第十話 止まった足
宴の翌朝、街は二日酔いの匂いで始まった。
中央通りには普段より静かな時間が流れ、昨夜遅くまで騒いでいた酒場の前には、潰れた木杯と眠ったままの男が転がっている。
ルゼルス辺境都市らしい平和だった。
白樺亭の食堂でも、いつもより声量は低い。
ヴァルクは平然と朝食を食べていた。
「昨日、相当飲まされていませんでしたか」
アルトが問う。
「飲んでいない」
「注がれてはいましたよ」
「全部捨てた」
「器用ですね」
セラフィスは紅茶を口に運びながら微笑む。
「主様は?」
「一杯だけ付き合いました」
「その結果、深夜まで知らない方々の人生相談に巻き込まれていましたね」
「なぜ酔うと皆、過去を語りたがるのでしょう」
「弱くなるからです」
容赦のない答えだった。
アルトは小さく息をついた。
昨夜は騒がしく、疲れた。
だが不思議と、嫌な疲れではなかった。
誰かに礼を言われ、肩を叩かれ、同じ卓を囲んで笑う。
森では得られなかった種類の消耗だった。
「本日はどうされますか」
セラフィスが問う。
アルトは少し考えてから答える。
「街の裏側を見ようと思います」
ヴァルクの食事の手が止まる。
「昨日も見た」
「表面だけです」
「充分汚かった」
「だからこそ、です」
アルトの声は静かだった。
「見たくないものほど、見なければ分からない」
⸻
宿を出ると、昼前の陽光が石畳へ落ちていた。
中央区は相変わらず活気に満ちている。焼き菓子の匂い、商人の呼び声、笑い声。
だが一本路地へ入れば、それらはすぐ薄れる。
建物は古くなり、壁はひび割れ、通りを歩く者たちの目つきが変わる。
生活の明るさが、少しずつ削られていくようだった。
セラフィスが周囲を見ながら言う。
「この先は裏区画です」
「正式な名称ではないのですね」
「役所は別の呼び方をします。再開発予定区域、旧労働者街、治安改善重点地区……」
「便利な言い換えですね」
「現実から目を逸らす言葉ほど整っております」
アルトは何も言わず歩いた。
⸻
さらに奥へ進む。
通りは狭くなり、陽も届きにくい。
酒と汗と排水の臭いが混じり、湿った空気が肌へまとわりつく。
壁際には痩せた老人。顔を伏せる女。裸足で座り込む子供。
誰も助けを求めない。
求めても無駄だと知っている顔だった。
アルトの歩幅が少しだけ重くなる。
前世にも、似た景色はあった。
表通りの明るさの裏で、人は簡単に置き去りにされる。
世界が違っても、人間の構造は大きく変わらないらしい。
⸻
やがて、人だかりのある広場へ出た。
笑い声がする。
陽気な声だ。
だが、その種類が違うとすぐ分かった。
「こちらへどうぞ! 若く健康な労働力だ!」
「魔力持ちの娘もいるぞ!」
「今ならまとめ買いで値引きだ!」
檻が並んでいた。
鉄格子の中に、人がいる。
男、女、老人、少年。
首輪を付けられ、手枷をされ、商品札を下げられている。
売られていた。
アルトの足が止まる。
視線だけが静かに前へ進む。
商人たちはよく通る声で値を叫び、客たちは家畜を見るように歯を確かめ、腕を持ち上げ、背を叩く。
檻の中には泣く子供もいた。
だが多くは泣いていない。
泣いても変わらぬと知った目だった。
⸻
ヴァルクの手が剣の柄へ触れる。
「斬るか」
低い声だった。
「まだです」
アルトは答える。
だがその声音は、これまでで最も温度がなかった。
セラフィスが静かに周囲を観察する。
「合法枠と非合法枠が混在していますね」
「違いは」
「帳簿があるかないかです」
「中身ではなく」
「ええ」
アルトの目が、わずかに冷えた。
それは怒号でも殺気でもない。
もっと静かな、底の深い冷たさだった。
⸻
広場の奥。
日陰になる位置に、小さな檻が置かれていた。
客足の多い場所ではない。
目立たぬように、しかし売り物として並べられている。
そこに、一人の少女がいた。
痩せ細っている。
年は十前後だろうか。銀に近い淡い髪は汚れ、頬はこけ、手足には痣と古い傷が幾重にも走っている。
衣服は布切れ同然だった。
膝を抱え、うずくまっている。
誰も見向きもしない。
商品価値が低いと思われているのだろう。
だが――
目だけが死んでいなかった。
深い闇の底に、小さな火種だけが残っているような瞳。
怯え、諦め、飢え、それでもなお消えていない何かがあった。
アルトは完全に立ち止まる。
⸻
「主様」
セラフィスが呼ぶ。
返事はない。
アルトは檻の中の少女を見ていた。
少女もまた、こちらを見ている。
逃げるような視線ではない。
助けを求める目でもない。
ただ、見定めるような目だった。
この男は殴る側か、売る側か、それとも何もしない側か。
そんな問いを含んでいるように見えた。
アルトの胸奥で、古い記憶がわずかに軋む。
逃げるしかなかった幼い日。
価値で値踏みされる視線。
人が人を物として扱う空気。
忘れていたはずの感触が蘇る。
⸻
商人が気づき、にやつきながら近づいてきた。
「お客さん、お目が高い!」
脂ぎった顔に作り笑い。
「そいつぁ見た目はボロいが、珍しい血筋かもしれねぇ。髪色見りゃ分かるだろ?」
アルトは視線を外さない。
「名前は」
「知らねぇよ。番号ならある」
「年齢は」
「十かそこらだろ」
「傷は」
「躾だ」
その一言で、空気が凍った。
商人だけが気づいていない。
ヴァルクが一歩前へ出る。
セラフィスの笑みが消える。
アルトはなお静かだった。
静かすぎるほどに。
⸻
檻の中の少女は、目を細めた。
恐怖でも期待でもない。
ただ、何かが変わる前の気配を察したように。
アルトはゆっくりと商人へ向き直る。
「……この子を買えば、あなたの所有権は消えるのですね」
商人は下卑た笑みを深める。
「もちろんだ。金さえ払えばな」
アルトは頷いた。
その仕草は穏やかで、礼儀正しかった。
だが目だけが、氷のように冷えている。
セラフィスは小さく息を吐く。
「これは……終わりましたね」
ヴァルクは短く言った。
「商人が」
広場の喧騒は続いている。
誰もまだ知らない。
この瞬間、街の均衡がひとつ崩れ始めたことを。




