第十二話 まだ震えている
白樺亭の一室は、普段より静かだった。
窓から差し込む午後の光が床へ細く伸び、外では通りを行き交う荷車の音や、遠くの笑い声がかすかに聞こえる。
街はいつも通りに動いている。
だがその部屋の中だけ、時間が別の速さで流れていた。
部屋の隅、壁際。
椅子と寝台の間にできた狭い空間へ身体を寄せるようにして、ルナは座っていた。
膝を抱え、背を丸め、視線は床へ落ちている。
いつでも逃げられるように、しかし逃げ場など最初からないと知っている者の姿勢だった。
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白樺亭の女将は事情を聞き、空き部屋をひとつすぐに貸してくれた。
「子供なら話は別さね」
それだけ言って、余計なことは聞かなかった。
優しさには、詮索しない形もある。
リミアも何度か顔を出し、衣服や日用品を持ってきてくれた。
しかしルナは、誰が来ても口を開かない。
礼も、拒絶も、何もない。
ただ黙っている。
声を失ったのではなく、使う価値を見失ったような沈黙だった。
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最初の食事の時、ルナは皿へ手を伸ばさなかった。
湯気の立つスープ、柔らかなパン、小さく切った果物。
宿の女将が子供向けに気を遣って用意してくれたものだ。
それでも彼女は動かない。
アルトが少し離れた位置から言った。
「食べても大丈夫ですよ」
その瞬間、ルナの肩が強張る。
視線だけが跳ねるようにアルトへ向き、すぐに逸らされた。
怯えだった。
露骨なまでに。
アルトは何も言わず一歩下がる。
代わりにセラフィスが皿を持って近づいた。
「温かいうちにどうぞ」
穏やかな声だった。
ルナは数秒迷い、震える手でパンを取った。
だがその場では食べず、服の内側へ隠した。
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夜、アルトが部屋の見回りに来た時。
寝台の影でルナが固くなっていた。
枕の下には昼のパンが押し込まれている。
乾いて、少し潰れていた。
アルトは見なかったことにした。
「追加の食事を置いておきます」
机に新しい皿を置き、すぐ部屋を出る。
扉が閉まってしばらくしてから、小さな物音がした。
確かめるように、皿へ近づく音だった。
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数日、似たことが続いた。
食事は隠す。
水差しは夜のうちに減る。
誰かが急に扉を叩けば、息を殺して隅へ縮こまる。
廊下で皿の割れる音がした日など、寝台の下へ潜り込んで一時間も出てこなかった。
女将が困ったように頭を掻く。
「よほど酷ぇ目に遭ってきたんだろうね」
アルトは頷くだけだった。
言葉にすると軽くなる種類の痛みではない。
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特にアルトへの警戒は強かった。
部屋へ入れば身体がこわばる。
目が合えば呼吸が浅くなる。
近づけば壁際へ逃げる。
何もしていない。
むしろ助けた側だ。
それでも、怖いのだろう。
男だからか。
大人だからか。
あるいは、力を持っていると本能で感じるのかもしれない。
理屈ではない。
傷ついた生き物が危険を見分けようとする感覚だった。
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ヴァルクはそれを見て腕を組んだ。
「主にだけ厳しいな」
「そういう時期なのでしょう」
アルトは苦笑する。
「助けたのに」
「恩義より恐怖が先にあるだけです」
セラフィスが紅茶を注ぎながら言う。
「人間の心は合理だけでは動きません」
「魔物より難しいですね」
「魔物の方が分かりやすいです」
珍しく三人の意見が一致した。
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それでも、ルナはセラフィスにだけは少し反応した。
彼が部屋へ入っても震え方が弱い。
食事も、彼の手からなら受け取る。
髪を梳かす櫛を見せれば嫌がらず座り、汚れた髪を整えられても暴れない。
「……不思議ですね」
アルトが言う。
「何がです?」
「私と同じような成人男性に見えますが」
「主様は圧があります」
「そんなつもりはありません」
「あるのです」
セラフィスは真顔だった。
ヴァルクも頷く。
「ある」
二対一で負けた。
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ある夕方、セラフィスがルナの傷へ軟膏を塗っていた。
古い鞭痕、擦過傷、痣の名残。
新しいものは癒えても、長く残る傷は消えにくい。
「しみますか」
ルナは首を振る。
声はまだ出ない。
「では続けます」
丁寧な手つきだった。
その様子を扉の外から見ていたアルトへ、ルナがふと視線を向ける。
すぐ逸らされた。
だが、初めて“見た”。
恐怖だけでなく、確認するような目だった。
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その夜、アルトは部屋の前へ新しい本を置いた。
文字の少ない絵本だった。
市場で見つけ、何となく買ってしまったものだ。
翌朝にはなくなっていた。
昼、扉の隙間から中を見ると、ルナが寝台の上で静かに頁をめくっていた。
読むというより、絵を追っている。
指先は慎重で、紙を破らぬよう触れていた。
アルトは声をかけず、そのまま去った。
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数日後。
廊下で物音がした。
宿の酔客が転び、派手に椅子を倒したらしい。
ルナの部屋から小さな悲鳴が聞こえた。
アルトが反射的に扉へ向かうが、途中で止まる。
代わりにセラフィスが入っていく。
しばらくして戻ってきた。
「落ち着きました」
「ありがとうございます」
「主様」
「はい」
「入らなかったのは正解です」
アルトは黙る。
助けたい気持ちが、助けになるとは限らない。
それもまた人との距離なのだろう。
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その夜、三人は食堂の隅で遅い食事を取っていた。
女将がスープを置きながら言う。
「あんた、焦ってんのかい」
アルトが顔を上げる。
「分かりますか」
「分かるさ。子供を見る目してる」
女将は鼻を鳴らした。
「子供ってのはね、腹が減れば食うし、安心すりゃ寝るし、怖けりゃ隠れる。大人みたいに体裁で動かない」
「……ええ」
「急かすと余計閉じるよ」
それだけ言って去っていく。
セラフィスが小さく笑った。
「良い助言です」
「身に沁みます」
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翌朝、アルトはルナの部屋へ入らず、扉の外からだけ告げた。
「本日、街へ出ます。夕方には戻ります」
返事はない。
「何か必要な物があれば、紙に書いて外へ置いてください」
沈黙。
それでも構わず続ける。
「急ぐ必要はありません」
少し間を置く。
「あなたの速度で大丈夫です」
そのまま足音を遠ざけた。
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昼過ぎに戻ると、扉の前へ小さな紙切れが置かれていた。
震える文字で、たった一語。
――みず
アルトはしばらくその紙を見つめた。
それから、静かに笑った。
ほんの少しだけ、扉の向こうから世界へ手が伸びた気がした。




