第十八話 知らない場所のやさしさ
最初の夜のことを、ルナはよく覚えている。
柔らかい寝台だった。
それだけで、怖かった。
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白樺亭の一室。
木の壁。小さな窓。清潔な布。整えられた寝具。机と椅子。洗面用の水差し。棚には折り畳まれた服まで置かれていた。
どれも、今まで自分には与えられなかったものだった。
だからこそ、落ち着かなかった。
汚してしまえば怒鳴られるのではないか。
壊せば殴られるのではないか。
使えば返せと言われるのではないか。
優しくされた後に、もっと酷いものが来るのではないか。
身体より先に、記憶が怯えていた。
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扉の外から、ノックの音がした。
ルナは飛び上がるように身を縮め、寝台の端へ逃げた。
「失礼します」
入ってきたのは、銀髪の男――セラフィスだった。
手には湯気の立つ器を持っている。
「温かいスープです。食べられそうならどうぞ」
彼は部屋の中央まで来ず、入口近くの机へ器を置いた。
それ以上近づかない。
そして一礼し、そのまま出て行こうとする。
ルナは混乱した。
食べ物を置いて、命令もせず、見張りもせず、去る。
そんなことがあるのか。
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扉が閉まる直前、セラフィスが振り返らずに言った。
「残しても構いません。捨てたりもしません」
静かな声だった。
「ここでは、急がなくて大丈夫です」
扉が閉じる。
部屋に沈黙が戻る。
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ルナは長い間、器を見ていた。
罠かもしれないと思った。
けれど、香りは優しかった。
野菜と鶏の匂い。
空腹が腹の奥で疼く。
やがて忍び足で机へ近づき、すぐ逃げられるよう片足を引いたまま匙を取る。
一口。
熱い。
驚いて喉が詰まりそうになる。
だが、美味しかった。
思わず二口目を口に運び、そこで我に返って周囲を見回した。
誰もいない。
怒る者もいない。
それが逆に怖かった。
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その夜、ルナは寝台で眠れなかった。
柔らかすぎて落ち着かない。
包まれる感覚が不安だった。
結局、毛布だけを引きずって床の隅へ行き、壁を背にして膝を抱えた。
その姿勢が、一番眠りやすかった。
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朝。
目を覚ますと、毛布がもう一枚増えていた。
いつ置かれたのか分からない。
足元には温かな水入りの瓶まである。
驚いて扉を見るが、閉まったままだった。
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食堂へ連れて行かれた時も、ルナは落ち着かなかった。
人がいる場所は危険だと身体が覚えている。
椅子に座るよう促されても立ったまま。
皿が置かれても手を出さない。
アルトは向かいの席で茶を飲んでいた。
視線を合わせない。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
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女将が豪快に腕を組んだ。
「この子、警戒心が猫より強いねぇ」
「比較対象が独特ですね」
アルトが答える。
「猫は可愛いけど引っかくよ」
「彼女も今は同じようなものかと」
ルナは意味は分からないが、馬鹿にされている感じはしなかった。
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結局、その朝も食べ物は少しだけ口にした。
残りは袖へ隠そうとして、女将に見つかった。
「こらこら」
大声ではなく、しゃがんで目線を合わせる。
「取らないよ」
そう言って、包み紙を差し出した。
「残すなら包んでおきな」
ルナは動けなかった。
叱られない。
奪われない。
その方が、むしろ理解できない。
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昼になると、ヴァルクが庭で剣を振っていた。
無駄のない動き。
風だけが鳴る。
ルナは窓の陰から見ていた。
気づかれているのに、ヴァルクは何も言わない。
やがて振り終えると、木剣を一本地面へ置いたまま部屋へ戻った。
誘いだと気づくまで、しばらくかかった。
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誰もいなくなってから外へ出る。
木剣へ触れる。
軽い。
でも、持ち方が分からない。
見よう見まねで構える。
次の瞬間、背後から声がした。
「肘が開いている」
飛び上がる。
振り向くと、ヴァルクが立っていた。
気配がない。
怖くて木剣を落とす。
だが彼は拾わない。
「拾え」
それだけ言う。
怒鳴らない。
近づかない。
ルナは震えながら木剣を拾った。
「今度は足幅だ」
それが、最初の稽古になった。
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夜になると、アルトが部屋の前へ来た。
扉越しに声だけが届く。
「眠れていますか」
返事はしない。
「眠れなくても問題ありません」
少し間があく。
「ここは、あなたを売る場所ではありません」
ルナの指先が止まった。
「それだけ伝えたくて」
足音が遠ざかる。
静かだった。
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数日が過ぎる。
ルナはまだ喋らない。
食べ物を隠す。
物音で震える。
人が近づくと身構える。
特にアルトには警戒が強かった。
中心にいる人間ほど危険だと、経験が教えていたからだ。
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それでも、少しずつ変化はあった。
セラフィスが本を読む声を、扉の隙間から聞くようになった。
ヴァルクの木剣を、自分から取りに行く日が増えた。
女将の作る焼き菓子を、隠さずその場で食べた。
そして、アルトが食堂で本を読んでいる時だけは、同じ部屋にいられるようになった。
遠い席で。
出口に近い席で。
いつでも逃げられる位置で。
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ある日の夕方。
雨が降っていた。
雷鳴に驚き、ルナは思わず食堂へ飛び込んだ。
そこにはアルトしかいない。
本を読んでいる。
顔を上げ、ルナを見る。
何も言わず、自分の近くではなく暖炉のそばの席を示した。
そこが一番安心できる場所だと知っているように。
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ルナは座った。
震えが収まるまで、しばらくかかった。
アルトは頁をめくる音しかしない。
慰めない。
触れない。
聞き出さない。
ただ同じ空間にいる。
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やがて雷が遠ざかった頃、ルナは気づいた。
怖い時に逃げ込んだ場所が、この宿だったことに。
助けを求めて走った相手が、ここにいる人たちだったことに。
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その夜、部屋へ戻る前に、ルナは初めて自分から食堂の卓へ近づいた。
アルトの隣ではない。
向かいでもない。
少し離れた横の席。
座って、何も言わない。
アルトも何も言わない。
セラフィスは茶を淹れ、
ヴァルクは壁際で腕を組み、
女将はにやにやしながら皿を拭いていた。
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言葉はまだなかった。
信頼と呼ぶには、まだ早い。
けれど確かに、少女は少しずつ知っていた。
知らない場所にも、やさしさはあるのだと。




