第二話 学びの道、風の中で
旅は、歩くだけのものではない。
地図の上では一本の線に過ぎぬ街道も、実際に進めば幾つもの表情を持っている。朝露に濡れた草原、昼の陽に白く乾いた石畳、夕暮れに影を伸ばす林道、夜の帳に沈む野営地。
そして、そのすべてが時間だった。
時間とは、ただ過ぎるものではない。
使うものだ。
少なくとも、セラフィスにとっては。
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「主様。ルナ様。起床のお時間です」
夜明け前の宿屋で、静かな声が響いた。
窓の外はまだ薄青く、鳥の声すら目覚めきっていない。
だがセラフィスは既に整った執事服を纏い、紅茶の香りを連れて立っている。
「早くありませんか」
寝台の上でアルトが目を細める。
「遅いくらいです」
「旅人の朝とは思えませんね」
「学徒の朝です」
有無を言わせぬ返答だった。
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ルナは毛布の中でもぞもぞと丸くなっていた。
「……あとちょっと」
「その“あとちょっと”が人を堕落させます」
「だらくってなんですか」
「今の状態です」
ルナはしばらく考え、それから渋々起き上がった。
寝癖のついた髪のまま欠伸をする姿は、まだ年相応の少女だった。
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朝食前の一時間は、読み書きの時間となった。
宿の食堂の片隅。まだ客も少ない静かな卓上に、板と紙束が広げられる。
「本日は地理名詞です。王都周辺の都市名を十個」
「じゅ、十個……」
「旅の最中だからこそ実践的です」
セラフィスは容赦がない。
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ルナは舌先を少し出しながら、慎重に文字を書く。
王都ソルレイア。
東方港湾都市ミレナス。
学術都市レクシオン。
農業都市ファルネ……
拙さは残る。だが線は迷わず、文字の形も既に整い始めていた。
数か月前、名前すら書けなかった少女とは思えぬ速度だった。
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「早いですね」
アルトが感心したように言う。
「記憶定着率が高すぎます」
セラフィスは紙面を見つめたまま答えた。
「通常、昨日教えたものは三割ほど抜けます。ルナ様は一割も抜けていない」
「褒めていますか」
「事実を述べています」
ルナは少しだけ胸を張った。
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朝食後、一行は再び街道へ出た。
春の陽はやわらかく、空は高い。旅人たちの列が前後に続き、馬車の車輪が乾いた音を立てる。
ルナは歩きながら、昨夜覚えた都市名をぶつぶつ復唱していた。
「努力家でもありますね」
アルトが言う。
「才能ある者が努力するのは反則です」
セラフィスの言葉に、ヴァルクが珍しく短く笑った気がした。
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午前中は礼儀作法の時間となった。
「王都学院には貴族子女も多く在籍します」
セラフィスが歩きながら説明する。
「ゆえに最低限の礼節は必要です。まず、歩き方」
「歩き方?」
「はい。背筋。視線。足運び」
ルナは言われた通り姿勢を正す。
すると不思議なことに、少しだけ自分が違う人間になった気がした。
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「次に挨拶」
セラフィスは優雅に一礼する。
風に揺れる銀髪さえ計算されているようだった。
「お初にお目にかかります。ルナ・アル――」
彼は一瞬止まり、にこやかに言い直した。
「ルナ様、どうぞ」
ルナは首を傾げる。
「なんで止まったんですか」
「お気になさらず」
アルトは咳払いをして空を見た。
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ルナは見よう見まねで礼をする。
浅い。
頭だけ下がっている。
「腰からです」
「こう?」
「そうです。視線は落としすぎず」
「むずかしい……」
「貴族は姿勢で半分判断します」
「やだなぁ」
率直な感想だった。
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昼前、小川のほとりで休憩となる。
ヴァルクが水を汲み、アルトが食料を分け、セラフィスは紙束を広げた。
「休憩では?」
「魔法理論の休憩です」
「意味がわかりません」
アルトが真顔で言った。
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「魔法とは何か」
セラフィスは小石を一つ摘み上げる。
「イメージ、魔力、構造理解。この三つで成り立ちます」
小石がふわりと浮く。
次いで、水面へ静かに落ちる。
「浮かせたいと願うだけでは足りない。どう浮かせるか理解し、必要量を流し、形を保つ」
ルナは真剣な目で見ていた。
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「では、火球を出すには?」
「火を……作る?」
「半分正解です。熱、燃焼、形状、飛翔。そこまで意識できれば上達が早い」
「そんなに考えるんだ……」
「考えず撃てる者は天才です」
そこでセラフィスはルナを見た。
「……まあ、世の中にはいますが」
アルトは聞こえないふりをした。
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ルナは掌を前へ出す。
小さく息を吸う。
熱。
灯り。
丸い形。
ぱち、と火花が散った。
次の瞬間、豆粒ほどの火が生まれて消えた。
「出た!」
ルナが跳ねる。
アルトも拍手した。
「素晴らしい」
「早すぎません?」
セラフィスが真顔になった。
「初歩魔法の感覚習得に通常数日、早くて半日です」
「今、十分ほどでしたね」
「……少々腹立たしいですね」
「褒めていますか」
「半分ほど」
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午後は武術基礎。
街道脇の草地で、ヴァルクが木剣を構える。
「足」
それだけ言う。
ルナは構える。
「違う」
「えぇ……」
「腰」
「えぇ……」
「肩」
「いっぱいある!」
珍しくヴァルクの口数が多い。
それだけ真剣なのだろう。
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彼の指導は簡潔だった。
だが的確だった。
一つ直されるたび、木剣は振りやすくなる。足は安定し、視界が広がる。
身体というものは、正しく使えばこんなにも軽いのかとルナは驚いた。
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「打て」
ルナが振る。
木剣同士がぶつかる。
衝撃で手が痺れる。
だが以前のように落とさない。
「もう一回」
振る。
「もう一回」
振る。
「もう一回」
「鬼……」
アルトが遠くで茶を飲みながら言った。
「良い教育です」
「他人事ですね」
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夕刻、街道の先に王都方面から来た豪奢な馬車列が見えた。
紋章付きの車体。護衛騎士。磨かれた鎧。
道を譲るため、一行は端へ寄る。
馬車の窓が少し開き、中から同年代らしき少女が外を覗いた。
白い肌。整った衣服。高貴な育ちが一目で知れる。
彼女はルナと目が合うと、不思議そうに瞬いた。
そして小さく手を振った。
ルナは慌てて振り返した。
馬車はそのまま去っていく。
「誰だったんでしょう」
「貴族関係でしょうね」
セラフィスが淡々と答える。
「王都では珍しくありません」
ルナは去る馬車をしばらく見ていた。
同じくらいの年頃に見えた。
けれど世界が違うようにも思えた。
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その夜、宿へ着く頃にはルナの足取りは重くなっていた。
学び、歩き、戦い、考える。
一日は長い。
食堂で椅子へ座るなり、彼女は卓へ突っ伏した。
「つかれた……」
「よく頑張りました」
アルトが頭を撫でようとして、途中で止める。
まだ完全に慣れていないことを思い出したのだろう。
だがルナは自分から少しだけ頭を寄せた。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
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食後、セラフィスは今日の記録を紙へまとめていた。
「どうでした」
アルトが問う。
「想定以上です」
珍しく即答だった。
「文字習得速度、魔法感覚、身体操作。いずれも高水準」
「学院でも通じますか」
「ええ」
セラフィスは静かに頷く。
「むしろ、上位層でしょう」
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ルナは窓辺で星を見ていた。
遠い王都の空も、きっと同じ星が浮かんでいる。
そこへ行く。
学ぶ。
知らない人々に会う。
少し怖い。
けれど以前の恐怖とは違った。
これは、扉の前に立つ怖さだった。
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「眠る前に一つ」
セラフィスが声をかける。
「王都学院で最も大切なことを教えましょう」
「なに?」
「周囲に流されないことです」
「なんで?」
「天才も凡才も、貴族も平民も、皆が自分を大きく見せたがる場所です」
彼は微笑んだ。
「ルナ様は、ルナ様のままでよろしい」
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ルナは少し考え、それから頷いた。
「……うん」
その返事は小さかったが、確かな芯があった。
旅の道はまだ続く。
だが少女の中では、もう新しい世界への歩みが始まっていた。




