第二話 友達の作り方
昼休みを告げる鐘は、王立学院の白い塔々に反響しながら、澄んだ音を幾重にも広げていった。
午前の授業を終えた生徒たちが、堰を切ったように廊下へ溢れ出す。制服の裾が揺れ、革靴の音が石床を打ち、笑い声と噂話が窓辺の光に混ざって流れていく。
その賑わいの中心に、ルナはいなかった。
Sクラスの教室、その窓際の席。
朝と同じように背筋を伸ばして座る少女の姿は、周囲の喧騒から一歩だけ切り離されているように見えた。
机の上には整然と閉じられた教本。手は膝の上に揃えられ、視線は窓の外へ向いている。
校庭では、魔法実技科の生徒たちが昼の自由時間にも練習をしていた。小さな火花が散り、水球が跳ね、風が木々を揺らしている。
けれどルナの目は、そこにも定まっていなかった。
ただ、考えていた。
朝から何人もの生徒に声をかけられた。
“主席合格の子だろう?”
“辺境出身って本当?”
“どうやって勉強したの?”
“王女殿下と知り合いなの?”
質問は多く、笑顔もあった。だが、そのどれもが彼女自身へ向けられたものというより、“珍しい存在”へ向けられた視線に思えた。
どう答えるのが正しかったのか、いまだにわからない。
何を言えば喜ばれ、何を言えば嫌われるのか。
そんなことを、ルナはまだ知らない。
知らないままここへ来た。
「……難しい」
ぽつりと漏れた声は、自分にしか聞こえないほど小さかった。
そのとき。
「やっぱりここにいた!」
弾むような声が、教室の入口から飛び込んできた。
ルナが顔を上げる。
栗色の髪を二つにまとめ、小柄な身体を元気いっぱいに動かしながら、こちらへ手を振っている少女がいた。
見覚えがあるどころではない。
市場通りのパン屋で、小麦粉まみれになりながら笑っていた顔。
「……ミーナ?」
「そう! 忘れてなくてよかったー!」
ぱたぱたと駆け寄ってきたミーナは、机に両手をついて身を乗り出した。
「すごいね、Sクラスじゃん! 私、朝から探してたんだよ!」
「どうして学院に……?」
「うち、商業区画に店出してるの。お父さんのパン屋、学院祭とか平日販売とかで中に入れるんだ。今日は配達手伝い!」
胸を張る姿が妙に誇らしげで、ルナは瞬きをした。
学院の中に、知っている顔がいる。
その事実だけで、胸の奥の緊張が少しほどけるのを感じた。
「……そうだったんだ」
「なにその安心した顔。朝、めちゃくちゃ緊張してたでしょ?」
「え」
「してた」
断言された。
ミーナはけらけら笑う。
「顔に書いてあったよ。“ここにいていいのかな”って」
ルナは思わず視線を逸らした。
図星だった。
この学院の白い壁も、高い天井も、整えられた庭園も、自分には眩しすぎると思っていた。
ここは選ばれた者たちの場所で、自分は偶然紛れ込んだ異物なのではないかと。
「……そんな顔、してた?」
「してたしてた。だから助けに来た!」
「助けに?」
「学院案内人、ミーナ様に任せなさい」
腰に手を当てて胸を張る。
その芝居がかった仕草に、ルナの口元がほんの少し緩んだ。
ミーナはすぐそれに気づいたらしい。
「今笑った!」
「……笑ってない」
「笑ったよ!」
「笑ってない」
「じゃあ証明するから、ついてきて!」
返事を待たずに手首を掴まれる。
温かく、迷いのない手だった。
ルナは抵抗する間もなく立ち上がり、そのまま教室の外へ連れ出された。
⸻
王立学院の校舎は、一つの小さな街のようだった。
本館から渡り廊下が伸び、図書塔、実技棟、食堂棟、寮舎、訓練場へと繋がっている。さらに外周には商業区画があり、文具店、衣料店、菓子屋、書店、魔道具修理店まで揃っていた。
学院内で生活の大半が完結するよう設計されているのだと、ミーナは得意げに説明した。
「ここが食堂! 安い、うまい、多い!」
「標語みたい……」
「で、こっちが図書塔。寝てる先生もいる」
「いいの?」
「よくない」
くすくす笑いながら、二人は石畳の道を歩いていく。
行き交う生徒たちは、やはりルナへ視線を向けた。
Sクラスの制服章。朝から話題の主席合格者。辺境出身の少女。
ざわめきが耳を掠める。
だが朝と違い、今日はその隣にミーナがいる。
「気にしなくていいよ」
前を向いたまま、ミーナが言った。
「みんな暇なんだよ。すごい人とか珍しい人とか見つけると、すぐ噂するの」
「……すごい人、ではない」
「じゃあ珍しい人だね」
「それもあまり嬉しくない」
「ははっ、そっか」
軽やかな笑い声。
否定も同情もせず、ただ受け流す。
その距離感が心地よかった。
「ミーナは……どうして普通に話せるの?」
「ん?」
「私は、変だと思われてる」
「思われてるかもね」
あっさり言う。
ルナは少し傷ついた顔をした。
ミーナは慌てて手を振った。
「いや違う違う! 変って悪い意味じゃなくてさ。目立つってこと」
「……同じでは?」
「違うって。たとえば、すっごく綺麗な花が咲いてたら見るでしょ?」
「……うん」
「でも花に罪はないじゃん」
「たぶん、ない」
「だから堂々としてればいいの!」
理屈が雑だった。
だが不思議と、嫌ではなかった。
⸻
商業区画の一角には、小さなパン屋台が出ていた。
焼きたての香りが風に乗り、人の足を止めている。
「ただいまー!」
ミーナが叫ぶと、奥から恰幅のいい男が顔を出した。
「おう、遅いぞミーナ……って、あんたはこの前の嬢ちゃん!」
市場通りで会った、ミーナの父だった。
日に焼けた顔に粉をつけたまま、大きく笑う。
「学院入ったって聞いたぞ! しかも主席だってな!」
「……ありがとうございます」
「硬い硬い! 祝いだ、食え!」
有無を言わさず焼きたてのパンを渡された。
まだ熱い。
表面は香ばしく、中はふわりと柔らかい。
口に運ぶと、バターの香りが広がった。
「……おいしい」
「だろ!」
「お父さん、それ毎回言わせてるよね」
「商売だ」
堂々としている。
ミーナは呆れながらも笑っていた。
そのやり取りを見て、ルナは胸の奥に小さな熱を覚えた。
家族の声。
当たり前のような掛け合い。
怒鳴り声でも命令でもなく、笑いを含んだ言葉の往復。
それはルナの知らない日常だった。
「どうした?」
パンを持ったまま止まったルナに、ミーナが首を傾げる。
「……なんでもない」
「泣きそうな顔してる」
「してない」
「また顔に書いてある」
困ってしまう。
この少女は、どうしてこんなに人の心を見つけるのが早いのだろう。
⸻
午後の授業までまだ少し時間があった。
二人は学院の裏庭へ移動した。
人の少ない芝生の広場。噴水の水音が遠く響き、春の花々が揺れている。
木陰に腰を下ろし、ミーナは足を投げ出した。
「で、どう? 学院」
ルナも隣に座る。
少し考えてから答えた。
「広い」
「うん」
「綺麗」
「うん」
「……怖い」
ミーナは何も言わなかった。
ただ、続きを待っている。
「みんな賢くて、強くて、自信がある。私は何を言っても間違えそうで……何もしないほうがいい気がする」
言葉にすると、自分がどれだけ萎縮していたかがわかった。
「そっか」
ミーナは膝を抱え、空を見た。
「でもさ、ルナ」
「……うん」
「何もしないと、誰にもわかってもらえないよ」
風が吹いた。
木々の葉が鳴る。
「私、最初ルナのこと怖かったもん」
「え?」
「無口で、綺麗で、何考えてるかわかんなくて」
「……そんなふうに?」
「うん。でも話したら、全然違った」
ミーナは横目で笑う。
「優しいし、真面目だし、ちょっと抜けてる」
「抜けてない」
「パンの値段、三回聞き返したじゃん」
「貨幣単位が複雑だった」
「言い訳うまくなってる」
また笑う。
ルナも、つられて少し笑った。
「友達ってさ」
ミーナが草を一本抜いてくるくる回す。
「最初からなるものじゃなくて、話して、知って、気づいたらなってるものだと思う」
「……気づいたら」
「うん。“なろう”って契約するわけじゃないし」
「それは、そうかもしれない」
「だからルナも、少しずつでいいんじゃない?」
少しずつ。
その言葉は、どこか救いのように響いた。
すぐ完璧にならなくていい。
すぐ馴染めなくていい。
失敗しながら、覚えていけばいいのだと。
⸻
午後の鐘が鳴る。
二人は立ち上がった。
「じゃ、私は店戻る! また昼休み来るかも!」
「授業は?」
「商人に授業はいらん!」
「それ、お父さんに怒られる言い方」
「ばれたらね!」
走り出しかけたミーナが、ふと振り返る。
「ルナ」
「なに?」
「私たち、もう友達だから」
あまりにも自然に言うものだから、ルナは返事を忘れた。
友達。
その言葉はまだ少し遠く、くすぐったい。
けれど嫌ではなかった。
「……うん」
小さく頷く。
ミーナは満足げに笑い、商業区画へ駆けていった。
⸻
午後の教室。
Sクラスの扉を開けると、何人かの生徒がこちらを見た。
「誰といたんだ?」
「商業区画の子?」
「知り合いか?」
朝なら、ルナは黙って席へ向かっただろう。
けれど今は違った。
「……友達です」
一瞬、教室が静かになる。
言った本人が一番驚いていた。
だが次の瞬間、リリアーナがぱっと笑った。
「まあ! 素敵ですわ!」
その声に空気が和らぐ。
「へえ、友達いるんだな」
「その言い方失礼だろ」
「どんな子なんだ?」
矢継ぎ早の言葉。
ざわめきはまだある。
視線も多い。
けれど、朝ほど冷たくは感じなかった。
ルナは席につき、窓の外を見た。
遠く、商業区画の屋台の屋根が見える。
そのどこかで、ミーナが笑っている気がした。
胸の内に、名前のわからない温かなものが灯っている。
たぶんこれは、安心だ。
あるいは――始まり。
友達とは何か、まだ全部はわからない。
けれど一つだけ知った。
それは、誰かといるとき、自分が少しだけ自然に笑えることなのだ。




