第七話 才能の芽吹く山道
夜明け前の山は、世界から音を抜き取ったように静かだった。
空はまだ青黒く、東の端だけが薄く白んでいる。冷えた空気が肺へ入り、吐く息は白い。木々は風もなく、ただそこに立っている。
遠く、山頂付近から時折低い唸りが響いた。
龍の声だろう。
地の底を擦るような音だった。
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簡易陣の火を消し、一行は出発の支度を整える。
ルナはまだ眠たげな顔をしていたが、昨日より動きに迷いがない。
短剣の位置。杖の留め具。靴紐。荷袋の重心。
教わったことを自然に確認している。
「よく覚えていますね」
アルトが言う。
「忘れると怒られるから……」
「誰に」
ルナはそっとセラフィスを見た。
「心外です」
銀髪の執事は涼しい顔で答えた。
「私は理性的な指導者です」
「無言でため息つくじゃないですか」
「高度な教育技術です」
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山道は昨日より険しかった。
斜面は急になり、足場には湿った岩が混じる。木々の密度も増し、視界が狭い。
だが、魔物の気配は多い。
龍に押し出された下位・中位種が、この山腹へ滞留しているのだろう。
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最初に現れたのは、角兎型の魔物三体だった。
鹿ほどの大きさの身体に、異様に発達した前脚と鋭い角。跳躍力に優れ、突進で獲物を仕留める種だ。
ルナが身構える。
「今回は剣のみで」
ヴァルクが初めて口を開いた。
短く、低い声。
「……はい!」
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一体目が跳ぶ。
速い。
だがルナは昨日の狼戦より落ち着いていた。
真正面で受けず、半歩ずらす。
角が肩口を掠める瞬間、木剣を首筋へ打ち込む。
浅い。
だが体勢が崩れる。
「追うな」
ヴァルクの声。
ルナは反射的に止まる。
直後、二体目が死角から突っ込んできた。
「っ!」
慌てて伏せる。
頭上を角が通り過ぎた。
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「一体を見るな。場を見る」
ヴァルクはそれだけ言った。
自らは動かない。
助けもしない。
ただ、見ている。
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ルナは呼吸を整えた。
三体。位置。地面の傾き。木の根。
視界が広がる。
三体目が横から来る。
避けるのではなく、一歩前へ。
角の内側へ潜り込み、柄頭で鼻梁を打つ。
怯んだ瞬間、振り下ろし。
沈む。
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「よし」
ヴァルクが言った。
たった一言だった。
それだけでルナの顔が明るくなる。
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残り二体は連携してくる。
左右からの挟撃。
ルナは木の幹を背に取り、片側を潰す形で迎えた。
一体の角を剣で逸らし、膝へ蹴り。
もう一体には体当たりされるが、転びながら杖を抜く。
「風!」
小さな風圧が顔面へ当たり、魔物の視界がぶれる。
そこへ木剣を横薙ぎ。
二体とも倒れた。
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「はぁ……はぁ……」
「及第点です」
ヴァルクが頷く。
「ほんと?」
「本当だ」
その表情は変わらない。
だが、確かに認めていた。
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少し進んだ場所で休憩となる。
セラフィスが水筒を渡しながら言った。
「では次は魔法です」
「休憩じゃないの?」
「学びに休憩はあります。才能にはありません」
「怖い先生二人いる……」
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山道の脇に小さな崖地があった。
岩肌が露出し、的にちょうどいい。
セラフィスは杖も使わず、指先を上げる。
「魔法とは、現象を願うことではありません」
空気が揺れた。
次の瞬間、岩壁に直径一メートルの穴が空く。
音は遅れて響いた。
「構造を理解し、必要な魔力を流し、最短で結果へ至る行為です」
「いまの説明のあとにそれ見せるんですか?」
「視覚教材です」
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ルナは岩穴とセラフィスを交互に見た。
「私にはまだ無理……」
「無理かどうかは試してから決めなさい」
珍しく声が柔らかい。
「あなたには素質があります」
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ルナは杖を構える。
「風よ、集まって――」
「詠唱が長い」
「まだ途中!」
「無駄が多い」
「厳しい!」
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深呼吸。
昨日より短く。
風をイメージする。
押し出すのではなく、流れを作る。
「……風」
小さな圧縮弾が飛び、岩へ当たる。
ぱしん、と乾いた音。
欠片が散った。
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「今の感覚です」
セラフィスが言う。
「言葉に頼らず、構造を先に作る」
「構造……」
「理解できていますね」
「なんとなく」
「それで十分です。天才は“なんとなく”から始まります」
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そこからは驚くほど早かった。
火球は形が安定し、水弾は回転を覚え、風刃は薄く鋭くなる。
土壁はまだ歪むが、一度教えた修正点を次には直してくる。
ルナ自身が一番驚いていた。
「なんでできるの……」
「才能です」
セラフィスが即答する。
「そして素直さ。教えをそのまま吸収できる者は強い」
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アルトは少し離れた木陰から見ていた。
嬉しそうでもあり、静かでもある。
「主様」
セラフィスが近づく。
「予想以上です」
「ええ」
「数年単位の成長速度を数日で縮めています」
「そうでしょうね」
「驚かないのですか」
「最初から、そういう子だと思っていました」
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昼頃、群れの猿型魔物が現れた。
十体以上。
通常なら面倒な相手だ。
「実戦総合訓練です」
セラフィスが言った。
「さらっと言わないで!」
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ルナは走る。
木を使って視線を切る。
一体へ風弾。
二体目へ木剣。
三体目には足払い。
囲まれそうになれば位置を変える。
昨日の彼女なら泣きそうになっていた数だ。
今は違う。
考えながら動いている。
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取りこぼした個体が飛びかかる。
一閃。
ヴァルクが通り過ぎ、猿型が崩れた。
別方向から来る二体へ火線が走る。
セラフィスが無表情で焼いた。
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「ずるい!」
ルナが叫ぶ。
「補助です」
「助けすぎです!」
「死ぬよりは健全です」
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最後の一体をルナが倒した時、彼女は膝へ手をついて息を切らしていた。
汗だくで、髪は乱れ、腕も震えている。
それでも顔は笑っていた。
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「楽しい……」
自分でも信じられない言葉だった。
戦うことがではない。
できなかったことが、できるようになることが。
昨日の自分より、今日の自分が強いことが。
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山頂を見上げる。
雲の向こうで巨大な影が旋回している。
恐ろしい。
けれど、ただ怖いだけではなくなっていた。
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「本日の成績」
セラフィスが告げる。
「剣術、上々。魔法、優秀。座学、帰ってからです」
「最後いらない!」
「必要です」
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ヴァルクはルナの頭へ、不器用にぽんと手を置いた。
「伸びる」
それだけ言って歩き出す。
ルナは目を丸くし、それから照れたように笑った。
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才能は、種のままでは眠っている。
水をやり、土を耕し、陽を当てて初めて芽吹く。
そしてその芽は今、龍の待つ山道で確かに地を割っていた。




