第一話 森を出る日
手に取っていただきありがとうございます。
まだ未熟者ですができる範囲で頑張ります。
よろしくお願いします。
朝は、いつも音もなく訪れる。
最果ての森に夜明けを告げる鐘などない。人の営みがあればこそ必要とされる合図は、この場所には存在しなかった。あるのは、湿り気を帯びた土の匂いと、葉の裏を滑る露の気配と、遥か上空で薄くほどけていく闇だけである。
黒瀬アルトは、目を開いた。
木造の小屋の天井が視界に入る。梁には乾燥させた薬草が吊るされ、窓辺には昨日洗った食器が整然と伏せてある。壁際には薪束が積まれ、机の上には昨夜読みかけた古びた本が閉じられたまま置かれていた。
どこに何があるか、手探りでも分かる。三十年も同じ場所で暮らせば、住まいは身体の延長になる。
アルトは上体を起こし、寝台から静かに降りた。床板は軋まない。軋まぬように組み直したのは二十年以上前だったか、と曖昧な記憶を辿る。
窓を開ける。
冷えた朝の空気が流れ込んできた。森の匂いだった。濃密な緑の匂い。湿った土、樹液、苔、遠くで流れる水、夜のあいだに何かが死に、何かが生まれた気配まで含んだ匂い。
深く吸い込む。
肺の奥まで満ちるその感覚に、安心にも似た慣れを覚える。
ここでは、世界はいつも正直だった。
飢えれば死ぬ。油断すれば喰われる。刃を研がねば獲物は取れず、火を絶やせば夜を越えられない。昨日より今日、今日より明日と、少しずつ整えていくしかない生活だった。
人の言葉より、よほど明快である。
アルトは炉に火を入れ、鉄瓶に水を注いだ。湯が沸くまでのあいだに、外へ出る。
小屋の周囲には簡素な柵が巡らされている。魔物除けの意味は薄い。ここまで来る個体には柵など飾りにもならない。ただ、自分の生活圏と森との境目を示す印として設けているだけだ。
畑には豆と根菜が植わっていた。今朝の露に濡れた葉先を眺め、土の状態を確かめる。悪くない。
その時、背後の茂みが揺れた。
音は一度。続いて低い唸り。
振り返るまでもない。アルトは近くに立て掛けてあった木剣を手に取った。
茂みを割って現れたのは、灰黒の毛並みを持つ狼型魔物だった。肩までの高さは成人男性ほど。牙は短剣のように鋭く、飢えた目がこちらを射抜いている。
この森では中位にも届かぬ雑魚である。
魔物は地を蹴った。
風より速く飛びかかる巨体に、アルトは半歩だけ身をずらした。通り過ぎる首筋へ、木剣を添えるように打つ。
乾いた音。
巨体は地面を二度転がり、そのまま動かなくなった。
アルトは木剣を見下ろし、僅かに眉を寄せる。
「少し力みましたか」
首の骨まで砕けている。食肉として使える部位が減った。
森は、こうして朝の挨拶をしてくることがある。
アルトは狼を解体小屋へ運び、必要な部位を取り分けた。血抜きをしながら、ふと空を見上げる。
木々の隙間から、白い光が差していた。
今日も同じ一日になるはずだった。
薪を割り、獣を捌き、鍛錬をし、読書をし、湯を沸かし、眠る。何ひとつ不満はない。誰にも煩わされず、誰にも期待されず、誰にも失望もしない。
理想的な生活と言っていい。
それなのに。
小屋へ戻り、湯の立つ鉄瓶を前にしても、胸の奥に名状しがたい空白が残っていた。
茶葉を落とし、湯を注ぐ。立ち上る香りを眺めながら、アルトは椅子に腰を下ろした。
前世の記憶が戻ったのは、幼い頃、崖から落ちた時だった。
異世界転生だの、奇跡だの、そんな言葉で片づけるには実感が薄い。ただ、自分がかつて別の世界で四十年ほど生き、働き、人に囲まれ、そして人に疲れた男だったことを知っている。
会議。営業。数字。愛想笑い。理不尽な叱責。空虚な飲み会。表情の読み合い。必要とされることと、都合よく使われることの境界が曖昧な日々。
あの頃、心底願ったのだ。
誰にも会わず、静かに暮らしたい、と。
だから今の生活は、かつて望んだ答えのはずだった。
にもかかわらず、何故。
湯気の向こうで、自分の問いがぼやける。
「……本当に、これで良かったのでしょうか」
誰に問うでもなく呟いた言葉は、小屋の壁に吸われて消えた。
沈黙だけが返ってくる。
その静けさが、今日は少しだけ冷たく感じられた。
◇
昼前、アルトは剣を振っていた。
開けた空間に立ち、ただ一太刀ずつ、同じ軌道をなぞる。斬り下ろし。切り返し。踏み込み。抜き打ち。呼吸と体重移動を一致させ、無駄を削り落とす作業である。
三十年続けても、なお終わらない。
完成とは、たいてい怠慢の別名だと知っている。
十本、百本、千本。
汗ひとつかかぬまま剣を振り続け、ふと動きを止めた。
誰かの気配が近づいていた。
いや、人ではない。アルトが呼び出した使い魔である。
木陰から現れたのは、銀髪の男だった。年若く見える整った顔立ちに、寸分の乱れもない執事服。土の上を歩いているはずなのに靴音がしない。
「主様。昼食の準備が整っております」
「ありがとうございます、セラフィス」
続いて、別の方向からもう一人。
短髪の青年。鍛え上げられた身体つき。無駄のない姿勢。腰には剣。頬に薄い古傷。
「周辺三里、異常なし」
「ご苦労さまです、ヴァルク」
二人は深く一礼した。
彼らは数年前、生活効率の向上を目的にアルトが召喚した存在だった。家事と戦術補佐に優れたセラフィス。護衛と戦闘に特化したヴァルク。
呼んでみたら思いのほか有能で、そのまま定着した。
食卓には焼いた肉、根菜の煮込み、焼き立ての薄パンが並んでいた。森暮らしにしては豪勢である。
「本日の味付けは少々塩を抑えております」
「健康管理までしていただけるとは」
「長生きしていただかねば困りますので」
さらりと言うセラフィスに、ヴァルクが無言で頷く。
食事をしながら、アルトは何気なく口にした。
「街へ行こうと思います」
二人の動きが止まった。
「……主様が?」
セラフィスが珍しく目を瞬かせる。
「何か不足がございましたか。食材、書物、家具、娯楽、敵対勢力。改善いたしますが」
「最後の項目が物騒ですね」
「排除可能です」
ヴァルクが静かに剣の柄へ手を置いた。
「いえ、そうではなく」
アルトは少し考え、言葉を選ぶ。
「私は、人と関わらず生きる方が良いと思っていました。今も、その考え自体は間違っていない気がします。ただ……それだけが答えなのか、確かめてみたくなりまして」
セラフィスは数秒黙り、やがて微笑んだ。
「なるほど。主様にも、そういう人間らしい迷いがおありになるのですね」
「失礼な評価ですね」
「褒め言葉です」
ヴァルクが立ち上がる。
「ならば準備を」
「早いですね」
「主の進路に迷いがあるなら、障害は先に排除する」
「街ごと壊さないでください」
◇
旅支度に大した時間はかからなかった。
必要最低限の荷物。金貨少々。保存食。替えの衣服。剣一本。
小屋の戸口に立ち、アルトは振り返る。
粗末だが、悪くない家だった。ここで長く生きた。ここで強くなった。ここで、誰にも傷つけられずに済んだ。
「……また戻るかもしれません」
誰に言うでもなく呟く。
戸を閉める音が、森に小さく響いた。
◇
最果ての森を抜ける道は存在しない。
正確には、道が維持されない。木々は伸び、地形は変わり、魔物が通行者を喰らう。人が道を作っても、森がすぐ呑み込むのだ。
アルトたちは、その森を歩いた。
巨大な蛇が現れればヴァルクが首を落とし、瘴気を吐く花畑はセラフィスが空間ごと切り取り、谷を塞ぐ倒木はアルトが片手でどかした。
半日後、視界が開けた。
城壁だった。
灰色の石壁が長く連なり、その内側に幾つもの屋根が見える。煙突から白煙が上がり、人の声が風に乗って届く。
久しく聞かなかった種類の喧騒だった。
「ルゼルス辺境都市です」
セラフィスが言う。
「人が多いですね」
「都市ですので」
「帰りたくなってきました」
「却下」
即答だった。
◇
門をくぐると、熱気が押し寄せた。
荷馬車。露店。笑い声。怒鳴り声。子供の走る音。鍛冶屋の槌音。香辛料と汗と獣脂の混ざった匂い。
人、人、人。
アルトは一瞬だけ遠い目をした。
「主様、お顔が死んでおります」
「懐かしい感覚です」
「どれです?」
「人酔いです」
それでも足は止めなかった。
街に来た理由は、ここにある。
「まずは?」
「冒険者ギルドへ」
セラフィスが案内し、石造りの大きな建物へ向かう。
扉を開けた瞬間、酒と熱気と荒っぽい笑い声が溢れた。昼間だというのに賑やかである。
そして、目立った。
整いすぎた執事。隙のない剣士。落ち着き払った青年。
場違いな三人組に、数人の視線が絡みつく。
「おいおい、貴族の坊ちゃんのお散歩か?」
筋骨隆々の男が立ち上がった。背後に取り巻きが三人。
「ここは遊び場じゃねえぞ」
アルトは丁寧に会釈した。
「そうでしたか。失礼しました」
「なめてんのか!」
男が腕を掴もうとした、その瞬間。
ヴァルクが一歩出る。
次の瞬間には、男は床に寝ていた。
何が起きたのか誰にも見えなかった。
取り巻き二人が飛びかかり、同じく倒れる。最後の一人は自ら座り直した。
静寂。
ヴァルクは半歩下がり、元の位置へ戻る。
「通行の妨げだった」
短い説明だった。
奥から大声が飛ぶ。
「……お前ら、ちょっと来い」
ギルド長室の扉が開いていた。中年の大男が腕を組み、こちらを睨んでいる。
アルトは小さく息を吐いた。
「早速、面倒ごとですね」
「人と関わる価値の確認には、良い教材かと」
セラフィスの声だけが、やけに穏やかだった。




