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水を飲むと気分が和らいだ。
喉が渇く感覚はあまりなくても、漆原とふたりきりの教室で、マンツーマンの特別レッスンとなれば息が詰まる。水分補給は、喉を潤すよりも、その息苦しさを解消するために必要不可欠である。開始前に三十分で休憩を取ると約束して正解だった。
教室に戻ると、漆原が俺の座っていた座席の少し後ろに立って、黒板に自分が書いた文字や数字を眺めていた。
「戻りました。何してるんすか?」
「ああ、五分後に再開だぞ。……いやな、どうすれば栃尾にもわかりやすいか考え直していたんだ」
「その芋虫みたいなのを見せられているうちはずっと意味わかんないです」
「芋虫って……数直線だよ、教えただろう」
教わったのは憶えている。教わっていないと主張するつもりはない。でも、わかっているかは別問題だ。
「もうすぐ二年生になるんだから、プラスとマイナスくらいは理解しないと。これから余計に苦しくなる。いまのうちに、少しでも、一緒に何とかしよう」
俺が心配されるような成績なのはよくわかっている。改善したくないはずがないし、それに焦る気持ちだってないわけではない。漆原の言葉は、正論なだけに反論はできないが、胸にチクリと刺してきて、苛立ちを沸き立たせる。
だから、何か思いついたように板書を消す漆原の背中に、俺はまたあの名前を口にしてしまう。
「赤松のほうが頭悪いのに……」
その音量は、いつも赤松にだけ聞こえるようにしている声と同じなのだが、放課後の静かな教室では漆原の耳にしっかりと届いてしまう。
「栃尾」
明らかに低くなった声に、彼の感情が動いたことがわかる。
「赤松は赤松で頑張っているんだ、認めてあげないと」
漆原の言葉はすぐに、心の中で「きれいごと」として処理される。
赤松は全科目で俺より成績が悪い。それどころか、学年で最下位なのは間違いない。テストで一桁の点数なんてザラにある。この前の期末テストでは、なぜだか別室で試験を受けていた。ひどいなんてものではない。
それ以外にも、小学生の書くような汚い文字やパーツの位置関係が滅茶苦茶な漢字とか、勉強ができないくせにノートも開かない授業中の態度とか、赤松の出来の悪さを示すことは山ほどあった。俺以上の劣等生なのは明らかだ。
そのようなことを言い返すと、漆原は大きく息を吐いた。
「赤松だって好きでそうなっているわけではない。栃尾もそうだろう?」
その通りだ。
でも、親を含めて周りの誰もが、俺が好きで落第生をやっているように言ってくる。
「えこひいきですね」
イライラする。
みんな、わかっているようでわかっていない。
「なあ、栃尾」
漆原の表情と声色は、また少し変化する。えこひいきという批判にはコメントせず、話題をすり替える。
「赤松に謝ったか?」
「え? 喧嘩とかしましたっけ?」
「何度もひどいことを言われたと、本人から伝え聞いている」
チクったな、という赤松への苛立ちが重なった。もう数学をしていられる気分ではない。
「赤松は傷ついたと言っている。さんざんひどいことを言ったそうじゃないか。ほかにも、思い当たることがあるはずだぞ」
「それなら自分で言ってくるはずじゃないですか。俺に向かって、謝れって」
「楽に言えることではないだろう。それを言ったら――」
と、ここで不自然に漆原は言葉を切った。怒りの表情を引っ込めると、いくらか考えてから再度口を開く。
「……先生も赤松に謝らないといけないな。秘密にしていてほしいと言っていたのに、栃尾に話してしまった」
意味がわからない。
「俺に謝ってほしいくせに、それを俺に秘密にしていたんですか? どうして? 理由は?」
漆原は首を横に振る。
「それが秘密なんだ」
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「謝ってもらうようなことではないと思うけれど」
赤松の目を見ないようにと視線を向けていたコーヒーカップを、彼女はすっと取り上げた。俺が逃げ腰になっていることを見抜いているかのごとく。
そんな小さな仕草にも、赤松と比べて、自分がいかに未熟かを感じされられる。四年間異郷の地で学び続けたことが生む差なのかもしれない。
「誰だって他人のひとりくらい、からかったりバカにしたりすることもあるでしょ。中学生くらいの年頃なら、なおのこと」
「…………」
「それに、いくら昔のことでも、自分をバカなんて言うものじゃないよ。気持ちはわからないでもないけどね」
「……教師になるだけあるな」
唇を濡らしてからも胸元に留めていたカップを、静かにソーサーに置いた。「そういうことじゃないよ」と呆れた顔で薄く笑いながら。
「栃尾は、私のほうがバカだと思っていたでしょ?」
その一言は、それまで俺を優しく諭していた言葉をひっくり返した。「許さない」という意志表明としか思えなかった。
すべては俺が赤松のことを「バカだ」と思ったことに尽きるのだ。そして、そう思っていても彼女から反撃されないと悟って味を占めると、何を言っても、何をしてもいいような気がしてしまったのだから恐ろしい。彼女に対して自分が向けた言動で思い出されるのは、何もかもひどいことばかりだ。
自分のことを棚に上げておいて。
「こんなことを訊く自分がバカだとは思うんだが」自分のカップのコーヒーに自分の顔が映っている。我ながら無様な表情だ。「怒っているよな?」
きょう何度目かの沈黙。
胸がざわざわする。
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新しい担任は、つい先日まで大学生、十歳も年齢が離れていない男だった。
漆原がベテランだったことを思うと、両者の担任としての振る舞いには、かなりの差があった。生徒を注意して口答えされるとそれ以上相手を説得することができないし、話がまとまっていないのに話しはじめてチャイムにさえぎられる。出席簿を職員室によく置き忘れる。チョークだってしょっちゅう折る。階段にけつまずく。
学活の時間を割いて行っていた個人面談も、俺の順番が回ってくるころには一学期が終わろうとしていた。
「漆原先生から聞いているよ。数学が苦手だって」
のほほんとした語り口で、単刀直入に俺の問題点を指摘する。自分が国語の担任だからといって、真剣に考えていないのかもしれない。楠本はことあるごとに「数学は納豆よりも嫌いだった」と笑っていたくらいだ。
「でも心配しなくて大丈夫でしょう」楠本は組んだ指を動かして、どこか遊んでいるようでもある。机の上には俺の成績を書いた資料ひとつさえ置かれていない。何かメモを残そうという様子もない。「中間テストの成績によれば、国語や英語はよくできていたし、ほかの教科もだんだんと伸びている。もちろん数学だって」
口を尖らせるくらいしか、何となく浮かぶ不満をぶつける方法がなかった。
「世の中数学がすべてじゃないですよね」
「何を言っているんだ、いまの栃尾には数学がすべてだよ」
意味が解らず、はあ、と漏らした声に、楠本は短く笑った。新しい担任は、個人面談の場でも冗談を言うのか。
「大丈夫、栃尾は成長しているよ。漆原先生も、そう言っていた」
もっと厳しいことを言ったほうがいいか、と問うので「さあ」と答えておいた。
赤松にも同じことを言っていたのだろうか。




