第十六話 王都へ
季節は、いつの間にかひとつ進んでいた。
白樺亭の裏庭に咲いていた小さな花は数を増やし、朝の風には土と若葉の匂いが混じるようになっている。石畳を行き交う人々の服装も軽くなり、街全体が少しだけ明るい色を帯びていた。
ルゼルス辺境都市に滞在してから、いくらかの日々が過ぎていた。
その間に、ルナは変わった。
最初は食事を隠していた少女が、今では食堂の席に座って温かいうちに食べるようになった。
物音に怯えて寝台の下へ潜っていた少女が、今では驚いても深呼吸を覚えた。
言葉を失っていた少女が、今では短いながらも自分の意思を伝えるようになった。
そして何より、目が変わった。
ただ生き延びるための目ではない。
何かを知りたいと願う者の目だった。
⸻
その日、朝食の後。
アルトは食堂の卓へ地図を広げていた。
王国全土が描かれた大判の地図である。山脈、街道、河川、各都市、そして中央に位置する王都の名。
ルナは椅子へ座り、地図を覗き込んでいた。
まだ文字のすべては読めない。
だが興味はあるらしく、指先で街の印を辿っている。
「ここが今いる街です」
アルトがルゼルスを指す。
ルナが頷く。
「そして、ここが王都です」
中央の大きな印を示す。
少女の目が少し丸くなった。
距離の概念はまだ曖昧でも、“遠い”ことだけは伝わったらしい。
⸻
「王都には学院があります」
アルトは穏やかに言った。
「魔法、学問、礼儀、歴史、剣術。才能ある者が学ぶ場所です」
ルナは黙って聞いている。
「あなたには素質があります。今この街でも学べますが、より良い環境があります」
少し間を置く。
「将来のために、王都を目指そうと思います」
⸻
ルナは地図とアルトを見比べた。
すぐには答えない。
最近の彼女は、分からない時に無理に頷かなくなった。
考える時間を持てるようになったのだ。
「……いっしょ?」
小さな声だった。
「ええ」
アルトは即答した。
「一緒です」
その返答に、ルナの肩からわずかに力が抜けた。
そして、小さく頷いた。
⸻
白樺亭の女将はその話を聞き、大きく腕を組んだ。
「そりゃそうだろうねぇ。こんな辺境で終わる器じゃないよ、その子は」
「お世話になりました」
「まだ出てくって決まっただけで湿っぽい顔すんじゃないよ」
そう言いながら、目元は少し赤い。
「まったく、最近あたしゃ涙腺が緩いんだよ」
⸻
出発の知らせは、すぐに街へ広がった。
上位種討伐、裏組織壊滅、不可解な夜空の魔力現象。
短期間で多くを起こした三人組と少女は、既に街の小さな噂になっていた。
そのため、ギルドへ顔を出した時には妙に人が多かった。
⸻
冒険者ギルドの扉を開けると、ざわめきが起こる。
「本当に行くのか」
「王都だってよ」
「そりゃそうだろ、こんなとこ狭すぎる」
「寂しくなるな」
酒臭い声も、粗野な笑いも、どこか柔らかい。
初日に絡んできた者たちまで、今では露骨な敵意は持っていなかった。
強さを見せたからだけではない。
街のために動いた姿を見たからだ。
⸻
受付にはリミアがいた。
いつもの制服姿。
背筋を伸ばし、明るい笑顔を浮かべている。
だがその笑顔が少しだけ固いことに、アルトは気づいた。
「本当に、今日なんですね」
「ええ」
「そうですか……」
一瞬だけ視線が落ちる。
すぐに顔を上げ、職員らしい綺麗な笑みに戻した。
「それでは、旅路の無事をお祈りします」
形式的な言葉だった。
だが、その奥に本音が滲んでいる。
⸻
ルナがリミアの袖をちょんと引いた。
リミアが目を丸くする。
「どうしたの?」
ルナは少し迷い、たどたどしく言う。
「……ありがと」
リミアの表情が崩れた。
「だ、だめです、朝から泣かせないでください……!」
両手で顔を覆いながら笑っている。
周囲の冒険者たちが囃し立てた。
「受付嬢が泣いたぞ!」
「うるさいです!」
⸻
少し落ち着いてから、リミアはアルトへ向き直った。
その笑顔は、今度こそ自然だった。
「また来てくださいね、アルトさん」
軽い調子で言ったようでいて、その声には寂しさがあった。
街に残る者の、見送りの声だった。
アルトは頷く。
「ええ。機会があれば必ず」
「約束ですよ?」
「守れる範囲で」
「そこは即答してください」
セラフィスが横で小さく笑い、ヴァルクは何も言わず腕を組んでいた。
⸻
奥の扉が開き、シルヴェスターが現れた。
大柄な体を揺らしながら歩み寄る。
「見送りくらいはしてやる」
「恐縮です」
「似合わねぇ敬語使うな」
ギルド長はルナを見て、それから三人を見る。
「この街は、辺境だ。腐ったもんも多かった」
声が少し低くなる。
「見て見ぬふりをしてきたこともある」
誰も茶化さない。
ギルド内が静まっていた。
「だが、お前らが来て、ひっくり返した」
シルヴェスターはその場で深く頭を下げた。
ざわめきが走る。
ギルド長が誰かへ頭を下げるなど、滅多にないことなのだろう。
「この街を救ってくれた」
その言葉に、軽口を叩いていた冒険者たちまで黙った。
⸻
アルトは少し困ったように目を伏せた。
「大袈裟です」
「そういうとこだ」
シルヴェスターは顔を上げ、鼻で笑う。
「だから礼くらい言わせろ」
アルトは小さく息を吐き、静かに一礼した。
「……受け取ります」
⸻
出発は昼前になった。
街門には思った以上の人が集まっていた。
女将は大きな包みを持たせ、
「道中で食いな!」
と無理やり押しつけた。
リミアは何度も手を振り、
シルヴェスターは腕を組んだまま、
「王都でも暴れすぎるなよ」
と笑った。
「善処します」
「信用ならん」
⸻
門の外には街道が伸びている。
王都へ続く道。
森を抜け、河を越え、いくつもの街を通る長い旅路だ。
アルトが歩き出そうとした時だった。
袖が引かれる。
振り向く。
ルナがそこにいた。
小さな手が、迷いながら伸びている。
途中で止まりそうになり、それでも最後まで届いた手だった。
⸻
アルトは少しだけ目を見開いた。
今まで彼女から近づくことは、ほとんどなかった。
必要な時も、まずセラフィスを介した。
それが今、自分の意思で。
誰に言われるでもなく。
彼女はアルトの手を取っていた。
細く、まだ頼りない手。
だが、しっかりと掴んでいる。
⸻
「……いく」
ルナが言う。
声は小さい。
けれど、確かな意思だった。
「ええ」
アルトはその手を握り返す。
「行きましょう」
⸻
背後で歓声が上がった。
「おおー!」
「やったじゃねぇか!」
「主様、昇格ですね」
「何のですか」
「保護対象から信頼対象へ」
「言い方を選んでください」
ヴァルクが珍しく口元を緩めた。
「遅かったな」
「あなたは黙っていてください」
⸻
春の風が吹く。
街門の旗が揺れ、旅人たちの外套を鳴らす。
アルトたちは歩き出した。
王都へ向けて。
新しい学びへ向けて。
そして、それぞれがまだ知らない未来へ向けて。
少女の手は、最後まで離れなかった。




