第二部 第一話 春風の道、旅立ちの朝
朝の光は、街の屋根をやわらかく撫でていた。
ルゼルス辺境都市の朝は早い。夜明けとともに荷馬車が軋み、商人たちが戸を開け、パン屋の煙突から白い煙が立ちのぼる。冒険者たちは昨夜の酒気を引きずったまま欠伸をし、警備兵は交代の槍を肩にして門へ向かう。
どこにでもある、いつもの朝。
けれど、白樺亭の前だけは少し違っていた。
見送りに来た者たちが、思ったより多かったからだ。
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「本当に今日、出るんですね……」
受付嬢リミアは、両手を胸の前で握りしめながら言った。笑顔を作っているが、目元にはうっすらと眠れなかった跡がある。
「昨日のうちに何度も申し上げましたが、はい」
アルトは穏やかに答えた。
「そういう問題じゃないんです」
即座に返され、セラフィスが小さく肩を揺らした。
「主様。女性の言葉には、文字通りの意味と感情的な意味の二種類があります」
「難しいですね」
「学習なさってください」
「努力します」
そのやり取りに、周囲から笑いが漏れる。
リミアは頬を膨らませながらも、少しだけ安心したようだった。
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ヴァルクは既に荷の確認を終えていた。
旅用の背嚢。乾燥食。水袋。替えの衣服。簡易寝具。手入れ済みの剣。必要なものは無駄なく整えられている。
彼は無言で頷き、アルトへ「問題なし」と伝える。
その簡潔さは相変わらずだった。
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ルナは新しい旅装束を着ていた。
動きやすい生成りの上着に、深い青の外套。足元は丈夫な革靴。腰には木剣。髪はセラフィスに整えられ、以前の痩せ細った影はもうそこにはない。
まだ幼さの残る顔立ちではあるが、その瞳には確かな光が宿っていた。
ただし今は、少しだけ不安げに門の方を見ている。
「怖いですか」
アルトが隣で問う。
ルナは小さく首を横に振り、それから少し考えて、今度は縦に振った。
「……ちょっと」
「正直でよろしい」
アルトはそう言って微笑んだ。
「怖くても構いません。進めば、それは経験になります」
ルナはその言葉を胸の中で繰り返し、こくりと頷いた。
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白樺亭の女将が大きな包みを抱えて出てきた。
「ほら、道中で食べな!」
「これは……多いですね」
「育ち盛りが二人いるだろ」
「二人?」
「ルナちゃんと、あんたのことだよ」
周囲がまた笑う。
アルトは一瞬だけ考え込み、
「私、育っておりますか?」
「面倒くさい返しをするんじゃないよ」
女将は包みを押しつけるように渡した。
その乱暴さの奥に、別れを惜しむ温かさがあることを、ここにいる誰もが知っていた。
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やがて、ギルド長シルヴェスターが姿を見せた。
朝だというのに酒臭い。
「見送りに来てやったぞ」
「まだ飲んでおられるのですか」
「違ぇ。昨日から抜けてねぇだけだ」
「それを世間では同義と呼びます」
セラフィスの言葉に、ギルド長は鼻を鳴らした。
それから懐から封書を取り出し、アルトへ差し出す。
「王都ギルドの知り合い宛だ。持ってけ」
「紹介状ですか」
「似たようなもんだ。あっちのギルド長は疑り深ぇ。お前らみてぇなのが突然現れたら面倒になる」
「助かります」
「礼はいらん。王都でも騒ぎ起こすなら、せめて俺の知らねぇところでやれ」
「善処します」
「その返事が一番信用ならねぇ」
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門が開く。
朝の街道へ、薄い春霞が伸びていた。
遠くの丘はやわらかな緑に覆われ、鳥の声が風に混じる。冬の名残はもう土の奥へ沈み、世界は新しい季節の匂いをまとっていた。
アルトたちは歩き出す。
見送る人々の声が背後から飛ぶ。
「また来いよ!」
「王都でも元気でね!」
「ルナちゃん頑張って!」
「ヴァルクさん、結婚して!」
最後の一言だけ、誰が言ったのか分からなかった。
ヴァルクは無反応だった。
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街を出てしばらくは、誰も口数が少なかった。
別れの余韻というものは、歩く足音に静かに混ざる。
やがてルナが振り返る。
城壁が小さくなっていく。
あの街で、彼女は恐怖を知り、救いを知り、言葉を取り戻した。
決して長くはない日々だったが、人生の形を変えるには十分だった。
「また来れますか」
ルナが問う。
「もちろんです」
アルトは迷わず答える。
「場所は逃げません。人も、案外しぶといものです」
ルナは少し笑った。
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街道はなだらかな丘陵を縫うように続いていた。
両脇には畑が広がり、麦の若芽が風に波打っている。農夫たちが鍬を振るい、子どもたちが犬を追って走る。
最果ての森とは違う景色だった。
あの森では、音は生き残るための情報だった。葉擦れは接近の兆し。沈黙は捕食者の気配。風向きひとつにも意味があった。
だが今、風はただ風として吹いている。
それだけで、世界はこんなにも穏やかに見える。
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「主様」
セラフィスが歩きながら口を開く。
「はい」
「そろそろ読み書きの復習を」
「歩きながらですか」
「歩きながらです」
「旅情がございませんね」
「学びに場所は関係ありません」
ルナは少し緊張しながら背筋を伸ばした。
セラフィスは小さな板と炭筆を差し出す。
「では、“王都”と書いてみましょう」
ルナは慎重に線を引く。
まだ拙い。だが数か月前には、自分の名すら書けなかった少女だ。
その成長を、アルトは横目に静かに見ていた。
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昼前、街道脇の木陰で休憩を取る。
女将の包みを開けば、焼きたての香りがまだ残るパンと燻製肉、野菜の酢漬けが現れた。
「完璧ですね」
「女将殿は偉大だ」
珍しくヴァルクが言い、ルナが目を丸くする。
「ヴァルクさんも喋るんですね」
一瞬、空気が止まった。
アルトが咳払いで笑いを堪える。
セラフィスは優雅に目を伏せた。
ヴァルクは数秒黙った後、
「……喋る」
とだけ答えた。
ルナは声をあげて笑った。
その笑い声は春の木漏れ日に似て、柔らかく澄んでいた。
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午後、道は林へ入った。
木々の影が揺れ、湿った土の匂いが濃くなる。小鳥のさえずりの合間に、低い唸り声が混じった。
茂みから現れたのは灰毛狼が三頭。
辺境では珍しくもないが、一般人には脅威となる魔物だ。
ルナの肩がわずかに強張る。
「どうしますか」
アルトが問う。
「……やってみたいです」
小さな声だったが、確かな意思があった。
「では一頭。危険なら介入します」
ヴァルクが木剣を渡す。
ルナは前へ出た。
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狼が低く身を沈め、飛びかかる。
ルナは恐怖に足を止めかけた。だが次の瞬間、ヴァルクの声が飛ぶ。
「見るな。読む」
意味は完全には分からない。
それでも身体が動いた。
横へ半歩。
牙が空を切る。
木剣を振り下ろす。
鈍い音。
狼が転がる。
すぐさま二撃目、三撃目。
やがて動かなくなった。
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息を荒げるルナの前で、残る二頭は既に地に伏していた。
いつヴァルクが動いたのか分からない。
「……勝った」
ルナが呟く。
「ええ」
アルトは頷く。
「以前のあなたなら、目を閉じていたでしょう」
ルナは自分の手を見る。
震えている。
だが逃げなかった。
その事実が、何より嬉しかった。
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夕暮れ、最初の宿場町へ着く。
石造りの小さな町で、旅人相手の宿が並んでいた。煙突から上がる煙は夕焼けに溶け、窓には暖かな灯りがともる。
人の営みの匂いがした。
焼ける肉。煮込むスープ。洗われた布。笑い声。疲れた馬の鼻息。
ルナは忙しなく周囲を見回す。
見るものすべてが新しい。
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宿に入り、部屋へ荷を置く。
簡素だが清潔な部屋だった。
「今日はここまでです」
アルトが椅子へ腰を下ろす。
「明日も歩きます。王都はまだ遠い」
「どれくらいですか」
「道が順調なら十日ほど」
ルナは目を見開いた。
「そんなに」
「旅とはそういうものです」
アルトは窓の外を見る。
沈む夕日が、遠い雲を赤く染めていた。
「急げば景色を失います。焦らず行きましょう」
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夜、食堂で夕食を取りながら、旅人たちの話が耳に入る。
王都では祭りが近いこと。
学院試験の季節で人が増えていること。
最近、山で龍の目撃談があること。
遠くの噂が、彼らの進む先で現実になって待っている。
アルトは静かに耳を傾けた。
セラフィスは情報を整理し、
ヴァルクは周囲を警戒し、
ルナはただ、少し眠そうにスープを飲んでいた。
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部屋へ戻る頃には、彼女の瞼は重く落ちかけていた。
「疲れましたか」
「……ちょっとだけ」
「正直でよろしい」
アルトは以前と同じ言葉を返す。
ルナは笑って、そのまま寝台へ倒れ込んだ。
数秒後には寝息が聞こえる。
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窓の外では春の風が吹いていた。
街を離れ、道を歩き、知らない場所で眠る。
それは不安でもあり、希望でもある。
アルトは眠る少女を見て思う。
人は一人でも生きられる。
だが、誰かと歩く道には、一人では見えない景色があるのかもしれない。
まだ答えは出ない。
それでも、旅は続く。
春風の向こうへ。




