第十七話 暗がりの中で
人は、いつから泣かなくなるのだろう。
痛い時か。
怖い時か。
悲しい時か。
あるいは、それらすべてが続きすぎた時か。
ルナには、もう思い出せなかった。
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冷たい床だった。
石か、木かも分からない。
湿っていて、硬くて、冬は骨まで冷えた。
目を覚ますたび、そこが朝なのか夜なのかも曖昧だった。
小さな格子窓から差す光で、なんとなく時間を知るしかない。
光があれば起きる。
暗ければ眠る。
それだけだった。
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檻の中には藁が敷かれていた。
最初は柔らかいと思った。
すぐに違うと知った。
汚れ、臭い、虫が湧き、湿気を吸って腐っていく藁は、寝具ではなく“置いてあるだけのもの”だった。
それでも何もないよりはましだった。
何もない場所も、知っていたからだ。
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腹は、いつも空いていた。
配られるのは固いパンの欠片と、濁った水。
時々、肉のようなものが混じる日もあったが、それが何の肉か考えないようにしていた。
早く食べれば奪われる。
遅く食べれば取り上げられる。
だから隠した。
袖の中に。
藁の下に。
口の中に。
食べ物は“今食べるもの”ではなく、“未来の保険”だった。
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名前も、あまり呼ばれなかった。
「商品」
「そこのガキ」
「それ」
たまに「銀髪のやつ」と呼ばれることもあった。
ルナ、という音だけが遠くなっていく。
誰かがそう呼んでいた記憶はある。
優しい声だった気がする。
けれど顔は霞んでいた。
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他にも子供はいた。
泣く子。
怒鳴る子。
何も喋らなくなる子。
ある日突然いなくなる子。
戻ってくる子もいた。
目が死んで。
歩き方が変わって。
声が出なくなって。
ルナは、それを見ないようにしていた。
見れば、自分の番を考えてしまうからだ。
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商人たちはよく笑った。
酒を飲み、金を数え、値踏みをしながら笑った。
その笑い声だけは、よく覚えている。
人が物になる場所の音だった。
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ルナは自分の中へ潜ることを覚えた。
怒鳴り声が聞こえたら、壁の染みを数えた。
鞭の音がしたら、頭の中で知らない歌を作った。
足音が近づけば、息を殺して石になるふりをした。
そうしていると、自分がここにいない気がした。
身体だけ置いて、心だけ遠くへ逃がせた。
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時々、変なことが起きた。
怒鳴っていた男の足元で桶が割れる。
鍵が勝手に落ちる。
灯りが揺れて消える。
ルナが怖くて震えた時ほど、それは起きやすかった。
商人たちは最初、偶然だと思っていた。
やがて目つきが変わった。
「こいつ、適性があるかもしれねぇ」
「売れるぞ」
「帝国の血筋って話も嘘じゃねぇかもな」
意味は分からなかった。
ただ、“高く売れる”という言葉だけは理解できた。
それは良い意味ではない。
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その日も、同じような朝だった。
腹が減っていた。
喉が渇いていた。
身体は重かった。
背中の傷が少し熱を持っていた。
誰かが隣で咳をしていた。
遠くで笑い声がした。
何も変わらない日だと思っていた。
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昼頃、檻の外が騒がしくなった。
誰か客が来たのだろう。
商人の媚びた声が響く。
「へへっ、良い品揃えでして」
「子供も女も、魔力持ちもおりますぜ」
いつもの声だった。
だから、見なかった。
見ても意味がない。
選ばれる側に希望はない。
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だが、足音が違った。
荒くない。
酔っていない。
焦っていない。
静かな足音が三つ。
規則正しく近づいてくる。
ルナは反射的に顔を上げた。
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最初に見えたのは、黒髪の男だった。
長身で、整った顔立ち。
だが一番印象に残ったのは、静けさだった。
そこに立っているのに、威圧するわけでもなく、媚びるわけでもなく、ただ自然に空気の中心へいる。
こんな人間を、ルナは知らなかった。
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その左右には、二人。
銀髪の執事服の男。
笑っているのに、何か冷たい。
もう一人は短髪の剣士。
何も言わないのに、檻の中まで空気が張り詰める。
三人とも、商人たちと同じ“人間”には見えなかった。
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商人がルナの腕を乱暴に掴み、前へ引きずり出した。
「こいつです! 珍品でしてね!」
痛い。
でも声は出さない。
出しても無駄だから。
「痩せてますが、育てりゃ上玉になりますぜ!」
笑い声。
嫌な手。
慣れたはずのもの。
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その時だった。
黒髪の男――アルトの目が、初めてルナを見た。
ただ見た。
値踏みではなく。
欲望でもなく。
憐れみでもなく。
確認するように、まっすぐ。
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ルナは息を止めた。
その目は、恐ろしく静かだった。
だが、冷たさが違う。
商人の冷たさは、自分以外への無関心だ。
この男の冷たさは、許さないものへの温度だった。
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アルトは立ち止まった。
商人が何か喋っている。
値段だの血筋だの適性だの。
何も頭に入らなかった。
ルナには、その沈黙だけが大きく聞こえた。
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銀髪の男が穏やかに言う。
「主様。合法的に買いますか。違法に壊しますか」
意味が分からない言葉だった。
だが、商人の顔色が変わった。
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黒髪の男は、静かに答えた。
「両方で」
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その瞬間、空気が変わった。
商人たちの笑い声が止む。
誰かが後ずさる。
剣士の男が一歩出る。
執事の笑みが深くなる。
ルナの腕を掴んでいた手が震えた。
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何が起きたのか、よく覚えていない。
悲鳴。
怒号。
床を滑る音。
何かが壊れる音。
誰かが許しを請う声。
そして、不思議なほど落ち着いた足音。
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気づけば、商人は床に這いつくばっていた。
檻の鍵が外されている。
アルトがルナの前へ膝をついた。
目線を合わせるために。
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「もう、大丈夫です」
そう言った。
優しい声ではなかった。
甘い声でもなかった。
ただ、事実を述べる声だった。
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ルナは信じなかった。
信じられなかった。
大丈夫、という言葉は何度も嘘だった。
安心しろ、は命令だった。
痛くしない、は前触れだった。
だから身体が震えた。
逃げたいのに足が動かない。
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それでも。
その人は近づきすぎなかった。
腕を掴まなかった。
命令しなかった。
ただ、待っていた。
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銀髪の男が外套を差し出す。
「寒いでしょう」
剣士の男は入口へ立ち、誰も近づけない。
黒髪の男は、ただそこにいた。
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ルナは、ゆっくりと顔を上げた。
怖かった。
でも、ほんの少しだけ。
ほんの爪の先ほどだけ。
暗がりの中に、光のようなものが見えた気がした。




