表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界最強の引きこもりは、人と生きる意味を知る  作者: わまたよ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/34

第十七話 暗がりの中で

 人は、いつから泣かなくなるのだろう。


 痛い時か。


 怖い時か。


 悲しい時か。


 あるいは、それらすべてが続きすぎた時か。


 ルナには、もう思い出せなかった。



 冷たい床だった。


 石か、木かも分からない。


 湿っていて、硬くて、冬は骨まで冷えた。


 目を覚ますたび、そこが朝なのか夜なのかも曖昧だった。


 小さな格子窓から差す光で、なんとなく時間を知るしかない。


 光があれば起きる。


 暗ければ眠る。


 それだけだった。



 檻の中には藁が敷かれていた。


 最初は柔らかいと思った。


 すぐに違うと知った。


 汚れ、臭い、虫が湧き、湿気を吸って腐っていく藁は、寝具ではなく“置いてあるだけのもの”だった。


 それでも何もないよりはましだった。


 何もない場所も、知っていたからだ。



 腹は、いつも空いていた。


 配られるのは固いパンの欠片と、濁った水。


 時々、肉のようなものが混じる日もあったが、それが何の肉か考えないようにしていた。


 早く食べれば奪われる。


 遅く食べれば取り上げられる。


 だから隠した。


 袖の中に。


 藁の下に。


 口の中に。


 食べ物は“今食べるもの”ではなく、“未来の保険”だった。



 名前も、あまり呼ばれなかった。


「商品」


「そこのガキ」


「それ」


 たまに「銀髪のやつ」と呼ばれることもあった。


 ルナ、という音だけが遠くなっていく。


 誰かがそう呼んでいた記憶はある。


 優しい声だった気がする。


 けれど顔は霞んでいた。



 他にも子供はいた。


 泣く子。


 怒鳴る子。


 何も喋らなくなる子。


 ある日突然いなくなる子。


 戻ってくる子もいた。


 目が死んで。


 歩き方が変わって。


 声が出なくなって。


 ルナは、それを見ないようにしていた。


 見れば、自分の番を考えてしまうからだ。



 商人たちはよく笑った。


 酒を飲み、金を数え、値踏みをしながら笑った。


 その笑い声だけは、よく覚えている。


 人が物になる場所の音だった。



 ルナは自分の中へ潜ることを覚えた。


 怒鳴り声が聞こえたら、壁の染みを数えた。


 鞭の音がしたら、頭の中で知らない歌を作った。


 足音が近づけば、息を殺して石になるふりをした。


 そうしていると、自分がここにいない気がした。


 身体だけ置いて、心だけ遠くへ逃がせた。



 時々、変なことが起きた。


 怒鳴っていた男の足元で桶が割れる。


 鍵が勝手に落ちる。


 灯りが揺れて消える。


 ルナが怖くて震えた時ほど、それは起きやすかった。


 商人たちは最初、偶然だと思っていた。


 やがて目つきが変わった。


「こいつ、適性があるかもしれねぇ」


「売れるぞ」


「帝国の血筋って話も嘘じゃねぇかもな」


 意味は分からなかった。


 ただ、“高く売れる”という言葉だけは理解できた。


 それは良い意味ではない。



 その日も、同じような朝だった。


 腹が減っていた。


 喉が渇いていた。


 身体は重かった。


 背中の傷が少し熱を持っていた。


 誰かが隣で咳をしていた。


 遠くで笑い声がした。


 何も変わらない日だと思っていた。



 昼頃、檻の外が騒がしくなった。


 誰か客が来たのだろう。


 商人の媚びた声が響く。


「へへっ、良い品揃えでして」


「子供も女も、魔力持ちもおりますぜ」


 いつもの声だった。


 だから、見なかった。


 見ても意味がない。


 選ばれる側に希望はない。



 だが、足音が違った。


 荒くない。


 酔っていない。


 焦っていない。


 静かな足音が三つ。


 規則正しく近づいてくる。


 ルナは反射的に顔を上げた。



 最初に見えたのは、黒髪の男だった。


 長身で、整った顔立ち。


 だが一番印象に残ったのは、静けさだった。


 そこに立っているのに、威圧するわけでもなく、媚びるわけでもなく、ただ自然に空気の中心へいる。


 こんな人間を、ルナは知らなかった。



 その左右には、二人。


 銀髪の執事服の男。


 笑っているのに、何か冷たい。


 もう一人は短髪の剣士。


 何も言わないのに、檻の中まで空気が張り詰める。


 三人とも、商人たちと同じ“人間”には見えなかった。



 商人がルナの腕を乱暴に掴み、前へ引きずり出した。


「こいつです! 珍品でしてね!」


 痛い。


 でも声は出さない。


 出しても無駄だから。


「痩せてますが、育てりゃ上玉になりますぜ!」


 笑い声。


 嫌な手。


 慣れたはずのもの。



 その時だった。


 黒髪の男――アルトの目が、初めてルナを見た。


 ただ見た。


 値踏みではなく。


 欲望でもなく。


 憐れみでもなく。


 確認するように、まっすぐ。



 ルナは息を止めた。


 その目は、恐ろしく静かだった。


 だが、冷たさが違う。


 商人の冷たさは、自分以外への無関心だ。


 この男の冷たさは、許さないものへの温度だった。



 アルトは立ち止まった。


 商人が何か喋っている。


 値段だの血筋だの適性だの。


 何も頭に入らなかった。


 ルナには、その沈黙だけが大きく聞こえた。



 銀髪の男が穏やかに言う。


「主様。合法的に買いますか。違法に壊しますか」


 意味が分からない言葉だった。


 だが、商人の顔色が変わった。



 黒髪の男は、静かに答えた。


「両方で」



 その瞬間、空気が変わった。


 商人たちの笑い声が止む。


 誰かが後ずさる。


 剣士の男が一歩出る。


 執事の笑みが深くなる。


 ルナの腕を掴んでいた手が震えた。



 何が起きたのか、よく覚えていない。


 悲鳴。


 怒号。


 床を滑る音。


 何かが壊れる音。


 誰かが許しを請う声。


 そして、不思議なほど落ち着いた足音。



 気づけば、商人は床に這いつくばっていた。


 檻の鍵が外されている。


 アルトがルナの前へ膝をついた。


 目線を合わせるために。



「もう、大丈夫です」


 そう言った。


 優しい声ではなかった。


 甘い声でもなかった。


 ただ、事実を述べる声だった。



 ルナは信じなかった。


 信じられなかった。


 大丈夫、という言葉は何度も嘘だった。


 安心しろ、は命令だった。


 痛くしない、は前触れだった。


 だから身体が震えた。


 逃げたいのに足が動かない。



 それでも。


 その人は近づきすぎなかった。


 腕を掴まなかった。


 命令しなかった。


 ただ、待っていた。



 銀髪の男が外套を差し出す。


「寒いでしょう」


 剣士の男は入口へ立ち、誰も近づけない。


 黒髪の男は、ただそこにいた。



 ルナは、ゆっくりと顔を上げた。


 怖かった。


 でも、ほんの少しだけ。


 ほんの爪の先ほどだけ。


 暗がりの中に、光のようなものが見えた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ