第八話 山頂にて、真なる強さを知る
山頂へ近づくにつれ、世界から色が失われていった。
木々は減り、土は痩せ、岩肌が剥き出しになる。草は焦げ、ところどころに黒く焼けた跡が残っていた。熱に炙られたのか、石そのものが溶けて固まったような場所まである。
風は強い。
だが、その風に自然の匂いは少なかった。
代わりに混じるのは、硫黄にも似た焦げ臭さと、獣の巣に近い濃密な生臭さ。
「……息がしにくい」
ルナが胸元を押さえる。
「威圧による緊張反応です」
セラフィスが即答した。
「相手の格を本能が理解しています」
「つまり?」
「身体が“帰れ”と言っています」
「正直でいい身体ですね……」
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視界が開ける。
山頂だった。
巨大な火口跡のように円形へ削られた岩盤地帯。その中央に、影があった。
いや、影ではない。
それ自体が景色の一部のような存在。
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龍。
古龍。
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全長は三十メートルを超えるだろう。
赤銅色の鱗は一枚一枚が盾のように厚く、古傷が幾筋も走っている。折れかけた角はなお巨木のようで、閉じられた翼だけで家屋ほどの面積があった。
呼吸するたび、鼻孔から白煙が漏れる。
伏せているだけなのに、山そのものが生きているようだった。
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ルナの足が止まる。
恐怖という言葉では足りない。
圧。
存在の重さ。
人が人であることを忘れさせるような、圧倒的上位者の気配。
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「……これ、勝てる相手じゃない」
喉が乾き、声が掠れる。
「一般論としては、その通りです」
セラフィスが言う。
「軍を動かし、上級魔導士を揃え、多数の犠牲を前提に討つ対象です」
「一般論じゃない場合は?」
「主様がいます」
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その瞬間、古龍の瞼が開いた。
黄金色の瞳。
縦に裂けた瞳孔が、一行を捉える。
ただ見るだけで、空気が震えた。
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次の瞬間。
咆哮。
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音ではなかった。
衝撃だった。
山頂の岩塊が跳ね、砂塵が吹き飛び、ルナは膝をつきかける。耳が痛み、肺の空気まで揺さぶられる。
空そのものが裂けたかのようだった。
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ヴァルクが一歩前へ出る。
無言。
ただ、ルナの前へ立つ。
セラフィスは指先を動かし、透明な薄膜のような防壁を展開した。遅れて届いた衝撃波がそれへぶつかり、細かな光の波紋となって散る。
「鼓膜は守りました」
「先に言って!?」
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古龍が立ち上がる。
岩盤が軋み、爪が石へ食い込む。
翼が半ば広がっただけで突風が生まれ、周囲の小石が弾丸のように飛んだ。
アルトの黒髪が風に揺れる。
それだけだった。
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「下がっていてください」
穏やかな声。
いつもの調子。
朝食の席で紅茶を頼むような自然さで、彼は前へ出た。
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「主様」
セラフィスが呼ぶ。
「山体崩落の可能性があります」
「抑えます」
「承知しました」
会話が軽い。
内容は全く軽くない。
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古龍が口を開く。
喉奥が赤く灯る。
魔力が収束していくのが、ルナにも分かった。
熱量が空気を歪ませる。
「ブレス来ます!」
「ええ」
アルトは頷いた。
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放たれた。
灼熱の奔流。
直線ではない。津波のような炎だった。
岩を溶かし、空気を焼き、通過した軌跡すべてを焦土へ変える火の濁流。
王都の城門さえ数秒で落とすだろう威力。
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ルナは反射的に目を閉じた。
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熱が、来ない。
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恐る恐る目を開く。
炎は止まっていた。
正確には、アルトの前方数メートルで、左右へ割れていた。
見えない壁に川がぶつかり、両岸へ分かれるように。
轟々と燃えながら、彼の左右を流れていく。
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「……なに、これ」
「空間偏向です」
セラフィスが説明する。
「主様が前方空間の座標をずらし、熱線の進行方向を逸らしています」
「説明されても分かんない!」
「私も最初そうでした」
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炎が止む。
山頂には溶岩のような赤い筋が走り、岩盤が煙を上げている。
その中心で、アルトは服の裾一つ焦げていなかった。
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古龍の瞳に、初めて警戒が宿る。
知性があるのだろう。
相手が“餌ではない”と理解した目だった。
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龍が跳ぶ。
巨体に似合わぬ速度。
爪が振り下ろされる。
それは塔が倒れてくるような質量だった。
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アルトは半歩横へずれた。
爪が地面へ突き刺さり、山頂の岩盤が砕ける。
破片が飛び散る。
その破片の一つ一つを、ヴァルクが剣で斬り落としていた。無言で、当然のように。
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古龍が尾を薙ぐ。
空気が裂け、衝撃波が走る。
アルトは身を沈め、その下を滑るように潜る。
尾の表面を手で一度叩いた。
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次の瞬間、龍の巨体が傾いた。
「え?」
「重力軸をずらしました」
セラフィスが淡々と言う。
「軽く触れた箇所へ局所的な重量変化を与えています」
「それも説明されても分からない!」
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古龍が体勢を崩す。
その隙にアルトは間合いへ入った。
腰の剣へ手がかかる。
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ルナはその時、初めて理解した。
この人は、いつも手加減しているのだと。
街で歩く時も、話す時も、食事をする時も、教える時も。
ただ優しいのではない。
強すぎるから、静かにしているのだと。
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抜刀。
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音が遅れた。
先に光だけが走った。
細い一線。
白銀の軌跡が空を裂き、古龍の首元を通過する。
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時間が止まったように見えた。
龍も、風も、煙も。
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そして。
ずるり、と。
巨体の首が滑り落ちる。
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切断面は焼けても潰れてもいない。
あまりに鋭く、血すら遅れて噴き上がった。
山頂へ赤い雨が降る。
龍の身体が二歩ほど進み、崩れ落ちる。
地震のような振動が走った。
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静寂。
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風だけが吹いている。
さっきまで山を支配していた存在は、もうただの骸だった。
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アルトは剣を振り、血を払う。
鞘へ納める。
それで終わりだった。
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「……終わった?」
ルナが呆然と呟く。
「終わりました」
アルトが振り返る。
「怖かったですね」
「そ、それ今言う!?」
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セラフィスが古龍の死骸を見ながら言う。
「相変わらず雑に強いですね」
「語弊があります」
「ありません」
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ヴァルクは一度だけ頷いた。
それが最大級の称賛なのだろう。
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ルナはその場に立ち尽くしていた。
本物の強さとは、怒鳴ることでも、威張ることでも、力を見せつけることでもない。
圧倒的でありながら、静かで。
勝って当然のように振る舞い。
誰かを守るために前へ出るものなのだと。
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山頂の空は高く晴れていた。
古龍の影が消えた場所へ、光が差していた。




