第二十話 夜を染めたもの
あの夜のことを、ルゼルス辺境都市の者たちは長く忘れなかった。
空が、光った夜だ。
雷でもない。
火災でもない。
祭りの灯りでもない。
街そのものが、見えない何かに照らされたような夜だった。
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一 ギルド長シルヴェスター
冒険者ギルドの執務室で、シルヴェスターは帳簿と睨み合っていた。
「なんで討伐報酬ってのは出ていく時だけ早ぇんだ……」
机に肘をつき、太い指で額を押さえる。
上位種襲撃の後始末、負傷者の補償、壊れた柵や門の修繕費、臨時警備費用。
街を守るというのは、金のかかる仕事だった。
そこへさらに、奴隷商人の裏組織摘発に伴う混乱まで加わっている。
「ったく、あの三人組が来てから街が退屈しねぇ」
そう言いつつ、口元には笑みがあった。
腐った膿をまとめて吹き飛ばしたような数日だったからだ。
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その時だった。
空気が、重くなった。
最初は錯覚だと思った。
酒でも残っているのかと。
だが次の瞬間、机の上の羽ペンがかたかたと震えた。
窓枠が軋む。
ランプの火が横へ流れる。
「……なんだ?」
立ち上がる。
胸の奥を見えない手で押さえつけられるような圧迫感。
戦場で、格上の魔物と対峙した時に近い。
理屈ではなく、本能が警鐘を鳴らしていた。
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シルヴェスターは窓を開け放った。
夜の街が見える。
人々が通りで立ち止まり、空を見上げていた。
そして、見えた。
街の上空に、薄く揺らめく光の膜。
色はない。
だが魔力感知のある者なら分かる。
濃すぎる魔力が、視認できるほど漏れ出している。
「……馬鹿な」
彼の喉が乾いた。
これほどの量を、自然現象で説明できるはずがない。
人為だ。
誰かの魔力。
それも、常識の外側にいる何者かの。
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そして、思い当たる顔は一つしかなかった。
「……あいつか」
黒髪の青年。
穏やかで礼儀正しく、面倒事を避けたがる男。
だが時折、底の見えない静けさを見せる男。
シルヴェスターは舌打ちした。
「抑えててこれかよ」
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恐怖はあった。
だが同時に、妙な納得もあった。
あの男ならあり得る。
そう思わせるだけの違和感が、最初からあった。
「ったく……」
ギルド長は腕を組み、夜空を睨む。
「敵に回したくねぇ男だ」
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二 冒険者たち
その頃、酒場併設のホールでは宴の残り香が漂っていた。
上位種討伐の話で盛り上がり、酔った冒険者たちが杯を鳴らしていた。
「ヴァルクの剣、見たか?」
「足だけ斬って止めるとか化け物だろ」
「セラフィスの回復もやべぇ」
「アルト? あいつ最後に一撃入れただけだろ」
「一撃で終わってんだよ!」
笑い声が広がる。
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その最中、誰かの杯が机から落ちた。
がちゃん、と割れる。
「おい何して――」
言いかけた声が止まる。
床が微かに震えていた。
空気が重い。
酔いが一気に醒めるような冷たさが背筋を走る。
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「な、なんだこれ……」
「魔物か!?」
「違う……外だ!」
冒険者たちは一斉に飛び出した。
通りに人が溢れている。
誰もが空を見上げていた。
街の上に、淡い魔力の揺らぎ。
呼吸するように膨らみ、収まり、また揺れる。
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「冗談だろ……」
「これ、人間の魔力か?」
「災害級魔物でもここまでねぇぞ……」
普段威勢のいい男たちの声が震える。
ベテランほど顔色が悪い。
力量差を知る者ほど、これは戦ってはいけないものだと理解できた。
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若い冒険者が青ざめて呟く。
「逃げた方がいいか……?」
隣の古株が即座に首を振った。
「馬鹿言え」
「でも!」
「逃げられる相手なら、とっくに逃げてる」
その一言で沈黙が落ちた。
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やがて誰かが、恐る恐る口にした。
「……これ、アルトたちの宿の方角じゃねぇか?」
全員の顔が引きつる。
「まさか」
「いや、でも」
「……あり得る」
否定できない。
あの三人なら、あり得ると思ってしまう。
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「何したんだよ、あいつら……」
誰かの呟きに、別の誰かが答えた。
「逆だろ」
「は?」
「何かされたんだよ。あいつらに」
その言葉に、皆が妙に納得した。
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三 受付嬢リミア
ギルドの受付カウンターで、リミアは書類整理をしていた。
夜勤の時間帯。
怪我人の報告、依頼達成の確認、明日の準備。
忙しいが慣れた仕事だった。
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突然、インク壺が波打った。
「え?」
次いで、棚の書類がぱらぱらと落ちる。
ランプの火が揺れた。
胸がざわつく。
嫌な予感がした。
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外へ飛び出す。
空を見上げる。
瞬間、息を呑んだ。
「……きれい」
思わず漏れた言葉だった。
恐ろしいほど濃密な魔力なのに、夜空には幻想的に広がっている。
星のない空へ、透明な光が満ちるように。
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だが次の瞬間、彼女の顔色が変わる。
「って、綺麗じゃないです!」
方角が分かったからだ。
白樺亭。
アルトたちの宿の方角。
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「何かあったんですか!?」
走り出しかけて、足が止まる。
もし本当にアルトの魔力なら、自分が近づいてどうなる。
何の役にも立てない。
むしろ巻き込まれる。
理性が止める。
感情が進めと言う。
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結局、彼女はその場で祈るしかなかった。
「無事でいてください……」
胸の前で手を組む。
冒険者たちの喧騒の中、一人だけ真剣な顔で。
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そして翌朝。
何事もなかったようにギルドへ現れたアルトを見て、リミアは机を叩いた。
「何があったんですか!?」
「少し感情的になりまして」
「少し!?」
「はい」
「街が光ってましたよ!?」
「申し訳ありません」
「規模の問題です!」
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セラフィスが横から微笑む。
「主様は繊細なのです」
「繊細な人は街を発光させません!」
ヴァルクは腕を組んだまま一言。
「いつもより控えめだった」
「基準がおかしいです!」
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ギルド中が笑いに包まれる。
だがその笑いの奥で、誰もが理解していた。
あの穏やかな青年は、
この街全体よりも遥かに危険で、
そして同時に、遥かに頼れる存在なのだと。




