第十三話 夜に落ちるもの
その夜、ルゼルス辺境都市には雨が降っていた。
春の終わりを告げるような細い雨だった。石畳を濡らし、屋根を叩き、昼の喧騒を洗い流していく。
白樺亭の灯りも早めに落ち、客の多くは部屋へ引き上げている。
酒場の一角では数人の常連が小声で杯を交わし、女将は帳簿を閉じ、暖炉の火を見ていた。
「……嫌な雨だね」
ぽつりと呟く。
長く商売をしてきた者の勘だった。
何か起こる夜の空気には、理由のない湿り気がある。
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二階の一室。
ルナは寝台の端へ座り、膝を抱えていた。
昼に書いた紙切れ――みず、と震える文字を書いた小さな勇気は、枕の下へしまってある。
誰にも見せたくない宝物のように。
窓の外で雨音が続く。
その規則的な音は、少しだけ心を落ち着かせた。
部屋の机には新しい水差しが置かれ、食事も温かいうちに運ばれていた。
誰も無理に入ってこない。
誰も怒鳴らない。
まだ信じ切れない。
けれど、ここ数日で知った。
この場所では、眠ってもいいのかもしれないと。
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隣室ではアルトが椅子に座り、本を開いていた。
頁はしばらく前から進んでいない。
意識は別の場所にある。
「来ますね」
セラフィスが窓際で告げた。
カーテンの隙間から外を見たまま、声だけが静かに落ちる。
「人数は」
「正面三、裏口五、屋根上二。周囲で待機がさらに十ほど」
ヴァルクが立ち上がる。
「多いな」
「組織の面子もあるのでしょう」
アルトは本を閉じた。
「やはり報復ですか」
「奴隷市場の件で相当な損失です。証拠も押さえられましたし」
セラフィスは淡く笑う。
「逆恨みとしては分かりやすい部類です」
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アルトは立ち上がり、ルナの部屋の方角を見る。
「彼女を起こさずに済ませたいですね」
「承知しました」
ヴァルクの返答は短い。
セラフィスは一礼した。
「では、騒がしくなる前に片付けます」
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一 宿を襲う者たち
白樺亭の裏路地。
黒布で顔を隠した男たちが雨の中で息を潜めていた。
「合図で一斉に入る」
低い声が飛ぶ。
「男三人は殺せ。ガキは回収だ」
「本当にここにいるんだな?」
「間違いねぇ。今夜は護衛もいねぇ」
嘘だった。
護衛どころではない。
彼らは、まだそれを知らない。
男たちは短剣、棍棒、弩を構え、宿の裏口へ近づく。
軋む扉へ手をかけた、その時だった。
「ようこそ」
扉が内側から開いた。
そこに立っていたのは、銀髪の執事服の男。
セラフィスである。
雨音の中でも、その笑顔だけが妙に鮮明だった。
「本日はご宿泊でしょうか」
「……殺れ!」
先頭の男が叫ぶ。
次の瞬間、地面が沈んだ。
男たちの身体が一斉に石畳へ叩きつけられる。
腕も脚も持ち上がらない。
肺から空気が抜け、悲鳴すら潰れた。
「深夜の来客ですので、少々静かに願います」
セラフィスは雨に濡れぬよう一歩横へずれ、男たちの上を歩いていく。
靴音すら上品だった。
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二 屋根を走る刃
同時刻、屋根上。
二人の弩兵が窓から室内を狙っていた。
「合図まだか――」
言葉は最後まで続かなかった。
背後から風が抜ける。
振り向いた時には、そこにヴァルクがいた。
いつ現れたのか分からない。
月もない夜、雨の屋根の上で、その存在だけが異様に鮮明だった。
弩兵が武器を向ける。
遅い。
ヴァルクの手刀が一人の顎を打ち抜き、男は白目を剥いて倒れた。
もう一人が短剣を抜く。
半歩。
それだけで間合いが消える。
柄頭が鳩尾へめり込み、男は胃液を吐いて崩れた。
ヴァルクは倒れた二人を見下ろし、短く呟く。
「うるさい」
雨だけが答えた。
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三 正面突破の末路
正面玄関では三人の荒くれ者が扉を蹴破っていた。
女将が奥でフライパンを握りしめている。
「このクソ宿が!」
「どこだあのガキ!」
叫びながら踏み込んだ先、食堂の中央に誰かが座っていた。
蝋燭の灯りの中、紅茶を飲んでいる。
セラフィスだった。
「……おや」
彼は首を傾げる。
「裏口担当を終えて戻ったのですが、まだいらしたのですね」
「ば、化け物か!」
「失礼な」
男が斧を振り下ろす。
その軌道は途中で止まった。
斧ごと腕が横へ逸らされ、次の瞬間には男の身体が床へ綺麗に叩きつけられている。
別の男が飛びかかる。
椅子が浮いた。
いや、投げられた。
椅子は男の顔面へ正確に命中し、鼻骨を折って昏倒させた。
三人目は逃げようとした。
扉の前にヴァルクが立っていた。
男は泣いた。
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四 一夜で終わるもの
襲撃者たちは各所で制圧され、逃走した者も街角で次々と捕らえられた。
衛兵が到着した時には、仕事の大半が終わっていた。
縛られた男たちが並び、女将が呆れ顔で床を掃いている。
「うちの宿、最近物騒すぎないかい」
「申し訳ありません」
セラフィスが丁寧に頭を下げた。
「修繕費はこちらで」
「そういう問題でもないけどね」
だが女将の口元は笑っていた。
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その中で一人だけ、別格の男がいた。
金刺繍の外套。
太い指輪。
護衛に囲まれていたはずの男。
裏組織の首領である。
彼だけはヴァルクに首根っこを掴まれ、二階へ引きずられていった。
「離せ! 俺が誰か分かってるのか!」
「知っている」
ヴァルクは無表情に答える。
「重い」
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五 静かな怒り
アルトの部屋。
首領は床へ投げ出された。
転がるように起き上がり、怒鳴る。
「貴様ら終わりだぞ! 俺の後ろには貴族も帝国商会も――」
「そうですか」
アルトは椅子に座ったまま言う。
怒鳴り返しもしない。
脅しに動じもしない。
ただ、その視線だけが冷えていた。
「では、あなたの後ろにいた方々も今夜終わるのでしょう」
「な……」
セラフィスが机へ帳簿を積む。
「押収品です。賄賂、誘拐、密輸、暗殺依頼。なかなか多彩ですね」
首領の顔色が変わった。
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アルトは立ち上がる。
ゆっくりと男の前まで歩き、見下ろした。
「弱者を売って得た金で、生きやすかったですか?」
声は静かだった。
怒鳴る方がまだ優しい。
そこにあったのは、冷え切った怒りだった。
「し、仕方ねぇだろ! 世の中そういうもんだ!」
「そうですか」
「弱ぇ奴は使われる! 俺は上手くやっただけだ!」
「……なるほど」
アルトの瞳がわずかに細くなる。
「あなたは、人が壊れる音を聞きながら、自分だけ快適だったのですね」
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六 漏れたもの
その時だった。
部屋の空気が震えた。
蝋燭の火が真横へ引き伸ばされる。
窓ガラスが細かく鳴り、床板が軋む。
アルトの周囲から、淡い光が滲み出していた。
魔力。
普段は完全に抑え込まれている膨大な力が、怒りによって僅かに漏れたのだ。
僅かに。
それだけのはずだった。
だが街全体では違った。
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中央通りでは、人々が一斉に空を見上げた。
夜空の一角が白く揺らぐ。
光の霧のようなものが都市上空へ広がり、目に見えるほど濃密な魔力が空間を満たしていく。
魔術師たちは膝をついた。
「なんだ……この圧……!」
「息が……重い……!」
ギルド本部ではシルヴェスターが窓を開け、絶句していた。
「……冗談だろ」
彼は悟る。
上位種討伐の時ですら、あれは本気ではなかったのだと。
リミアは宿直室から飛び起き、青ざめた。
「アルトさん……?」
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七 裁き
部屋の中では、首領が失禁していた。
言葉にならない悲鳴を漏らし、床を這って逃げようとする。
アルトは一歩も追わない。
ただ立っているだけで、男の心が砕けていく。
「セラフィス」
「はい」
「衛兵へ引き渡してください」
「承知しました」
「公開の場で裁かれるべきです」
それだけ言うと、アルトは目を閉じた。
深く息を吐く。
溢れた魔力がゆっくり収束していく。
街の上空の光も、霧のように消えていった。
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八 残響
静寂が戻る。
首領は気絶し、衛兵へ運ばれていく。
セラフィスは割れた窓を見て肩を落とした。
「修繕費が増えました」
「すみません」
ヴァルクは腕を組む。
「主、怒ると光る」
「やめてください」
そこへ、扉の隙間から小さな顔が覗いた。
ルナだった。
物音で起きたのだろう。
まだ震えている。
だがその目は、恐怖だけではなかった。
アルトを見ている。
圧倒的な力を持ちながら、誰かを守るために怒った人を。
アルトはしゃがみ、できるだけ穏やかに言った。
「驚かせてしまいましたね」
ルナは答えない。
けれど、扉は閉じなかった。
それだけで、この夜には十分な変化だった。




