第十九話 ことばになるまで
言葉は、怖いものだった。
ルナにとって、ずっとそうだった。
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声を出せば見つかる。
泣けば怒られる。
嫌だと言えば殴られる。
痛いと言えば笑われる。
助けてと言っても、誰も来ない。
だから声は、役に立たなかった。
口を開くことは、自分の居場所を教えることだった。
黙っていれば少しだけ傷が減る。
何も言わなければ、心も少し守れる。
そうやって、言葉は身体の奥へ沈んでいった。
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最初の頃、ルナはこの宿でも喋らなかった。
喋れなかった、の方が近い。
口の動かし方を忘れたわけではない。
ただ、声を出す前に胸が締めつけられ、喉が固まり、息が細くなる。
言葉になる前に、恐怖が先に来るのだ。
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それでも、ここは前の場所と違った。
誰も急かさない。
誰も怒鳴らない。
失敗しても手は飛んでこない。
食べ物を隠しても、叱られない。
眠れなくても、責められない。
泣いても、見ないふりをしてくれる。
その優しさが、最初は分からなかった。
次に怖くなった。
最後に、少しだけ温かくなった。
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セラフィスは静かな人だった。
よく喋るのに、うるさくない。
紅茶の香りを連れて歩き、音もなく現れる。
文字を教える時も、間違えた線を笑わなかった。
「一本引ければ十分です」
そう言ってくれた。
その言葉が、なぜか嬉しかった。
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ヴァルクは怖い人だった。
顔が硬い。
声も低い。
けれど、木剣を持たせる手は乱暴ではなかった。
転んでも起こさないが、立つまで待ってくれる。
「もう一回だ」
その一言だけで、やめてもいいとは言わない。
でも、できると決めつけてもいた。
それが少しだけ誇らしかった。
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そして、アルト。
一番分からない人だった。
強い。
たぶん誰よりも強い。
市場で商人たちが怯えた空気を、ルナは覚えている。
夜、街が震えたような魔力も覚えている。
怖いはずだった。
実際、近くに来ると身体は固くなる。
それなのに。
この人は一度も、ルナを思い通りにしようとしなかった。
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食べるかどうかは任せる。
話すかどうかも任せる。
部屋へ来るかどうかも任せる。
勉強するかどうかも聞いてくる。
嫌なら断っていい、と何度も言う。
そんな大人を、ルナは知らなかった。
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だから余計に、怖かった。
もし優しい人だったらどうしよう、と。
もし信じてしまったらどうしよう、と。
裏切られた時、前より痛い気がした。
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あの日の朝も、少し怖かった。
階段の上で立ち止まり、食堂を見下ろす。
アルトが窓際に座っていた。
本を読んでいる。
セラフィスが朝食を運び、ヴァルクが壁際に立っている。
女将は奥で鼻歌を歌っていた。
いつもの朝だった。
でも、ルナの中はいつもと違った。
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昨夜、眠る前にずっと考えていた。
助けられたこと。
温かいスープ。
毛布。
文字。
剣。
雷の日に、暖炉の席を示してくれたこと。
無理に触れないこと。
待ってくれること。
何か返したかった。
でも、持っているものが何もない。
金もない。
物もない。
上手な笑顔もない。
あるのは、言葉だけだった。
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ありがとう。
たったそれだけ。
簡単なはずなのに、胸の奥で石みたいに重かった。
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階段を一段降りる。
足が震える。
また一段。
視線が集まる気がして、喉が詰まる。
逃げたくなる。
でも、逃げたらまた明日になる。
明日になれば、もっと言えなくなる気がした。
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食堂へ入ると、アルトがこちらを見た。
すぐに視線を外した。
見つめられないだけで、少し呼吸が楽になる。
気づいているのかもしれない。
気づいていて、そうしているのかもしれない。
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席につき、食事をした。
味はよく覚えていない。
手が震えて、匙が何度も皿へ当たった。
早く終わらせたかった。
終わったら言わなくて済む気もした。
でも、立ち上がった時には、逆に言わなければと思った。
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アルトの前まで歩く。
近い。
思っていたより近い。
逃げ道が遠い。
足が止まりそうになる。
手が冷たい。
息がうまく入らない。
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声を出そうとする。
出ない。
喉が閉じる。
市場で怒鳴られた時のことが浮かぶ。
暗い檻。
笑い声。
痛い手。
身体が戻ろうとする。
黙れ、と。
言葉は危ない、と。
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でも、その時。
アルトは何も言わず待っていた。
急かさない。
困った顔もしない。
ただ、静かにそこにいる。
それだけだった。
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なら、少しだけ。
少しだけなら。
ルナは目を閉じた。
「……あ……」
ひどい声だった。
錆びた扉みたいだった。
恥ずかしくて逃げたくなる。
それでも続ける。
今しかない。
「……ありがとう」
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言えた。
空気の中へ出ていった。
自分の中だけにあった言葉が、ちゃんと外へ出た。
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しばらく何も聞こえなかった気がした。
失敗したかと思った。
変だったかと思った。
やっぱり言わなければよかったと、胸が冷たくなる。
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その時。
「どういたしまして」
アルトが言った。
普通の声だった。
驚くほど普通に。
重くもなく、特別でもなく、当たり前みたいに返してくれた。
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その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
泣きそうになった。
でも泣くのはまだ恥ずかしくて、代わりに少しだけ口元が緩んだ。
笑えたかは分からない。
でも、たぶん初めてだった。
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セラフィスが嬉しそうにしていた。
ヴァルクも少し顔が違った。
女将は奥で鼻をすすっていた。
みんな変だった。
たった一言なのに。
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けれどルナには分かっていた。
あれは、ただのありがとうではなかった。
助けてくれて。
待ってくれて。
怖くてもいいと言ってくれて。
ここにいていいと、言葉にしないで伝えてくれて。
その全部を、ひとつにした言葉だった。
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そして、もうひとつ分かったことがある。
言葉は怖いだけじゃない。
ちゃんと届く相手に渡せば、温かいものにもなるのだと。




