第三話 王都、光の海
旅路の朝は、いつも空から始まる。
宿場町を出た一行の頭上には、雲ひとつない青が広がっていた。昨夜の雨が空気を洗い流したのか、遠くの稜線までも鮮やかに見える。
街道は緩やかな丘を越え、その先へ伸びている。
王都は、もう近い。
そう聞かされてからルナは、朝から落ち着きがなかった。
何度も前方を見ては、まだ見えないと肩を落とし、また数分後には同じことを繰り返す。
「見えませんね……」
「まだ丘の向こうです」
アルトが穏やかに答える。
「見えませんね……」
「先ほども同じ会話をしました」
「緊張してるんです」
「なるほど」
アルトは真顔で頷いた。
「それは仕方ありません」
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セラフィスは横で小さな手帳を開いていた。
「王都到着後の予定を確認いたします」
「もう少し情緒というものを」
「宿へ荷物搬入、学院試験日程確認、生活用品補充、衣類採寸候補選定――」
「止まりませんね」
「止める理由がありません」
ヴァルクは無言のまま歩いている。
だが彼も、ほんの僅かに視線を遠くへ向けていた。
王都。
この国の中心。
戦士にとっても、一つの舞台である。
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やがて丘を越えた時、ルナは足を止めた。
「……え」
それしか言えなかった。
眼下に広がっていたのは、都市という言葉だけでは足りぬ景色だった。
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巨大な城壁。
灰白色の石で築かれたそれは、山脈のように地平へ続いている。塔楼が等間隔にそびえ、旗が高く風を裂いていた。
壁の内側には無数の建物群。
尖塔、鐘楼、屋敷、商館、庭園、煙突。
その中央には、白金のような輝きを放つ王城があった。
高く、美しく、威厳に満ちている。
まるで都市全体が、その城を中心に呼吸しているようだった。
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「……大きい」
ルナが呟く。
「はい」
アルトも静かに答えた。
「世界最大級の都市、王都ソルレイアです」
「街っていうより……国みたい」
「概ね正しい認識です」
セラフィスが補足する。
「人口は辺境都市ルゼルスの数十倍。物流、政治、学術、軍事、魔法研究の中枢。国の心臓部ですね」
「しんぞう……」
「止まれば国が死にます」
「急に怖い説明しないでください」
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丘を下り、王都へ向かう街道へ入る。
そこは既に人と荷車と馬車で溢れていた。
地方商人、巡礼者、冒険者、役人、貴族の馬車、旅芸人、農民、異国風の商隊。
服装も言葉も様々で、まるで国中の人間がここへ集まっているかのようだった。
ルナはその多さに、アルトの袖をそっと掴む。
以前なら怯えて離れなかった行為だ。
今は迷子にならぬため、自然にそうしていた。
その変化に、アルトは気づいていた。
だが何も言わず、そのまま歩幅を少し緩めた。
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王都正門は、城門と呼ぶにふさわしい規模だった。
二重の門扉。高い見張り塔。整列する兵士たち。魔力検知用の水晶柱。
荷車の列が順に検査を受け、身分証や通行証が確認されていく。
「厳しいんですね」
ルナが小声で言う。
「首都ですので」
セラフィスが答える。
「盗賊も、密輸商も、他国の間者も、全て集まります」
「まものより怖い……」
「人の方が手間です」
アルトが遠い目をした。
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一行の番が来る。
兵士長らしき男が近づき、視線を巡らせた。
アルト。セラフィス。ヴァルク。ルナ。
どう見ても普通ではない組み合わせである。
「目的は」
「学院試験、および滞在です」
アルトが丁寧に答える。
「保護者の方ですか」
「ええ、まあ、そのようなものです」
兵士長はルナを見る。
「お嬢さん、間違いないかな」
ルナは少し緊張しながら頷いた。
「……はい」
兵士長はそれ以上問わず、道を開けた。
「通れ」
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門をくぐった瞬間、ルナは再び言葉を失った。
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石畳の大通り。
幅広い道の両脇には、四階建て五階建ての石造建築が並ぶ。窓には色硝子。看板には魔導灯。花籠が吊られ、噴水があり、広場には大道芸人が火を操っている。
空中には小型の光球が浮かび、昼間だというのに装飾のように輝いていた。
「な、なにこれ……」
「魔導灯です」
セラフィスが即答する。
「夜間照明兼景観設備。王都では一般的です」
「空に灯り浮いてるのが一般的……?」
「文明とはそういうものです」
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香りも違った。
焼き菓子の甘い匂い。香辛料。香水。花。磨かれた石と水の匂い。
聞こえる音も違う。
馬車の車輪。笑い声。楽器の音。商人の呼び込み。遠くの鐘。
辺境都市ルゼルスが“生きる街”なら、ここは“栄える街”だった。
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「迷子になりそうです」
「なります」
セラフィスが言った。
「ですので離れないように」
「断言しましたね」
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通りを進むうち、景色はさらに変わっていく。
中央商業区を抜けると、人通りは落ち着き、建物の格が変わった。
広い敷地。
高い塀。
整えられた庭園。
門前に控える使用人や騎士。
「ここは?」
「貴族街です」
セラフィスが答える。
「王都でも上流階級が住まう区域。土地代だけで辺境都市の家が何軒も建ちます」
「意味わかんない……」
ルナは本気で理解不能という顔をした。
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一台の豪奢な馬車が通り過ぎる。
窓越しに見えた貴婦人は、宝石のような装いをしていた。
ルナは思わず自分の服を見る。
旅装束。実用的で、丈夫で、清潔だ。
だが比べれば質素に見える。
その小さな仕草に、アルトは気づいた。
「ルナ」
「……はい」
「服は人を守りますが、人の価値を決めません」
ルナは顔を上げる。
「あなたが着ているその服は、歩き、学び、生きるためのものです。十分に立派ですよ」
少しの沈黙。
「……うん」
彼女は照れくさそうに頷いた。
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やがて一行は、宿泊予定の宿へ着く。
白い石造りの建物。
三階建て。
玄関前には噴水。扉には金細工。制服姿の従者が待機している。
看板には《銀翼亭》。
王都でも高級宿として知られる場所だった。
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「……ここ?」
ルナが立ち止まる。
「ここです」
「わたしたちが?」
「ええ」
「なんで?」
「安全と静穏と教育環境です」
セラフィスが当然のように答える。
「安宿は騒がしい。中級宿は微妙。高級宿は静かです」
「値段は」
「聞かぬが花です」
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中へ入ると、床は磨かれた大理石だった。
天井にはシャンデリア。香木の香り。静かな弦楽。受付の所作まで洗練されている。
ルナは歩き方が分からなくなった。
「足音していいのかな……」
「床ですので問題ありません」
アルトが真顔で答えた。
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部屋は二室続きの上等な客室だった。
大きな窓。柔らかな寝台。専用浴室。書机。暖炉。街を見下ろす景色。
ルナは寝台へ恐る恐る手を置き、次に押し、最後に顔から飛び込んだ。
「やわらかっ……!」
その声に、珍しくヴァルクが口元を緩めた。
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窓の外では、王都の夕景が始まっていた。
魔導灯が一つ、また一つと灯る。
街路は黄金に染まり、城は夕日に輝き、人々は夜の賑わいへ流れていく。
都市そのものが、星空になるようだった。
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「すごいね……」
ルナが窓辺で呟く。
「ええ」
アルトも隣に立つ。
「世界は広いでしょう」
「うん」
「そして、まだ半分も見えていません」
ルナはその言葉に胸が高鳴るのを感じた。
怖さもある。
けれどそれ以上に、知りたいと思った。
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辺境で生き延びた少女が、世界最大級の都市へ立つ。
その小さな背中に、まだ誰も知らぬ未来が乗っていた。




