第三部 学院編 第一話 初めての教室
朝の光には、不思議な力がある。
昨日まで知らなかった場所さえ、まるで以前から自分を待っていたように見せる力だ。
王都ソルレイアの朝は、辺境のそれとは違っていた。
石畳は夜露を受けて淡く輝き、街路樹の葉には細かな雫が並んでいる。高く連なる建物の窓からは、焼きたてのパンの匂い、香草を煮る匂い、朝の紅茶の香りがこぼれ、通りには早くも人々の気配が満ち始めていた。
馬車の車輪が規則正しく石を叩く音。
遠くの鐘楼から響く時刻の鐘。
商人の呼び声。
子どもたちの笑い声。
王都は目覚めるというより、常に動き続けている巨大な生き物のようだった。
その朝、ルナは少しだけ早く目を覚ました。
眠れなかったわけではない。
眠ってしまうには、胸の内が落ち着かなかっただけだ。
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鏡の前に立つ。
学院指定の制服は、昨夜セラフィスが皺一つなく整えてくれていた。
白を基調とした上衣に、濃紺の襟と袖。胸元には王立学院の紋章――太陽を抱く双翼の意匠。膝丈のスカートは深い藍色で、歩けば静かに揺れる。新しい布地の匂いが、まだわずかに残っていた。
ルナはその服へ袖を通すたび、自分が別の誰かになったような気持ちになる。
奴隷市場で汚れた布を纏っていた少女でもない。
辺境で粗末な服のまま魔法書へ齧りついていた日々でもない。
これは学生の服だ。
学ぶ者の服。
未来を選ぶ者の服。
その事実が、胸の奥を静かに震わせた。
「お似合いですよ」
背後から声がした。
いつの間に現れたのか、セラフィスが扉の側で穏やかに一礼している。
銀髪は朝日に淡く光り、いつも通り完璧に整っていた。
「ほ、本当に?」
「ええ。ですが襟元が一ミリ曲がっています」
「い、一ミリ……」
セラフィスは歩み寄り、指先だけで襟を直した。
「これで完璧です」
「……ありがとう」
「本日は記念すべき初登校です。主様も朝から少し落ち着きがありません」
「アルトが?」
「本人は否定なさるでしょうが」
その言葉に、ルナは思わず小さく笑った。
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食堂には朝食が用意されていた。
焼きたてのパン。卵料理。薄く炙った肉。野菜の温かなスープ。果実の切り分け。香り高い茶。
ルナが席へ着くと、アルトはすでに向かい側に座っていた。
「おはようございます」
「おはよう、ルナ」
黒髪の青年はいつも通り穏やかな顔で微笑む。
だが確かに、少しだけ落ち着かない気配があった。
茶器へ手を伸ばしかけて止める。
何か言いかけて飲み込む。
視線が何度かルナの制服へ向く。
セラフィスの言葉は正しかったらしい。
「……変?」
「いえ」
アルトは首を振った。
「よく似合っています」
「そう……」
「少し、感慨深いだけです」
「感慨?」
「初めて会った頃のあなたが、学院へ通う日が来るとは思いませんでした」
ルナはパンをちぎる手を止めた。
あの頃。
怯え、誰も信じず、目の前の食事すら毒ではないかと疑っていた自分。
それが今、制服を着て学院へ行く。
まるで誰か別の物語のようだった。
「……私も」
ルナは小さく言った。
「私も、思ってなかった」
アルトは何も返さなかった。
ただ、静かに頷いた。
それだけで十分だった。
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学院へ向かう馬車の中、ルナは窓の外を何度も見た。
王都の朝は忙しい。
通学する学生たち、商会へ急ぐ若者、兵士、使用人、貴族の馬車。色とりどりの人々が、それぞれの今日へ向かっている。
その流れの中へ、自分も混ざっている。
胸が高鳴る。
少し怖い。
けれど嫌ではない。
やがて馬車が緩やかに止まった。
「着きました」
御者の声。
扉が開かれる。
そこに広がっていたのは、巨大な白亜の門だった。
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王立学院。
王国最高峰の教育機関。
魔法、戦術、歴史、政治、礼法、剣術――国を支える才を育てる場所。
門柱は人の背丈の数倍もあり、精緻な彫刻が施されている。中央の鉄門には学院紋章が刻まれ、朝日に金色の縁を輝かせていた。
その奥には広大な敷地。
整えられた庭園。
噴水。
石造りの回廊。
いくつもの校舎。
遠くには訓練場らしき広場まで見える。
まるで一つの小さな都市だった。
「……すごい」
思わず漏れた言葉に、アルトが隣で微笑む。
「緊張しますか」
「……少し」
「少しで済むのは立派です」
ルナは深呼吸した。
門前にはすでに多くの生徒たちが集まっている。
豪奢な馬車から降りる貴族子女。
護衛を伴う家もある。
身なりの良い少年少女たちが談笑し、互いの家名を口にし、笑い合っていた。
そこへルナが立つ。
辺境出身の、苗字も持たぬ少女。
自然と視線が集まった。
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「……あの子?」
「主席合格っていう」
「平民でしょう?」
「でも制服、質がいいわね」
「後ろの人、誰?」
「黒髪……見たことない」
囁きは風のように広がる。
悪意ばかりではない。
好奇心。値踏み。羨望。警戒。
人の目にはいくつもの温度がある。
ルナはそれを、嫌というほど知っていた。
肩が少し強張る。
その時、アルトが隣で静かに言った。
「大丈夫です」
「……うん」
「ここから先は、あなたの場所です」
ルナは彼を見る。
「アルトは?」
「門の外までです」
「……そうだった」
分かっていたはずなのに、急に心細くなった。
それを見透かしたように、アルトは少し屈んで目線を合わせる。
「帰る頃には、きっと朝より少し世界が広くなっています」
「そんなに簡単に?」
「案外、世界は簡単に広がります」
ルナは唇を結び、それから頷いた。
「……行ってきます」
「いってらっしゃい」
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門をくぐる。
たった数歩だった。
けれど、その数歩は今まで歩いたどんな道より長く感じられた。
振り返ると、アルトは門外で静かに立っている。
手は振らない。
呼び止めもしない。
ただ、そこにいる。
その姿が、なぜかとても頼もしかった。
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受付広間には新入生が集められていた。
天井の高い石造りの空間に、朝日が色硝子を通して降り注ぐ。床へ赤や青の模様が揺れ、ざわめく人々の上に淡い色彩を落としていた。
係員が名簿を持ち、次々に案内していく。
「成績順にクラス分けを行います。S、A、B、C、Dの五段階です」
その言葉に空気が変わった。
知ってはいても、現実に告げられると重みが違う。
Sクラス。
王国の未来を担う才が集う特別選抜。
貴族たちにとっては誇り。
平民にとっては奇跡。
そして落ちた者にとっては、最初の挫折。
係員が名前を読み上げ始める。
名門家の子息令嬢たちが呼ばれ、胸を張って前へ進む。
ざわめき、安堵、悔しさ。
さまざまな感情が交錯する。
「……次、ルナ」
一瞬、広間が静まった。
「Sクラス所属」
囁きが爆ぜる。
「本当にSだ」
「辺境の子が?」
「主席って本当だったの……?」
ルナは足を進めた。
背筋を伸ばき、転ばぬよう静かに。
視線は痛いほど集まる。
それでも歩いた。
前へ。
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Sクラス教室は本館三階、東端にあった。
扉には金縁の札。
磨かれた木の扉。
中からはすでに人の気配がする。
案内係が扉を開いた。
「新入生、入室してください」
ルナは息を整え、中へ入った。
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広い教室だった。
半円形に並ぶ机。前方には黒板ではなく魔導投影板。窓は大きく、王都の街並みが遠くまで見える。
そこにいた十数名の生徒たちが、一斉にこちらを見る。
絹のような髪の令嬢。
鋭い眼差しの少年。
落ち着いた雰囲気の少女。
皆、年齢は近い。
だが漂う空気は、すでに選ばれた者たちのそれだった。
そしてその中に、自分がいる。
胸が高鳴った。
「最後の一名ですね」
教壇に立つ女性が微笑んだ。
長い亜麻色の髪をまとめ、知性と品格を兼ね備えた女性教師。
「私はSクラス担任、ミレディアです。よろしくお願いします」
声は柔らかいが、芯がある。
生徒たちが自然と姿勢を正す。
「では、空いている席へ」
ルナは教室を見渡した。
中央列、窓際寄りに一つ空席がある。
歩いて向かう。
その途中で、何人かが露骨に視線を逸らし、何人かは値踏みするように見つめ、何人かは無関心を装った。
ここにも壁はある。
見えないけれど、確かに。
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席へ着いた瞬間、隣から声がした。
「あなたがルナ?」
振り向く。
そこには金に近い淡い髪を揺らす少女がいた。年は少し上だろうか。瞳は明るく、笑顔に屈託がない。
「わ、私……はい」
「よかった。静かな子ばかりで退屈していたの」
少女は楽しそうに手を差し出した。
「リリアーナ。よろしく」
王族の名だと、すぐに分かった。
末王女、リリアーナ・ソリス。
だがその態度には威圧も格式もない。
ただ、同じ教室の生徒としてそこにいた。
ルナは少し戸惑いながら手を取る。
「……よろしく、お願いします」
「敬語いらないわ」
「え」
「同級生でしょう?」
その一言に、教室の空気がわずかに揺れた。
王女が、辺境出身の少女へ気さくに接する。
それだけで、人々の視線の色が少し変わる。
ミレディアはそれを見て、何も言わず微笑んだ。
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窓の外では、遠く門前にまだ一人の影が見えた。
黒髪の青年。
アルトは校門の外から、ただ静かに学院を見上げている。
その距離は遠い。
声も届かない。
けれどルナには、なぜか分かった。
見守っているのだと。
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ミレディアが教壇を軽く叩く。
「では諸君。今日からここが、あなたたちの教室です」
朝の光が教室へ満ちる。
新しい本の匂い。
まだ名も知らぬ同級生たち。
遠い街の喧騒。
胸の奥にある、不安と期待。
「王国で最も多くを学び、最も多くを競い、最も多くを得る場所になるでしょう」
ルナは机の上でそっと手を握った。
「そして時に、最も傷つく場所にもなります」
その言葉に、教室が静まる。
「ですが安心してください。傷つくことは、進んだ証でもあります」
ミレディアは穏やかに言った。
「ようこそ、Sクラスへ」
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ルナは窓の外を見た。
王都の空は高く、青かった。
まだ何も始まっていない。
けれど確かに、何かが始まったのだと分かった。
初めての教室。
初めての同級生。
初めて、自分の意志で選んだ居場所。
その朝、少女の世界はまた少し広がった。




