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「それで、いじめられたの?」

 愚問。

 いい加減話すことに疲れを感じはじめていた一帆は、ミネラルウォーターのペットボトルを冷蔵庫から取りだした。

「いじめられたよ。女子特有の、思い切り陰湿なやつ。教科書を隠されるとか、変な噂を流されるとか。体育着が男子更衣室から見つかったこともあったね。上手なものだよ、犯人は明らかでも、証明できないようにやるんだから」

 笑みを引っ込め神妙な顔つきの三人には、いじめられた経験がないようだ。いじめと無縁だったとは思えない。ひょっとすると、加担する側だったのかもしれないし、傍観していたのかもしれない。

 やっかむつもりはないが、一帆は思う――幸せな人生を歩んできたのなら、勇気を出した親友に対して無神経なことを言うくらいには、鈍感になっても仕方がなかろう。

 冷たい水で喉を潤した。

「さっちゃんは助けてくれた?」

「うん。それはもう、何度も。隠し場所を教えてくれたり、時々行き過ぎたいじめにストップをかけてくれたりしたよ。まあ、何より嬉しかったのは、変わらずベンチで一緒に話してくれたことだけどね」

 一帆の記憶の中の咲は、嘘を吐かない人物だった。実際には、和佳奈に嫌われないよう上手に世渡りする、嘘にまみれた賢い少女だということはわかっていたが、その範囲内で一帆を守るという約束を守ってくれたのだ。澄ました顔で同級生たちを転がしながら、胸の奥には熱い正義感を抱いていた。

「そりゃ、好きにもなるよね……」

 聴衆からそんな言葉が漏れて、一帆は自分が初恋の話をしているのだと、ようやく思い出すのだった。

「それで、このあいだ再会したときの話になるんだけど――」

「え、どうしてそんなに話を飛ばしちゃうの?」

 待ったがかかった。

 強引な話の展開には物言いがあるだろうと一帆自身も想像していたので、思った通りの言動をとる彼女たちの単純さに、つい失笑してしまう。

「だって、これは恋の話でしょ? さっちゃんが私の味方をしていたのがバレて、ふたりまとめていじめられるようになって、別々の高校に進学して疎遠になった話なんて、必要ないと思うな。そのいじめも、ますますひどくなるんだよ? ほかに好きな人がいるって私が嘘を吐いたせいで、たくさんの男子を振らなきゃいけなくなって、結果ほとんどのクラスメイトの恨みを買って孤立、和佳奈ちゃんと同じ進学先の高校では、フラれた男子から謂れもなく淫乱呼ばわりされたり、男子を好きにならない気色悪い同性愛者だって噂を流されたりして、最後には不登校にもなったんだけど……そういう話をしてもいいかな?」

 嫌な顔をされた。

 いま話題は恋と愛について絞られているのだから、それでいい――一帆はそう思いつつも、つらいいじめの経験を聞かずに済ませようとする友人たちに、寂しさを感じずにはいられないのであった。




 就職も決まり、卒業論文に注力するようになってから、成人式でも顔を見せなかった一帆に、地元で不意に再会した。

「もしかして、いーちゃん?」

 団地の中を、その風景に似合わないくらいの美女が歩いていると気がついたとき、それが一帆だとすぐにわかった。知らず知らずのうちに、彼女を探していたせいかもしれない。会って謝りたいと思っていたから。

「久しぶりだね、咲」

 幸福そうな笑顔にわたしはほっとしたのだが、特別でも何でもないその呼び方に、心臓にヒビが入ったかのような痛みを覚えた。

「あの……久しぶりに会って早々で悪いんだけど、ずっと謝りたかったの。ごめんね、わたし、いーちゃんを最後まで守れなくて――」

「久しぶりに会って早々で悪いと思うなら、場所を変えない?」

 彼女のその物言いが自分のそれに似ていて、わたしは心底驚いたのだった。



 駅前には色気のない居酒屋くらいしかなかった。それでも一帆は、安く済むならそれでいい、と遠慮とも諦めともつかないふうに、煙草臭い座敷の店に入ることを同意してくれた。

 コートを脱いだ彼女は、スーツを身に纏っていた。

「あ、ごめん。臭いがつくようなところで」

「この店でいいって言ったのは私だから、気にしないで。それに、なんとかできないわけではないから」

 優しい物言いの中に、どこかわたしを突っぱねるようなところがある。

 やはり、嫌われているらしい。

「きょうは何をしていたの?」

「内定もらった会社から呼ばれたの。ガイダンスみたいなものかな? 先月内定をもらったばかりなんだ」

 わたしよりも数か月遅い内定、よほど苦労したのだろう。

 その苦労の一端に、わたしがいたのだろうか。彼女のあらゆる苦悩は間違いなく、わたしが彼女に寄り添えなかったこととつながっている。

 高校生のあいだ離れ離れになっていても、彼女がいじめられているとか、不登校になったとかいう風の便りは耳に入っていた。その便りを届けてくれたのが、わたしとともに和佳奈の取り巻きをつくっていたひとりであることには、自分で自分を嘲笑してやりたい。

 場末の居酒屋にも、お洒落でおいしい甘いお酒がいくらか置いてあった。彼女が一杯しか飲まなかったので、わたしも一杯でやめることにしたのだが、お酒があるだけで雰囲気は違った。他愛無い話で一時間以上笑っていることができた。

 嫌っていてもこれだけ相手をしてくれるなら、それでいいと思えた。しかし、胸の奥に刺さった棘を抜かない限り、この時間が終わったあとにはまた息苦しくなる。一帆もそうだろう。わたしも一帆も、この苦しみから救われなければならない。

 就職に苦労した愚痴を話しているとき、わたしは決心して切り出した。

「ねえ、いーちゃん。いーちゃんに散々苦労させたわたしのことは、嫌い?」

 唐突な問いかけに、一帆は眉間に皺を寄せた。

「そんなことないよ。私を守ってくれて感謝してるし、いまでも友達だと思ってる」

「特別な友達? 途中で逃げ出して、いーちゃんを最後まで守れなかったのに?」

「うん、そうだね。特別だよ」

 相変わらず長い髪がきらきらと輝いている。アルコールで少し紅潮した頬が可愛らしい。首筋にはかつてなかった色気が浮かびはじめているようだ。大学生活でも、多くの男たちを虜にしてきたに違いない。

 そんな彼女を守り抜けなかった反省は尽きないが、それでも感謝してくれることが誇らしかった。


「ねえ、いーちゃん。私と付き合うって選択肢は……ないかな?」


 人生の中でこれほどまで勇気を振り絞ったことがあっただろうか。和佳奈のいじめから彼女を守るときにも、そうしたいからそうしたまでであって、勇気を要した経験はない。自分がいじめられているあいだも、言い返すことに恐怖はなかった。

 でも、いまは一帆の顔を見ることができない。

 一帆は穏やかな声で訊いてきた。

「咲、どうしてそんなふうに考えたか、聞かせてくれる?」

 まだ顔は上げられない。

「ずっと引っかかってたの。いーちゃんは、いないはずの好きな人がいることにして、男子からの告白を断り続けていた。でも、変だよね? 最初のうちは、適当に付き合ってから振る手もあると思っていたはずなのに、一度もそうしなかった。関係がこじれるからそうできない気持ちもわかるけれど、嘘に片をつけるほうがいーちゃんにとっては大切だったかもしれない。断り続けていじめられるなら、違う手を打とうとも考えられる。だから、最近考えるようになったの。もしかして、いーちゃんは男の人と恋愛するのが、たとえそれが形だけでも嫌だったんじゃないかって。女の人と恋をする人なんじゃないかって。噂で聞いたからそう思ったのも否定しないけれど、わたしは自分の経験からそう思うの。いーちゃんがわたしを好きでいてくれたなら、そういうことがあっても受け容れようって」

 ほかに好きな人がいるという方便が、嘘ではなかったとしたら。

 男子が代わる代わる告白しても、そのたびに告げられる方便。それがほかに好きな「男性」がいるという意味だったなら、本命がいつまでも見つからない謎が生じてしまう。でも、好きな「女性」がいたならばどうか。

 高校生たちは、それに気がついて彼女を罵ったようだが、わたしはそうしない。わたしは今度こそ、いーちゃんのそばにいたいのだ。

「咲はそれでいいの?」

「うん、迷いはない。何人か男の人と付き合ったこともあるけれど、どれも満たされなかった。でも、いーちゃんが相手なら、きっと幸せになれる。だから、わたしもいーちゃんを幸せにしたい」

 顔を上げると、一帆は穏やかな笑みを湛えていた。

「プロポーズみたいだね、びっくりした」

「ええと……」

「咲の言う通り、私は女の人を好きになる。咲のことも、ずっと好きだったよ」

 その言葉に、わたしがどれだけ救われたことか。

 涙が出るのを堪え、わたしは彼女の微笑みに応える。

「ごめんね、いままでずっと気がつかなくて。いーちゃん、生きにくい世の中で苦しかったよね。わたしが気づかなかったばっかりに、嘘に始まり、就活まで尾を引いて――」

「でも」

 息が止まった。


「ごめん。気持ちは嬉しいけれど、いまの咲と付き合う気にはなれないかな」



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