 逃げないための、小さな勇気だった。


 窓の外には、王都の灯りが揺れている。


 学院は難しい。


 魔法よりも、剣よりも、人の心はずっと難しい。


 けれど、だからこそ学ぶ意味があるのかもしれない。


 ルナはノートを閉じ、そっと胸に手を当てた。


 まだ痛い。


 でも、痛みだけではない。


 その奥に、ほんの少しだけ前を向こうとする何かがあった。


 明日、もう一度教室へ行く。


 そして言うのだ。


 おはよう、と。


 たったそれだけ。


 けれどその小さな一言から、何かが変わるかもしれない。


 少女はそう信じて、静かに灯りを消した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ