第四話 屋敷を買う日
――王都入学一週間前、静かな準備の時間――
王都の朝は、辺境の朝とは音が違う。
石畳を叩く馬車の車輪。開店準備のために木戸を開く商人たちの声。遠くで鳴る鐘の音。まだ眠気を残した街並みの上を、薄い金色の陽光がゆっくりと滑っていく。
高い城壁に囲まれた大都市は、朝でさえ慌ただしかった。
だが、その喧騒から少し離れた宿の一室では、妙に穏やかな空気が流れていた。
「……王都に家を買う?」
ルナが目を丸くしていた。
テーブル越しに向かい合うアルトは、紅茶をひと口飲んでから頷いた。
「学院へ通う以上、生活基盤は必要です」
「宿じゃだめなの?」
「短期なら十分です。ですが長期になると、落ち着ける場所が必要になる」
言葉は静かだったが、そこには迷いがなかった。
セラフィスが完璧な所作で朝食の皿を下げながら続ける。
「何より、主様とルナ様がこの狭い宿の部屋で生活を続けるのは、快適とは言い難いかと」
「私は別に平気だけど……」
「私は平気ではありません」
即答だった。
ルナは苦笑し、ヴァルクは無言でパンを食べていた。
その横顔には何の感情も浮かんでいない。だが彼も反対はしていないらしい。
アルトは穏やかに笑った。
「王都で暮らすなら、守りやすい場所でもあるべきです」
「守る?」
「君はもう学院に入る身です。目立つでしょうから」
その言葉に、ルナは少しだけ肩をすくめた。
試験での首席合格。王家との接触。辺境出身でありながらSクラス配属。
まだ始まってもいない学院生活が、すでに平穏とは遠い場所にあることを、少女なりに理解していた。
「……家って、高いんじゃないの?」
「そうですね」
「じゃあ無理じゃ――」
「大丈夫です」
アルトが言った。
あまりにも自然に。
「少し古龍の素材を売ったので」
「少し、ってなに?」
「爪一本です」
セラフィスが補足した。
「王都南区画の中規模商館が一つ買える程度でした」
「意味がわからない……」
ルナは額を押さえた。
この人たちの金銭感覚は、時々ひどく壊れている。
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王都中央区画。
白い石造りの通りに面した、不動産商会《グランベル商館》。
上流階級向け物件を扱う、王都でも名の知れた商会だった。
応接室へ通された瞬間、支配人らしき男は愛想よく笑った。
「ようこそお越しくださいました。本日はどのような――」
そこまで言って、男は固まった。
アルトを見たからではない。
セラフィスを見たからでもない。
ヴァルクの威圧感でもない。
全員まとめて見た結果、理解が追いつかなかったのである。
黒髪の青年は貴族のような気品を持ちながら、どこの家紋もつけていない。
銀髪の執事は完璧すぎて逆に恐ろしい。
無言の剣士は護衛というには殺気が濃すぎる。
そして、その中央にいる少女だけが、きょろきょろと部屋を見回している。
「家を探しています」
アルトが微笑む。
「学院へ通う娘のために」
「む、娘……?」
支配人の視線がルナへ向く。
ルナは慌てて首を振った。
「ち、違います!」
「養い子のようなものです」
「それも違う気がする!」
支配人は混乱しながらも商売人の顔に戻った。
「ご予算は?」
「静かで、広く、治安がよく、学院まで馬車で二十分以内。庭があり、訓練場も取れる場所」
「……予算は?」
「条件を満たすなら気にしません」
支配人の喉が鳴った。
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最初に案内されたのは、南区画の瀟洒な邸宅だった。
白壁に青屋根。中庭には噴水。上品で美しい。
「いかがでしょう!」
支配人が胸を張る。
ルナは目を輝かせた。
「すごい……!」
だがヴァルクが一歩進み、庭の壁を軽く叩いた。
ぱきり、とひびが入った。
「薄い」
それだけ言った。
支配人が青ざめる。
「つ、次へ参りましょう!」
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二件目は東区画。
格式高い旧貴族邸。
柱も天井も豪奢で、歴史を感じさせた。
「これは良いですね」
アルトが言う。
支配人が安堵した瞬間、セラフィスが床板を見下ろした。
「白蟻です」
「えっ」
「この梁も腐食しています。三年以内に天井が落ちますね」
支配人の笑顔が死んだ。
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三件目は北区画。
王城にも近い一等地。
門構えも立派で、庭園は広く、警備も万全。
「こちらなら申し分ないかと!」
ルナも思わず息を呑んだ。
だがアルトは少し考え、首を振る。
「王城に近すぎます」
「……近いほど良いのでは?」
「面倒事も近くなります」
それは妙に説得力があった。
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日が傾き始めた頃。
支配人が半ば諦めた顔で最後の物件を案内した。
「ここは……少し古いですが」
西区画外れ。
貴族街と市街地の中間に位置する静かな場所だった。
石造りの二階建て。広い庭。裏手には小さな森。高い塀。離れもある。
派手さはない。
だが、どこか落ち着いた空気があった。
門をくぐった瞬間、ルナの足が止まった。
「……ここ、好き」
小さな声だった。
アルトが振り返る。
「どうして?」
「なんとなく……静かで、あったかい」
風が木々を揺らし、葉擦れの音がした。
遠くで鳥が鳴いている。
王都にありながら、ここだけ少し時間が遅い。
ルナは庭を走り回り、窓を覗き込み、廊下を歩いた。
二階の一室に入ったとき、少女はそこで立ち尽くした。
南向きの大きな窓。
柔らかな光。
白い壁。
何も置かれていない空っぽの部屋。
「ここ……」
「気に入りましたか」
アルトが静かに聞く。
ルナは何度も頷いた。
「……私の部屋にしていい?」
その声は、恐る恐るだった。
まるで、望んではいけないものを望んでしまった子供のように。
アルトはすぐに答えた。
「もちろん」
ルナの表情が、花のようにほどけた。
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支配人は手が震えていた。
「こ、こちらの物件で……本当に?」
「はい」
「価格ですが――」
「現金で」
机の上に置かれた革袋の音が、やけに重かった。
中身を確認した支配人は、その場で立ち上がり深々と頭を下げた。
「毎度ありがとうございます!」
態度が三段階ほど変わっていた。
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入居初日。
屋敷の掃除はセラフィスが一時間で終わらせた。
正確には、人間の掃除ではなかった。
空間魔法で埃を集め、浄化魔法で消し、家具を配置し、庭の雑草まで消えていた。
ルナは口を開けて見ていた。
「すご……」
「日常業務です」
「日常って何……」
ヴァルクは裏庭に立ち、木剣を振っていた。
すでに訓練場認定されたらしい。
アルトは書斎で帳簿を見ていたが、ふと二階を見上げた。
ぱたぱたと足音。
次の瞬間、ルナが階段を駆け下りてくる。
「見て!」
少女は頬を紅潮させていた。
「私の部屋、すごい!」
「そうですか」
「窓が大きくて、ベッドがふかふかで、机もある!」
「勉強できますね」
「そこは今言わなくていいの!」
ルナは笑った。
心から楽しそうに。
それを見て、アルトも少し笑う。
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その夜。
屋敷は静かだった。
食堂で夕食を終え、それぞれが持ち場へ散っていく。
セラフィスは明日の買い出し計画。
ヴァルクは夜警。
アルトは読書。
そしてルナは、自分の部屋へ戻った。
窓辺に座り、夜空を見る。
王都の灯りが遠く揺れている。
辺境の小屋にいた頃、自分の部屋などなかった。
眠る場所はあっても、自分だけの空間など知らなかった。
けれど今、ここにある。
机も、本棚も、柔らかな寝具も。
誰にも奪われず、怒鳴られず、怯えなくていい場所が。
ルナはそっとベッドへ倒れ込んだ。
柔らかい。
笑ってしまうほど柔らかい。
「……すごい」
小さく呟いて、天井を見つめる。
明日からまた忙しい。
学院も始まる。
知らない人ばかりで、怖いこともあるだろう。
それでも。
帰る場所がある。
その事実が、少女の胸を温めていた。
扉の外で、静かな足音が止まる。
「眠れそうですか」
アルトの声だった。
「うん」
「それは良かった」
「……アルト」
「なんでしょう」
少し間を置いて、ルナは言った。
「ありがとう」
扉の向こうで、わずかに気配が笑った。
「どういたしまして」
足音が遠ざかる。
ルナは毛布を抱きしめた。
そして人生で初めて、自分の部屋で、自分の家で、安心して眠りについた。




