第四話 はじめての友だち
王都の朝は、音で目を覚ます。
辺境都市では鳥の声と荷馬車の軋みが朝を告げていたが、この街では違う。遠くで鳴る鐘楼の鐘。石畳を走る車輪の響き。通りへ流れ出す人々の話し声。開かれる店の扉。魔導灯の消える微かな音。
都市そのものが目を覚ます音だった。
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銀翼亭の窓辺で、ルナはその景色を見下ろしていた。
朝日に照らされた大通りを、整った制服の少年少女たちが歩いていく。商人は荷を運び、貴族の馬車は静かに通り過ぎ、衛兵は規律正しく巡回している。
「みんな忙しそう……」
「忙しいのでしょう」
後ろからアルトの声がした。
既に身支度を終え、いつもの落ち着いた表情で紅茶を手にしている。
「本日は学院試験日程の確認ですね」
「……緊張してきました」
「確認だけで?」
「その確認で緊張するんです」
「なるほど」
アルトは真剣に頷いた。
「繊細さというやつですね」
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食堂で朝食を済ませた後、一行は学院へ向かった。
王都学院――正式名称《王立総合高等学院》。
この国最高峰の教育機関であり、貴族子女、富裕商家、優秀な平民、地方推薦者など、多くの若者が集う場所だ。
魔法、武術、学問、礼法、政治、歴史。
未来の王国を担う人材がここで育つ。
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学院へ向かう道は、王都中央区よりやや落ち着いた区域にあった。
広い並木道。整えられた花壇。石造の塀。学生らしき若者たちの姿。
そして、やがて見えてくる。
「……学校?」
ルナが呆然とした。
「ええ」
セラフィスが淡々と答える。
「学校です」
「城じゃなくて?」
「学問の城、とも言えます」
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巨大な白亜の門。
広い前庭。
中央に噴水。
奥には塔を持つ本館、その左右に講義棟、訓練場、図書館、寄宿舎らしき建物まで見える。
学生たちが行き交い、教師らしき者が書類を抱え、使用人が庭を整えている。
ルナは無意識に一歩下がった。
「ここに……入るの?」
「予定では」
アルトが答える。
「無理かも……」
「入ってから悩めばよろしい」
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受付棟で試験日程を確認すると、答えは明快だった。
一週間後。
筆記試験、適性検査、実技試験。
受験者多数につき、今年も例年通りの三日制。
セラフィスは即座に必要書類と会場案内を確認し、帰路で勉強計画を組み始めた。
「本日から七日間で調整します」
「休みは」
「あります」
「いつですか」
「睡眠時です」
「それ休みって言うのかな……」
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学院を出た頃には、昼前になっていた。
空は明るく、風は穏やかで、人通りも賑やかだ。
「少し街を歩きましょう」
アルトが言う。
「試験確認だけで戻るのも味気ない」
「賛成です」
ルナは少し元気を取り戻して頷いた。
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王都の市場通りは、今日も華やかだった。
焼き菓子、果物、香辛料、衣服、魔道具、書物、装飾品。
露店が連なり、客引きの声が飛び交う。
ルナは見るものすべてに目を奪われる。
「これ全部、売ってるの?」
「商売とはそういうものです」
「これも?」
「はい」
「この光る石も?」
「はい」
「この動くぬいぐるみも?」
「……あれは私も少し欲しいですね」
セラフィスが珍しく真顔で言った。
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その時だった。
「きゃっ!」
小さな悲鳴。
人混みの向こうで、果物籠が倒れ、林檎が石畳へ転がっていく。
若い少女が慌てて追いかけていた。
年はルナと同じくらい。
栗色の髪を二つに結び、質素だが清潔な服を着ている。
「ご、ごめんなさい! すみません!」
彼女は謝りながら林檎を拾おうとするが、人の足が多くうまくいかない。
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ルナは反射的に駆け出していた。
「こっち!」
転がる林檎を拾い、次々と籠へ戻す。
ヴァルクも無言で二個拾い、セラフィスは踏まれそうなものを空間魔法で静かに寄せた。
数十秒後、すべて回収完了。
少女は目を丸くしていた。
「た、助かりました……!」
「だいじょうぶ?」
「う、うん! ありがとう!」
彼女の笑顔は、陽だまりのように明るかった。
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「私はミーナ!」
彼女は勢いよく名乗った。
「市場通りのパン屋の娘なの!」
「わ、私はルナ」
「旅の人?」
「うん。学院試験で来たの」
「えっ、すごい!」
距離が近い。
言葉が速い。
けれど嫌な感じはしなかった。
ルナは戸惑いながらも、自然と笑っていた。
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「お礼にこれあげる!」
ミーナは籠から小さな焼き菓子を取り出し、ルナへ押しつける。
「え、でも」
「助けてもらったから!」
「じゃ、じゃあ……ありがとう」
「うん!」
そのやり取りを少し離れて見ていたアルトは、何も言わず目を細めた。
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「主様」
セラフィスが小声で言う。
「はい」
「初対面一分で打ち解けました」
「良いことですね」
「ええ。私の礼儀講座より効果的かもしれません」
「嫉妬ですか」
「少々」
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ミーナはそのまま市場を案内し始めた。
焼きたてパンの店。
安くて美味しい果実水の屋台。
裏通りの猫だまり。
学院生がよく寄る文具店。
貴族街へ近づくと衛兵に怒られる近道。
「最後のは教えなくていい情報ですね」
アルトが言った。
「ついでだから!」
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ルナは笑っていた。
人見知りを忘れたように。
誰かと並んで歩き、同じものを見て、くだらない話で笑う。
それは彼女にとって、初めてに近い経験だった。
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「ルナって、前から王都に住んでたんじゃないの?」
「ちがうよ。遠くから来たの」
「へぇー! でも話しやすい!」
その言葉に、ルナは少しだけ足を止めた。
話しやすい。
そんなふうに言われたことはなかった。
以前の自分は、人を避け、人を恐れ、声も出せなかったのだから。
「……ほんと?」
「ほんと!」
ミーナは即答した。
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夕方近く、別れの時間が来る。
「また会える?」
ミーナが問う。
ルナは少し考え、それからしっかり頷いた。
「うん」
「学院受かったら絶対教えてね!」
「うん!」
「じゃあね!」
手を振り、少女は市場の人波へ消えていった。
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帰り道。
ルナはもらった焼き菓子を大事そうに持って歩いていた。
「楽しかったですか」
アルトが問う。
「……うん」
「それは何よりです」
少しの沈黙。
そしてルナは、小さく続けた。
「友だち……って、ああいう感じかな」
アルトはすぐには答えなかった。
考えるように空を見上げ、それから穏やかに言う。
「たぶん、そういうものです」
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銀翼亭へ戻る頃、王都の魔導灯が灯り始めていた。
昼の賑わいとは違う、夜の華やぎが街を包む。
ルナは窓辺からその光を見下ろしながら、今日のことを思い返していた。
怖くない会話。
自然な笑顔。
また会いたいと思える相手。
人付き合いとは、もっと難しく苦しいものだと思っていた。
けれど、そうではない形もあるのだと知った。
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「主様」
セラフィスが学習計画表を持って現れる。
「本日より対人会話訓練も加えます」
「容赦ないですね」
「成長期ですので」
ルナは吹き出した。
その笑い声は、昨日より少しだけ自然だった。




