第二話 街の空気
ギルド長室の扉が閉まる音は、妙に重かった。
外の喧騒が一枚の木板によって遮られ、部屋の中には別種の静けさが落ちる。酒場めいた熱気に満ちた広間とは違い、この部屋には乾いた革と紙と鉄の匂いがあった。壁際には武器が並び、棚には帳簿が積まれ、窓辺には使い込まれた観葉植物がひとつ置かれている。
生活感と実務が同居した部屋だった。
中央の机の向こうで、男が腕を組んだままこちらを見ている。
五十に届くかどうかという年頃。肩幅は広く、顔には幾筋もの古傷が走っていた。威圧感というより、長く現場にいた者だけが持つ疲労と重みがある。
「座れ」
短い声だった。
アルトたちは勧められるまま椅子に腰を下ろした。セラフィスの背筋は寸分も曲がらず、ヴァルクは椅子に座ってなお臨戦態勢のようだった。
男は机を指先で二度叩く。
「俺はこの支部の長、シルヴェスターだ」
「黒瀬アルトと申します。こちらはセラフィス、ヴァルク」
「名字まで名乗るやつは珍しいな」
「そうでしたか」
「そこは驚くところじゃねえ」
シルヴェスターは額を押さえ、深く息を吐いた。
「……で、だ。到着して十分も経たずに酒場の荒くれを三人転がした件について聞きたい」
「四人です」
ヴァルクが訂正した。
「一人は自発的に戦意喪失した」
「そうか。なら四人だ」
シルヴェスターは投げやりに頷いた。
「言っておくが、あいつらは褒められた連中じゃねえ。新人に絡む、弱い相手を選ぶ、酒癖も悪い。だが街には街の流れってもんがある。力で黙らせりゃ済む話ばかりでもない」
アルトは静かに頷く。
「承知しております。ご迷惑をおかけしました」
「……素直に謝るのか」
「謝るべきことでしたので」
その返答が意外だったのか、シルヴェスターは少しだけ目を細めた。
そして、視線をヴァルクへ移す。
「お前、元軍人か?」
「違う」
「剣筋が兵じゃねえ。もっと……そうだな、護衛だ。誰か一人を守ることだけに特化した動きだ」
ヴァルクは答えず、ただ沈黙した。
次にセラフィスへ。
「そっちは魔術師か」
「家政婦です」
「執事に見えるが」
「兼任しております」
「そうかよ」
最後にアルトへ戻る。
「で、お前さんは何者だ」
問いは平坦だった。だが、部屋の空気は僅かに変わる。
試しているのだ、とアルトは理解した。
この男は長く人を見てきた。虚勢、嘘、過信、怯え。そうしたものを嗅ぎ分ける鼻を持っている。
「旅人です」
「ふざけてるのか」
「いえ。今のところ、それ以上に適切な肩書きがなく」
シルヴェスターはしばし黙り、やがて椅子にもたれた。
「……まあいい。登録自体はしてやる。ただし条件がある」
「条件、ですか」
「この街で余計な騒ぎを起こすな。妙な力を持ってるならなおさらだ」
アルトは少し考えた。
「善処いたします」
「善処じゃ困る」
「最大限善処いたします」
「官僚かお前は」
その時だった。
扉の向こうで慌ただしい足音が止まり、控えめなノックが三度鳴る。
「失礼します!」
扉が開き、若い女性が顔を覗かせた。
栗色の髪を後ろでまとめ、簡素な制服に身を包んでいる。目元は明るく、動きには慌ただしさと真面目さが同居していた。
「ギルド長、午前分の書類――あ、すみません、お客様でしたか」
「客って面してるが問題児どもだ」
「初対面の方に失礼ですよ!」
女性はぱたぱたと机へ書類を置き、こちらへ向き直る。
「申し遅れました。受付のリミアです。先ほどは登録途中で失礼しました」
深々と頭を下げた。
アルトも会釈を返す。
「ご丁寧にどうも」
「いえいえ! あの、怪我とかしてませんか? さっき騒ぎになってたので……」
「ええ、おかげさまで」
「よかったです。あの人たち、たまに新人さんに絡むんです」
リミアは困ったように笑う。
その笑みには裏がなかった。計算も警戒もない。純粋に、この街の日常として困っている顔だった。
アルトはほんの少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
人の笑顔というものは、案外それだけで空気を変える。
「リミア」
「はいっ」
「こいつらの登録、済ませとけ」
「わかりました!」
彼女は元気よく返事をし、アルトたちへ向けて手招きした。
「ではこちらへどうぞ。カード発行と適性確認をしますね」
アルトたちが立ち上がると、シルヴェスターが低い声で呼び止めた。
「アルト」
「はい」
「……街ってのは森より面倒だ。気をつけろ」
忠告だった。
アルトは静かに頭を下げた。
「肝に銘じます」
⸻
受付窓口の奥には、小さな作業台と水晶球が置かれていた。
「こちら、簡易適性具です」
リミアが説明する。
「魔力の傾向とか、属性の反応とかを見るだけなので、深くは分かりませんけど」
「便利ですね」
「王国製ですよ。うちの国、こういうの得意なんです」
どこか誇らしげだった。
「まずはお名前を」
「黒瀬アルト」
「くろ……せ?」
「珍しいですか」
「少し。でも素敵なお名前ですね」
さらりと言われ、アルトは一瞬言葉を失った。
名前を褒められることなど、いつ以来だろうか。
「ありがとうございます」
「はい、次に手をこちらへ」
アルトが水晶球に触れる。
内部に薄い光が走り、すぐに濁った。
ぱき、と小さな音がして、水晶球に亀裂が入る。
リミアが固まった。
「……え?」
セラフィスが視線を逸らし、ヴァルクは無表情のまま天井を見た。
「故障でしょうか」
アルトが穏やかに言う。
「そ、そうかもしれません! 古かったですし!」
明らかに新品同然だったが、リミアは勢いで頷いた。
「では簡易判定でいきますね! ええと……たぶん魔術師系です!」
「たぶん」
「たぶんです!」
彼女はやや顔を赤くしながら書類へ記入していく。
アルトはその様子を眺めながら、妙な感覚を覚えていた。
この街に来てから、警戒、敵意、品定め、そうした視線ばかりを受けてきた。
だが彼女だけは違う。
相手が何者かではなく、ただ目の前の来訪者として接している。
そういう人間も、いるのか。
⸻
登録を終えると、冒険者証と初級依頼一覧が手渡された。
「最初は採取依頼がおすすめです。街の外れまで行けば安全ですし、慣れるにはちょうどいいですよ」
「ありがとうございます」
「宿は取ってますか?」
「まだです」
「でしたら《白樺亭》が安くて清潔です。女将さん優しいですし、ご飯も美味しいですよ」
次々に情報が出てくる。
仕事熱心なのだろう。
「助かります」
「困ったらまた来てくださいね」
そう言って笑う。
アルトは少しだけ考え、口を開いた。
「では、ひとつ」
「はい?」
「この街は、住みやすいですか」
リミアはきょとんとし、それから視線を窓の外へ向けた。
「……難しい質問ですね」
少し考えてから、答える。
「優しい街ではないです。稼げない人には厳しいし、危ないことも多いです」
「ええ」
「でも、頑張ってる人には手を貸してくれる人もいます。嫌な人ばかりじゃないです」
そこで彼女は笑った。
「私は、好きですよ。この街」
短い言葉だった。
だがその中に、ここで生きてきた人間の実感があった。
⸻
ギルドを出ると、昼の光が石畳へ落ちていた。
市場の呼び声。子供の笑い声。遠くで怒鳴る男の声。鍛冶屋の槌音。
雑多で、騒がしく、整ってはいない。
それでも確かに、人が生きている音だった。
「主様」
セラフィスが横に立つ。
「いかがですか。人の街は」
アルトは少し空を見上げた。
「面倒です」
「でしょうね」
「騒がしいです」
「ええ」
「……ですが」
言葉を探すように、少し間を置く。
「悪くは、ないかもしれません」
セラフィスが微かに微笑んだ。
ヴァルクは周囲を警戒したまま、短く言う。
「なら宿へ向かう。腹が減った」
アルトは思わず笑った。
自分でも驚くほど自然な笑みだった。
街の空気は騒がしい。
だが、その騒がしさの中にしか存在しない温度もあるのだと、彼はまだ言葉にならぬまま感じ始めていた。




