第六話 山に棲むもの
依頼受諾の翌朝、王都はいつも通り動いていた。
市場には品が並び、荷馬車は列をなし、学院へ向かう学生たちは書物を抱え、鐘楼は時間を告げる。
だが、その“いつも通り”には綻びが出ていた。
北門付近の荷捌き場には、止まったままの荷車が目立つ。
商人たちは苛立ち、御者たちは空を見上げ、兵士たちは街道の状況確認に追われていた。
物流が滞っている。
王都ほどの大都市にとって、それは血流が鈍るのと同じことだった。
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「野菜が入らん!」
「北西街道は閉鎖だとよ!」
「山越えの商隊が二つ戻ってこない!」
怒号にも似た声が飛ぶ。
アルトたちは北門近くを歩きながら、その様子を静かに見ていた。
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「想像以上ですね」
アルトが呟く。
「王都の物資流通量は辺境都市の比ではありません」
セラフィスが即答する。
「一つの街道停止で市場価格が動きます。三日続けば不満、七日続けば混乱」
「数字で脅すのやめて」
ルナが言った。
「現実です」
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門前には昨日のギルド長ガレスが立っていた。
既に鎧姿で、数名の職員と兵士へ指示を飛ばしている。
一行を見ると、顎で招いた。
「来たか」
「お待たせしました」
「待ってはおらん。止まった荷車が待っている」
相変わらずの物言いだった。
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ガレスは簡易地図を広げる。
「北西街道はこの山脈を越える物流路だ。最短で王都へ入れるため商隊が多い」
指が山頂付近を叩く。
「三日前から飛行影あり。昨日、巡回隊が炎撃を受け撤退」
「炎」
ルナが顔を強張らせる。
「龍種の可能性が高い」
セラフィスが淡々と告げた。
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「確認したい」
ガレスはルナを見る。
「嬢ちゃんも行くのか」
ルナは一瞬迷い、アルトを見た。
アルトは何も言わず、選択を待つ。
その沈黙に押されるように、ルナは前を向いた。
「……行きます」
「危険だぞ」
「知ってます」
「泣いても知らん」
「泣きません」
少しだけ声が震えていた。
だが、逃げてはいなかった。
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ガレスは鼻を鳴らした。
「よし」
そしてアルトへ視線を戻す。
「教育方針が変わってるな」
「自立支援です」
「便利な言葉だ」
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出発準備は早かった。
携行食、水袋、応急薬、簡易寝具、地図。
セラフィスが不足なく整え、ヴァルクが荷を持ち、アルトはルナの装備を最終確認する。
革鎧は軽量。短剣一本。木剣一本。魔術媒介用の小杖。
「重くないですか」
「だいじょうぶ」
「緊張は」
「すごくしてる」
「正常です」
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北門を出る。
王都の巨大な城壁が背後へ遠ざかっていく。
振り返れば文明の象徴。前を向けば山と森。
人の世界と、そうでない世界の境目だった。
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街道には放棄された荷車もあった。
荷布だけ残り、馬は逃げたらしい。
車輪跡は途中で乱れ、地面には焼け焦げた痕まで残る。
ルナが小さく息を呑んだ。
「これ……龍が?」
「おそらく威嚇飛行か、試し撃ちですね」
セラフィスが答える。
「試し撃ち……?」
「獲物の様子見です」
「言い方がこわい」
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山道へ入るにつれ、人の気配は消えていった。
鳥の声も少ない。
風が木々を鳴らし、遠くで何かが枝を折る音がする。
自然は静かだが、沈黙ではない。
見えぬものたちが息づいている音だった。
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「ルナ」
アルトが歩きながら声をかける。
「はい」
「こういう場所で大切なのは何だと思いますか」
「……敵を探すこと?」
「半分正解です。もう半分は」
「……わかりません」
「自分を見失わないことです」
ルナは首を傾げた。
アルトは続ける。
「恐怖で視野が狭くなると、敵しか見えなくなる。すると足元の根で転び、仲間の位置を忘れ、呼吸も乱れます」
「……あ」
「ですので、怖い時ほど周囲を見るのです」
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ルナは深呼吸した。
木々。地面。風向き。仲間の位置。
さっきまで心臓しか感じていなかったのに、世界が戻ってくる。
「できましたか」
「少し」
「十分です」
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昼過ぎ、最初の魔物が現れた。
茂みを割って飛び出したのは灰狼型の中位種二体。
飢えているのか、目が血走っている。
ルナは反射的に杖を構えた。
「落ち着いて」
アルトの声。
「これはあなたの訓練です」
「えっ」
「一体を担当してください」
「ええっ!?」
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狼が跳ぶ。
ルナは咄嗟に横へ避け、転びかけながらも杖を向けた。
「風よ……!」
小さな風弾が狼の顔面へ当たり、軌道がずれる。
その隙に木剣で脇腹を打つ。
浅い。
だが怯んだ。
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もう一体はヴァルクの前へ出た。
一閃。
それだけだった。
狼は何が起きたか理解する前に地へ伏した。
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「比べないことです」
セラフィスがルナへ言う。
「彼は基準にしてはいけません」
「今の速さ見えなかった……!」
「正常です」
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ルナの相手は再び跳びかかる。
今度は恐怖より先に、教わった動きが出た。
半歩退く。視線を外さない。足を止める。
風弾。
木剣。
喉元への突き。
狼は崩れ落ちた。
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「……た、倒した?」
「ええ」
アルトが頷く。
「初戦にしては上出来です」
ルナはその場へ座り込みそうになる。
「足が震えてる……」
「それも正常です」
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さらに進むにつれ、魔物は増えた。
猪型、猿型、鳥型。
だがどれも本来の縄張りを捨て、山麓から逃げるように散っている。
「龍に押し出されていますね」
セラフィスが空を見た。
「生態系が乱れている」
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夕方近く、木々の切れ目から山頂が見えた。
黒い岩肌の峰。
その上空を、巨大な影が旋回している。
翼が陽を遮り、尾が雲を裂く。
遠目でも分かる圧倒的質量。
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「……あれが」
ルナの声が掠れた。
「龍です」
アルトは静かに答える。
恐れでも興奮でもなく、事実として。
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その時。
山頂から轟音。
次の瞬間、赤い火線が空を走り、遠くの岩壁を爆ぜさせた。
熱風が遅れて頬を打つ。
ルナは思わずアルトの背へ隠れた。
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「問題ありません」
アルトは振り返らず言った。
「まだ射程外です」
「問題ある音でしたけど!?」
「感想としては正しいです」
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日が傾く。
一行は山腹の安全地帯へ簡易陣を敷いた。
今夜はここで休み、明朝山頂へ向かう。
決戦は近い。
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焚火の前で、ルナは無言だった。
恐怖はある。
だが、逃げたいだけではない。
あの背中たちと同じ景色を見たいと思ってしまっている。
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「眠れそうですか」
アルトが隣へ座る。
「……ちょっとだけ」
「それで十分です」
「明日、こわい」
「ええ」
「でも、行きたい」
アルトは少しだけ目を細めた。
「成長しましたね」
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山頂では、巨大な影が夜空を巡っていた。
王都の灯火を遠く見下ろしながら。




