第五話 灯の残る家
――学院初日前夜、そして初日を終えた夜にて――
王都の夜は、辺境の夜と違って暗くならない。
街路には魔導灯が灯り、商店街には遅くまで人の声が残る。遠くの酒場から笑い声が流れ、どこかの屋敷では馬車の音が石畳を打つ。
夜でありながら、完全には眠らない街。
その喧騒から少し離れた西区画の屋敷にも、柔らかな灯がともっていた。
食堂の大きな窓には夜空が映り、磨かれたテーブルには夕食の名残が整然と片づけられている。
セラフィスが最後の皿を下げ、音もなく戻ってきた。
アルトは椅子に腰掛け、紅茶の湯気を眺めていた。
ヴァルクは壁際に立ち、腕を組んだまま無言で窓の外を見ている。
いつもの三人だった。
だが、空気はいつもより少しだけ静かだった。
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「……緊張していましたね」
セラフィスが口を開いた。
銀の髪を揺らしながら、ティーポットへ新しい湯を注ぐ。
「夕食の際、ルナ様はパンを三度落としかけました」
「数えていたのですか」
「当然です」
当然らしかった。
アルトは苦笑し、紅茶に口をつける。
確かに、今夜のルナは落ち着かなかった。
明日から王立学院。
新しい制服、新しい教室、新しい人々。
これまで生きてきた世界とはまるで異なる場所へ、たった一人で足を踏み入れる。
不安にならない方がおかしい。
「眠れるでしょうか」
セラフィスが珍しく少しだけ案じるように言った。
「眠れなくても、朝は来ます」
「情緒が足りません、主様」
「現実的と言ってください」
セラフィスはため息をついた。
「もっとこう、“大丈夫ですよ”とか、“君ならできます”とか、そういう保護者らしい言葉はないのですか」
「言えば安心するなら、いくらでも言います」
「ではなぜ言わないので」
「言葉で埋められる不安ばかりではないからです」
アルトの声は穏やかだった。
けれど、その奥には確かな重みがあった。
「明日、彼女は一人で教室へ入る。私たちはついていけない」
紅茶の表面に灯りが揺れる。
「だからこそ、自分の足で歩くしかない。……その一歩を奪いたくはありません」
セラフィスは何も言わなかった。
代わりに、少しだけ視線を伏せた。
ヴァルクが低く口を開く。
「泣くか」
「ルナ様が、ですか?」
「朝」
短い言葉だった。
アルトは少し考え、首を横に振った。
「泣かないでしょう」
「我慢するな」
「ええ」
「で、夜に泣く」
アルトとセラフィスは同時にヴァルクを見た。
彼は窓の外を見たままだった。
「……お前、意外とよく見ているな」
アルトが呟く。
「見てる」
それだけ返ってきた。
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夜も更けた頃。
アルトは二階の廊下を静かに歩いていた。
ルナの部屋の前で足を止める。
中から物音がした。
衣擦れの音。
引き出しを開け閉めする音。
それから、小さな独り言。
「靴……ここ。いや、こっち……髪……朝、結べるかな……」
準備を何度もやり直しているらしい。
アルトは扉を叩こうとして、やめた。
代わりに、そのまま静かに通り過ぎる。
今夜くらいは、ひとりで落ち着く時間も必要だろう。
階下へ戻ると、セラフィスが待っていた。
「様子は?」
「戦闘前の兵士のようでした」
「それは重症ですね」
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翌朝、屋敷の空気は妙に張っていた。
ルナは制服姿で食堂に現れた。
深い紺色の学院制服。白い襟。胸元の校章。
まだ少女らしい華奢な身体に、少しだけ大人びた装いが乗っている。
似合っていた。
だが本人は落ち着かないらしく、裾を何度も触っていた。
「……変じゃない?」
「大変よくお似合いです」
セラフィスが即答する。
「立派な学院生に見えます」
「ほんと?」
「ええ。誰が見ても」
ヴァルクが頷いた。
「強そう」
「制服の感想それ?」
ルナが半笑いになる。
少し緊張がほどけたようだった。
アルトは席を立つ。
「行きましょうか」
⸻
学院の門前には、同じように初日を迎える生徒たちが集まっていた。
貴族家の馬車。
付き人を連れた令嬢。
誇らしげな親。
緊張した子供。
ざわめきと期待が朝の空気に満ちている。
ルナは門を見上げた。
高く大きい。
ここから先は、自分の世界になる。
「……行ってくる」
小さく言った。
アルトは頷く。
「行ってらっしゃい」
それ以上は言わなかった。
ルナも何も求めなかった。
少女は一度深呼吸し、門へ向かって歩き出す。
途中で振り返らなかった。
その背中を、三人は黙って見送った。
セラフィスがぽつりと呟く。
「泣きませんでしたね」
「我慢したな」
ヴァルク。
「ええ」
アルトは微笑んだ。
「立派でした」
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日が沈み、ルナが帰ってきたのは少し遅い時間だった。
玄関扉が開く音。
「ただいま……」
声に疲れが混じっていた。
セラフィスがすぐに迎える。
「お帰りなさいませ。お茶にしますか、甘味にしますか、敵討ちにしますか」
「選択肢がおかしい……」
けれど、ルナは笑った。
その笑い方が、朝より自然だった。
夕食の席で、ルナはぽつぽつと学院の話をした。
教室が広かったこと。
貴族の子たちが多かったこと。
王女が話しかけてきたこと。
席の空気が妙だったこと。
何人かは露骨に見下してきたこと。
そして――少し怖かったこと。
「でも」
スープの湯気の向こうで、ルナは言う。
「大丈夫だった」
アルトは静かに頷いた。
「そうですか」
「……うん」
それだけで、十分だった。
⸻
ルナが部屋へ戻った後。
また三人が食堂に残る。
昼より深い夜だった。
セラフィスが腕を組む。
「本日、ルナ様に向けられた侮蔑視線、計二十七件」
「数えるな」
「職業病です」
「お前の職業は執事だろう」
「優秀な執事は敵意も数えます」
ヴァルクが椅子へ座る。
珍しいことだった。
「泣かなかった」
「ええ」
アルトが答える。
「よく耐えました」
「耐えさせる必要、あるか」
低い問いだった。
セラフィスも珍しく黙る。
アルトは少しだけ目を伏せた。
「ないなら、私が全部取り除きたい」
その声音には、普段見せない本音が滲んでいた。
「嫌な視線も、悪意も、理不尽も。……彼女が触れる前に消してしまいたい」
静寂が落ちる。
「ですが、それでは彼女の人生にならない」
窓の外、王都の灯が遠く揺れている。
「私たちは盾にはなれても、代わりにはなれない」
セラフィスが小さく息を吐いた。
「主様は、時々とても優しいくせに、とても厳しい」
「逆かもしれません」
「どういう意味で?」
「甘やかしたいからこそ、厳しくなる」
ヴァルクが短く言った。
「親だな」
アルトが顔をしかめた。
「違います」
「父」
「違います」
「母」
「なぜ悪化したのですか」
セラフィスが肩を震わせる。
笑っていた。
⸻
その夜、ルナの部屋の灯は早く消えた。
疲れてすぐ眠ったのだろう。
食堂の灯も消え、屋敷は静けさに包まれる。
ヴァルクは夜警へ。
セラフィスは最後の戸締まりへ。
アルトだけが中庭へ出た。
春の夜気がやわらかい。
見上げれば星がある。
学院初日。
たった一日。
それでもルナは確かに、昨日とは違う場所へ進んだ。
怖がりながら。
迷いながら。
それでも戻らずに。
アルトは静かに笑う。
「……強くなりますね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
返事の代わりに、風が木々を揺らした。
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その頃、ルナは眠っていた。
けれど寝顔は少しだけ誇らしげだった。
今日は怖かった。
嫌な人もいた。
うまく話せない瞬間もあった。
でも、ちゃんと座って、ちゃんと笑って、ちゃんと帰ってきた。
それだけで十分だった。
少女の小さな胸に、言葉にならない自信がひとつ灯る。
明日も行けるかもしれない。
明後日も。
その先も。
屋敷は静かだった。
だがその静けさの中には、確かなぬくもりがあった。




